小説の力は国境を越えて

キム・ヨンス(小説家)



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 海外から作家約20人を招いて開催された東京国際文芸フェスティバル2014。2013年のフェスティバルでは欧米の作家が中心でしたが、今年はアジア文学にも目を向け、アジア諸国からも作家が招待されました。国際交流基金(ジャパンファウンデーション)の特別協力、国際文化会館の共催で行われたシンポジウム「いま、アジアで『文学する』こと」に登壇した韓国の作家、キム・ヨンス氏に、東京国際文芸フェスティバルでの海外の作家たちとの交流、日本の作家である平野啓一郎氏との対談、日本の読者との交流を振り返っていただきました。

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「東京国際文芸フェスティバル」に参加

 私の短編集『世界の果て、彼女』の日本語版を刊行したクオン出版社のキム・スンボク氏から一通のメールが届いたのは、2013年12月4日のことだった。2014年2月28日から3月9日まで「東京国際文芸フェスティバル」が開催されるが、主催者側が私を招待したいと考えていることを伝える内容だった。私は東京でそのようなイベントが開かれることを知らなかった。メールには、初めて知った文芸フェスティバルの簡略な説明が添付されていた。その説明によると、2013年2月に始まったこのフェスティバルは、1回目は主に欧米圏の作家が招待されたが、2回目の今回は門戸を広げてアジアの作家のためのフォーラムも開催するとのことだった。

 東京国際文芸フェスティバルというイベントが私にはとても興味深かった。なぜなら、私は2006年に第1回「ソウル若手作家フェスティバル」という、これに似たフェスティバルの企画に参加したことがあるからだ。世界の若い作家たちの交流の場を設けようという趣旨で開催されたイベントには、英語圏、フランス語圏、スペイン語圏、東洋語圏など、多様な言語で書く作家が参加することになった。文学は自国語をもって行う芸術なので、翻訳や通訳という過程を経るしかない。そのため、作家同士の対話にも翻訳や通訳の媒介が必要となる。それを必要としない音楽や美術、あるいは言語的な制限が一部分である映画や演劇などに比べて、文学の交流はハンディキャップが大きいほうだ。東京ではこのような限界をどのように解決していくのか、まずはそれが気になった。

 文学には言語の壁が存在すると言ったが、人と人の出会いには言語的なものと非言語的なものが同時に行き交うということはもちろん知っている。それはさまざまな国の作家が参加した2006年のイベントでも経験しており、2008年から2年ごとに韓国と中国と日本を行き来しながら三ヶ国の作家が交流する「東アジア文学フォーラム」でも実感することができた。特に日本の小説家とは、これまで何度も会うチャンスがあって、会うたびにますます互いの理解が深まることを実感している。平野啓一郎島田雅彦川上未映子各氏は、ここ数年、私が何回も会うことができた小説家である。韓国で翻訳された彼らの小説を読んで、実際に彼らと会い、小説を読んで想像していた彼らと実際の彼らが大きく違わないという安堵感を覚えながら、私たちの友情はより強いものになった。しかしそのような過程が完璧な意思の疎通によってなされたわけではないのだ。

 私が羽田行きの飛行機に乗ったのは、東京文芸フェスティバルの真っ最中の3月5日だった。東京に着いて、私はこのフェスティバルについてより詳しく知ることができた。前記したように、東京文芸フェスティバルは2013年から始まり、毎年開催される予定である。2013年はノーベル文学賞の受賞者であるJ.M.クッツェーのほか、ジュノ・ディアス、ジョナサン・サフラン・フォア、ニコール・クラウスなど欧米圏の若い作家が参加し、日本の作家たちと文学について語り合った。今年は2013年のジュノ・ディアスをはじめ、ジェフリー・ユージェニデス、デイビッド・ミッチェルなどの欧米圏の作家が参加した。また、作家だけでなく、イギリスの文芸誌である『グランタ』とアメリカの『ニューヨーカー』などの編集者が参加していることも印象深かった。私が参加するプログラムである「いま、アジアで『文学する』こと(Writings from Asia)」は、欧米圏の作家だけが参加した昨年と違い、アジア出身の作家の話を導くため新たに設けられた。参加したのはマレーシア出身でイギリス在住の小説家タッシュ・オー、タイの小説家ウティット・へーマムーンと私、そして日本では中島京子が参加したし、平野啓一郎が司会を務めた。

