雑誌『をちこち(遠近)』
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「ブックロード」と「筆談」に見る東洋的な文化交流のスタイル

王 勇(浙江工商大学東亜研究院 院長・教授)



中国の主要な交易品が絹であったことに由来し、中央アジアを東西に貫く交易路が「シルクロード」と称されるのに対し、日本と中国の間では書物を通じた知的交流がメインだったことから「ブックロード」という概念を提唱。また、西洋の音声言語による聴覚コミュニケーションに対し、東洋では文字言語による「筆談」が重要なコミュニケーション手段であったことに着目。こうした独創的なアプローチによって日中の知られざる文化・学術交流史に光を当ててきた王勇氏に、2015年度国際交流基金賞が授与されました。王勇氏が歩んできた「ブックロード」から「筆談」へと至る研究の道のり、そして日中間に見られた特徴的な文化交流スタイルとは――。白居易の詩句『琵琶行』の一節を借り、「此の時、声無きは声有るに勝る」と題して行われた受賞記念講演を、ダイジェストしてご紹介します。
2015年10月22日 国際交流基金JFICホール「さくら」での2015年度 国際交流基金賞受賞記念講演より)

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2015年度 国際交流基金賞授賞式(2015年10月19日)

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2015年度 国際交流基金賞受賞記念講演会で登壇した王勇氏


なぜ、「シルクロード」ではなく「ブックロード」なのか

科学、人文の分野を問わず、全ての発見は、素朴な疑問から始まります。「ブックロード」という概念も、私がある疑問を持ったことによって生まれました。

発端の一つは、唐の時代を代表する詩人、王維の詩です。
「君に勧む 更に尽くせ一杯の酒 西のかた 陽関を出づれば故人無からん」
王維はこの有名な送別詩で、陽関を一歩越えた西域は地理的には近いが、文化や風俗が異なる別世界であるため心理的には遠いということを表現しました。
ところが、遣唐留学生として唐に渡った阿倍仲麻呂に向けた王維の送別詩を読むと、中国から見て日本は距離的に遠い世界にもかかわらず、親しみを感じていることが伝わってくる。すなわち王維は、日本を心理的に近しい世界であると捉えているのです。
こうした西域と日本に対する感じ方の違いは、どのような背景によって作られたのか。私が二つの詩を読み比べて持ったこの疑問は、さらなる疑問へとつながりました。

中国から西域を経てヨーロッパへと通じる交流の道は、「シルクロード」と呼ばれています。それには異論がありません。シルクは中国から西側の国々に伝わったわけですから。
一方、陸続きではない中国と日本を結ぶ航路は「海のシルクロード」と言われますが、本当にそれでいいのだろうか。日中の交流に「シルクロード」という表現を用いることに対しては、私は少なからず疑念を抱かずにはいられませんでした。

遣隋使の時代に聖徳太子は「国家に書籍が未だに多からず」であることから、小野妹子を隋に派遣して書籍を買い求めさせます。隋が滅んだ後は遣唐使が派遣され、その際に遣唐使たちは、東アジアで貨幣として通用したシルクを旅費として持ち込みました。
果たして、日本製のシルクと中国製のシルクをわざわざ交易するでしょうか。そんなことをしても何の意味もありません。
西側の遣唐使は確かに、シルクを買い求めました。しかし、日本の遣唐使が持ち帰ったのはシルクではなく、書籍だったのです。だから私は、中国と日本の交流の道を「ブックロード」と名づけました。



千年にわたる日中交流の「筆談」の歴史

「シルク」と「ブック」に象徴されるように、「中国と西域」と「中国と日本」とでは、交流の内容が異なります。それのみならず、交流の仕方そのものにも特色があったのです。

先ほど、小野妹子が本を求めて隋に渡ったことに触れました。聖徳太子の伝記物によれば、この時、小野妹子は湖南省の衡山に登り、3人の老僧と面会します。言葉が通じない者同士、一体どのような方法でコミュニケーションを成立させたのか。彼らは「筆談」によって交流したのです。
遣唐使の時もそうでした。一度の渡航で数百名の使節が派遣されたけれども、随行した通訳はたったの数名。ほとんどの遣唐使は、筆談を交流の手段に用いたわけです。

