「思考の道具」としてのアニメ

アルバ・G・トレンツ(バルセロナ自治大学哲学科博士課程在籍)



国際交流基金(ジャパンファウンデーション)は、日本に関わる研究を行う学者・研究者を日本に招へいしています。2014年度フェローとして、昨年10月から1年間、京都精華大学で「アニメにおけるアイデンティティ」について研究をしているアルバ・G・トレンツ氏に、「『思考の道具』としてのアニメ」と題してご寄稿いただきました。



『鉄腕アトム』から『新世紀エヴァンゲリオン』へ

 科学技術の進歩、それに技術と人との関係は、昔からアニメの二大テーマとされてきました。日本初の本格的連続テレビアニメ『鉄腕アトム』は、人型ロボットの人間社会での活躍を描いた作品です。以来約50年近いアニメの歴史を通じて、同じ主題が様々な形で描かれてきました。他のメディアで描かれる場合と同様、SFアニメの世界でも科学技術には、人型ロボットと無機質な機械という2つの理想形があるように思われます。しかしある意味で、アニメにおける科学技術の役割はそれよりもはるかに複雑です。アニメに描かれる科学技術は、ロボットでもなければ機械でもありません。私の研究では、多くのアニメはいわば「思考の道具」と見なすことができ、アニメは科学技術的な視点からロボットや機械を描くだけでなく、それ自体が科学技術をはじめ様々な概念を考えるための道具でもあるという主張を展開します。
 アニメ作品の中には、物語に馴染まない場違いなシーンや会話、背景、音楽などが混在するため、特に解釈が難しいものもあります。こうしたアニメは見る者を、その作品なしには不可能な独自の考察へと導いてくれます。代表的な例は、『新世紀エヴァンゲリオン』です。『新世紀エヴァンゲリオン』は、ロボットアニメの表現技法からの逸脱と理解を拒む難解性から、その解釈をめぐりネット上の掲示板などで無数の議論や憶測を呼び起こしました。
 私たちは得てして、考える能力を持ち、少なくとも考察といった高次の思考を行えるのは人間だけだと信じがちです。しかし果たして本当にそうなのでしょうか。動物にも、一種の思考能力を持つものがいるという意見もあるでしょう。植物にもこれと似た能力があるという主張さえ、あるかもしれません。私たちが、人間以外の物体やプロセスを、思考能力を備えた存在として思い描くことは少なく、たとえ想像する場合であっても、前述の2種類――独自の人格を備えた意識を持つ人型ロボット、または人間の思考を補助するだけの道具である無機質な機械――に落ち着きがちです。
 私の研究でいう「思考の道具」という概念は、一種の言葉のあやではありますが、重大な事実を指摘するものでもあります。この概念は、「思考のための道具」と「(それ自体が)思考する道具」という2つの意味を持つと考えられます。それはいわば、独立したロボットと単なる道具の中間に位置する存在です。私が「思考の道具」を論じたい理由のひとつは、私自身が、思考とはまず何よりも異なる存在間の複雑な関係性であり、その主体(すなわち、誰が思考しているか)を特定するのは時に容易でないと考えているからです。



様々な「思考の道具」としてのアニメ

 世の中にある様々な制度や装置を、「思考の道具」とみなすことができます。たとえば建物は、空間やそこを通過する多様な情報を分配し、内外で生じる相互作用を構造化するという意味で、「思考の道具」になり得ます。芸術作品などの文化的所産も、「思考の道具」とみなされるに相応しいです。文化的所産は、主体と情報体系の相互的な関係性を生みだすだけでなく、人間の世界に対する関わり方を大きく変える力があるという意味で、決定的な重要性を持つ可能性があります。
 ほとんどの文化的所産は従来、「テキスト」として解釈されています。伝統的に「手段」とみなされてきたテキストと、「思考の道具」の間には概念的に大きな開きがあります。テキストを手段と捉えることで、テキストから生じるものに意味が付与されます。この「メッセージ」とは、テキスト以前に(おそらく作者の頭の中に)存在するか、または後から(読者や見る者の頭の中に)発生するものです。「思考の道具」という時、私は意味の生成が動的に分散されるプロセスを指しています。ここでの意味とは、見る者と道具の相互作用の最中に生まれるものであり、一方的に伝達される固定的なメッセージではありません。
 こうした要因もあって、アニメ(トーマス・ラマール *1の分析に従い、私はアニメを基本的に、視聴者の知覚的な関与を目的とする動画技術と理解しています)は「思考の道具」の格好の例となっています。アニメを鑑賞する際、視聴者と作品は意味形成の共同プロセスに関与します。このプロセスの主体、すなわち「それを行う人」はひとりではありません。アニメは単なる手段や呼び水ではなく、意味形成のプロセスに積極的な役割を果たします。
 加えて、ある種のアニメ(『新世紀エヴァンゲリオン』『少女革命ウテナ』『魔法少女まどか☆マギカ』などでは、物語と「付加的な物語」の間に一種のやりとりが見られ、視聴者の主体性だけでなく、対象物が思考に独自のルールを設定できることを示しています。