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(左)平野啓一郎氏。『日蝕』で第120回芥川賞を受賞
(右)中島京子氏。『小さいおうち』で第143回直木賞を受賞




アウトサイダーとしての文学体験

 3月6日の夕方6時半、六本木の国際文化会館で開かれたプログラムに参加した私たちは、どのような経緯で作家になったのかについて語ることで話を始めた。タッシュ・オーは複数の民族と文化が混在するマレーシアの事情を説明して、アウトサイダーの立場から小説に惹かれたと語った。アウトサイダーとしての文学体験というこの観点に他の参加者が共感し、これはこのプログラムの非公式テーマとなった。ウティット・へーマムーンは思春期に読んだ三島由紀夫の翻訳小説を例にあげて、文学とは「主流の観点からかけ離れた場所で社会を見つめること」であることに気づいたと述べた。私は彼らの文学体験と似ていること、そして、非主流やアウトサイダーの観点としての文学が逆説的に作家と読者が共感し合える地帯を広めていくことを話した。

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(左)マレーシアのタッシュ・オー氏。ホイットブレッド賞、英連邦賞、O.ヘンリー賞受賞
(右)タイのウティット・ヘーマムーン氏。『ラップレー、ケンコーイ』で東南アジア文学賞を受賞


 日本も同じだろうけれど、韓国では西洋に比べてアジアの文化と観点には比較的関心が低い。隣国である中国と日本はそれでも翻訳書が多いので馴染みがあるが、台湾の小説でさえ読んだものは少ない。ましてやタイやマレーシアのような東南アジア諸国の小説については、ほとんど知らなかった。このプログラムのおかげで、私はこれまで一度も聞くことのできなかった東南アジアの作家の話に耳を傾けることができた。だが、彼らの小説家への道すじは、私の経験と大きく変わらなかった。まず、私たちが影響された文学作品のリストが似ていて、現在の各国における小説というジャンルが占める地位もさほど変わりはなかった。社会を新しい角度から見つめようとする試みこそ小説家の基本的な徳目だという事実は、どこの国においても同じだった。私たちはアウトサイダーの小説家というアイデンティティが創作意欲となって私たちを導いてきたことに、同意することができた。

 この日、客席からは「あなた方は新しい作品が出れば主要紙にレビューが紹介されるような作家なのに、アウトサイダーの小説家といえるのか?」といった質問があった。この質問に対して、タッシュ・オーは初めて出した自分の本の書評が載った新聞を読んだ時の経験を話すことで返事に代えた。書評には作品を評価する内容が続くのかと思ったら、最後のところに「それでもやはり、Nevertheless」という言葉が出てきたので、すぐに新聞を閉じてしまったと、それからはまったく書評を読まなくなったと話した。会場をどっと笑わせたこの返事は、つまり小説家は作品だけで評価される者だから、常に失敗する可能性のある存在であることを意味した。小説家という地位が、彼の成功を保証したりはしない。そうした意味で「主流小説家」とは、形容矛盾に近い。私はそうした彼の話がとても興味深かった。小説家の経験はどこでも類似していることを再確認できたからだ。