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スライドを提示しながら「筆談」について解説 

言葉が通じないから筆談を思いついたのかといえば、決してそうとは限りません。たとえ相手と話すことができたとしても、あえて筆談を選ぶケースもあったようです。
また、重要な内容を扱う場合や文学的なやり取りをする時なども、筆談が用いられました。たとえば、漢学者で詩文家の石川鴻斎は中国公使館員らと筆談で詩を交わし、『芝山一笑』という詩文集を刊行しています。
日本と中国の間で1871年(明治4年)に締結された近代で最初の条約「日清修好条規」でも、筆談を含めた書写形式が用いられました。第6条には「両国の交渉には漢文を用い、和文を用いるときには漢文を添える」とあります。
つまり筆談は偶発的なものではなく、実は、千年に及ぶ日中交流の歴史の中で意図的に用いられてきたコミュニケーションの手段だったのです。

ただし、筆談は日本と中国の間だけで威力を発揮したわけではありません。「日清修好条規」6条に「漢文を用い」とありますが、この「漢文」は中国語のことではなく東アジアで共通して用いられる文字、つまり漢字を指している。実際、日本人と朝鮮人、日本人と琉球人、琉球人と台湾人、琉球人と福建人の筆談も残っています。東アジアではまさに、筆談が交流の重要な手段だったと言えるのです。

残念なことに筆談記録の多くは埋もれているのですが、孫文と彼を支援した宮崎滔天との筆談は保存されています。また、日本に留学していた若き周恩来が美術学校の学生と交わした筆談も残っています。今後、貴重な資料がさらに発見されることを願わずにはいられません。



西洋では音声言語を絶対視し、東洋では文字言語を重要視する

かつてアメリカに1年間滞在していた時に、筆談についていくら説明しても、アメリカ人に理解してもらえませんでした。「耳や口が不自由な人が筆談するならわかるが、健常者同士がなぜ筆談をする必要があるのか」と不思議がるのです。筆談は西洋では、通常のコミュニケーション手段の範疇に属していないのでしょう。

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王勇氏は東洋と西洋の言語に対する捉え方の違いにまで言及

スイスの言語学者ソシュールの説には、「言語と文字とは異なる2種類の符号体系」とあります。文字の唯一の存在理由は、音声を再現することにある、と。すなわち、音声がなければ文字が存在する意味はないと言っているわけです。しかしこれは、東洋の実情にはまったく当てはまらない考え方だと思います。

私は昨年、復旦大学日本研究中心特別招聘教授に就任した際、「無声の対話 Silent Dialog」という題で講演しました。「筆談」とせず「無声の対話」としたのは、西洋を意識してのことです。
筆談は「静話」と言い換えることもできますが、小さな声で話すことではありません。筆談は音声を必要としない。音声がなくても意思の伝達は可能であり、十分に会話は成り立ちます。つまり、筆談は「無声の対話」。それで私は、「Silent Dialog」としました。

西洋では音声言語を交流手段として絶対視し、文字を視覚符号として軽視する傾向があります。東洋の認識は違う。音声は聴覚で捉えるものであるから一瞬のうちに消え、空間的に流布しない。一方、文字は視覚によって理解するものであり、時間的には古今に伝承し、空間的に伝播する。ですから、私たち東洋人は文字を重要視します。

言葉が通じないことでできる音声言語の壁は、交流の大きな妨げになります。東洋人はその壁を、筆談という方法で突き破ってきました。それはやはり、漢字という表意文字の力によるところが大きいと思います。
みなさんもきっと経験があるはずです。漢字の場合はたとえ読みがわからなくても、見ると何となく意味を理解することができるのではないでしょうか。

西洋人の中には、5か国語も10か国語も操る超人がいます。聴覚の発達によってもたらされた彼らの恐るべき言語能力に、東洋の人々は目を見張るかもしれません。しかし逆に西洋の人は、東洋人が何百何千もの複雑な図形のような文字を理解できることに驚きます。

東洋人、西洋人それぞれに、長所もあれば短所もあります。短所をクローズアップするのは愚かなことです。東洋人として自信を持ちましょう。私たちには素晴らしい長所があるのですから。

(編集:斉藤さゆり/講演会の撮影:相川健一)





bookload06.jpg 王 勇
1956年、浙江省平湖県生まれ。1982年杭州大学外国語学部日本語科卒業。1983~1984年「大平学校」に在籍。1987年に北京外国語学院(北京日本学研究センター)にて修士号取得、1996年に総合研究大学院大学(日本)にて論文「聖徳太子と中国文化」で論文博士号取得。現職は浙江工商大学東亜研究院院長・教授、復旦大学日本研究中心特別招聘教授、浙江省哲学社会科学重点研究基地首席教授。




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