見る者の思考を変革するアニメ

 物語の最も重要な特徴のひとつは、一定の秩序に従わねばならない点にあります。物語は必ずいくつかの要素や瞬間に分割することができ、こうした要素が決まった形で配列されねばなりません。その意味で、物語の各要素は必ず閉ざされた集合体を形成します。しかし前述の作品を注意深く見ると、この物語の秩序に反する要素、語りという観点では説明しきれない逸脱点が数多く見受けられます。この逸脱点を、ここでは付加的な物語と呼びます。物語の論理はある種の閉ざされた時間軸を通じて機能しますが、付加的な物語はこの閉鎖性を断ち切り、見る者に別の種類の時間軸を強制します。その顕著な例が『新世紀エヴァンゲリオン』の25話、26話です。両話では直線的なストーリー展開が放棄され、ナレーションの基盤となる時間軸が別のものにとって代わります。これはアニメを見る人の存在を意識し、視聴者自身に考えさせようとする重要な試みだといえます。
 また物語は常に主観的なものであり、いかなる場合もある程度は「既に解釈がなされた」状態にあります。むろん、だからといって解釈が開かれたプロセスになり得ないわけではありません。ある要素が常に新たに異なる解釈を受ける場合もあれば、解釈されないままに終わる要素もあるでしょう。正確に言えば、視聴者が絶えず物語を「作り上げている」ため、(アニメ作品のストーリーといった)物語の諸要素それ自体は物語でもなければ、「付加的な物語」でもありません。しかしひとつには、解釈を拒む要素が存在するが故に、その作品は「思考の道具」として機能し、こうした要素が作品に対して批判的な側面を与えます。もちろん、これはアニメに限ったことではありません。たとえばデビッド・リンチやデビッド・クローネンバーグらが監督した数々の実写映画も、この種の要素に満ちています。とはいえアニメにはいくつかの特殊性があり、それによってひときわ興味深い事例となっています。
 第一に、アニメやアニメーションでは一般に、視聴者が登場人物と直接向き合います。確かに声優はいますが、アニメキャラクターの身ぶりや行動が生身の声優に左右されることはありません。そのため、たとえ「演技している」とはいえ、伝えられる理性や感情の動きを何らかの形で演者の主観性と関連づけざるを得ないという、演劇に見られる一般的な登場人物との関係性から自由になれます。アニメでは、視聴者との関係の中でアニメという媒体そのものが、表現する役割を担います。
 第二の特殊性として、アニメでは特定の表現技法の反復、再現が多用されます。アニメには、主に作者の「内面性」を表現していると解釈される作品は少なく、そうした試みが多少なされる場合であっても、アニメの表現技法自体への頻繁な言及という形に限定されます。『AKIRA』『新世紀エヴァンゲリオン』『少女革命ウテナ』など、画期的、常識を覆すなどと時に評される作品であっても、その抜本的な変革の可能性は、あくまでも特定の作品ジャンルに対するスタンスや表現技法の見直しにあります。表現技法の反復と修正を通じて、視聴者は個々の作品だけでなく、アニメという体系全体と相互に関わることができます。
 ある種のアニメが見る者に特定の考察を促す仕組みを研究することは、アニメやその視聴者との関係を探る興味深い新たな方法になるだけではありません。突き詰めれば、アニメは単なる娯楽の手段や受け身で視聴する対象ではなく、私たちに影響を与え、見る人の考え方を変革する存在です。それ故に、こうした研究は重要だと考えられます。アニメを「思考の道具」と捉えることで、批判的思考を促すアニメの可能性を理解すると同時に、アニメと視聴者の関係全体を見直すことができます。



編集部 注追記: *1 トーマス・ラマール (Thomas Lamarre) マギル大学教授。日本の小説や批評の翻訳を多数手がけ、日本のポピュラー・カルチャーを扱う学術雑誌『Mechademia』の共同編集者も務める。





animation_tool01.jpg アルバ・G・トレンツ
バルセロナ自治大学哲学科博士課程在籍。コルドバ国立大学博士課程(コミュニケーション学)にも在籍し、「アニメにおける身体、技術およびアイデンティティ」(仮題)をテーマに博士論文を執筆予定。バルセロナ自治大学哲学科卒業、現代哲学修士号取得。主な研究分野は、日本のアニメに見られる身体、技術、個性化の相関関係の分析を通じた、アニメにおけるアイデンティティの研究。アルゼンチン国家科学技術研究会議の助成に基づく研究の後、現在は、国際交流基金フェローシップを得て京都精華大学で研究に携わる。英語での著作に『Mechademia 9: Origins』への寄稿論文、『京都精華大学紀要』第47号への論文掲載(近日刊行)など。




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