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写真提供:日本財団



キム・ヨンス×平野啓一郎 対談

 私が参加した二番目のプログラムは、以前から交流のある平野啓一郎氏との対談だった。私の短編集『世界の果て、彼女』が日本で翻訳出版されたので、これに合わせて新宿にある紀伊國屋書店で読者を迎えての対談だった。平野氏との縁は2006年に遡る。国際交流基金の事業で彼が韓国を訪問した際に講演会が開かれ、その司会を私が務めたのが始まりだ。当時、私には日本の作家に会うチャンスがほとんどなかったので、彼はどういうことを考える人なのか気になった。政治的に韓日関係はいつも緊張状態にあり、あの時も今と別段変わりはない。それで自分と同年配の日本の小説家はどのように思っているのかが気になったが、案外私と変わらないことがわかったのだ。「ハンギョレ新聞」に掲載する対談のために再び会った時、私たちは政治や歴史の話ではなく、ロック・ミュージックに関する話から始めた。後で知ったが、二人の好きなロック・ミュージックは似ていたのだ。そうした縁はそれからもずっと続き、私が訪日する時や彼が韓国に来るたびに、私たちは会って友情を深めることができた。

 彼の小説のほとんどが韓国語に翻訳されているのに対し、私の作品は短編小説三編が日本語に翻訳されているだけだった。今回『世界の果て、彼女』が単行本として出版されたのを誰よりも喜んでくれたのが平野氏だった。彼はこの本に感動的な推薦文を書いてくれただけでなく、さまざまなツールを通じてこの本が日本の読者に届けられるように架け橋の役を買って出てくれた。これまでも私は彼の歓待と配慮に深い印象を受けてきたが、今回は感謝という言葉だけでは言い表せない恩を受けたのだ。これまで、私は文学交流とはただの修辞に終わる言葉でないことをしばしば経験してきた。当初は立場があまりにも違う両国の小説家が、歴史や政治的な問題について語り合うのが可能だろうかという疑問もあったが、出会って10分も経たないうちに、それは杞憂に過ぎないことが分かった。私はすでに平野氏の小説を読んでいたので、彼が考えていることをある程度察することができた。しかし、日本語に訳された私の作品がなかった間、彼は若干不安だったかもしれない。私の短編集が翻訳されて、彼が自分のことのように助けてくれた理由は、作品を通じて私たちがよりよく理解することができるという信頼があったためかもしれない。

 そうした点からも両国の関係が緊張しているほど、より多くの交流がされなければならないと思う。文学を通じて、私たちは他国の生活の様子や価値観を間接的に体験することになり、それは互いを尊重し合う態度へとつながる。これは私が実際に経験したことでもある。私が十代だった1980年代まで、韓国では日本の大衆文化の輸入が禁じられていた。日本の映画、音楽、アニメーション、ドラマ、漫画などは韓国に紹介されなかったのだ。それで韓国人は、日本人が実際はどのような生活を送っているのか、何を考えているのか、全く知る術がなかった。日本人は特定のイメージでだけ存在したが、マスコミによって作られたそのイメージは、実際の日本人を理解するのに最も大きな障害となった。それでも小説は翻訳されていたが、同時代のものでない近代小説や大衆小説が主流だったので、日本小説の読者は研究者や一部のマニアに限られていた。1990年代から村上龍、村上春樹、島田雅彦、よしもとばなな等の小説が翻訳されるようになり、韓国では本格的な日本小説のブームが起きた。私もその頃から日本の小説を読んできた世代になる。それらの小説は日本の社会と日本人に対する私の見方を完全に変えてしまった。似たような傾向が当時、日本小説にはまった多くの韓国の読者の間に起きたのではないだろうか。

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理解の第一歩は、他者に対する関心から

 平野氏との対談のため新宿の紀伊國屋書店を訪れた時、私はクオン社の案内で店内の韓国小説コーナーに行ってみた。ソウル市内の大型書店・キョボ文庫に並ぶ日本の小説に比べて、そこにある韓国小説の数はあまりにも少なかった。私はこの数こそ相手を理解する程度の現れだと思う。私たちはこんなに翻訳しているのだから、私たちのものもそれだけ翻訳してほしいとか、意味のあることだから市場の反応が鈍くても、信念を持って翻訳してほしいとお願いをしているわけではない。これが現実であることを言いたいだけだ。
 今回の短編集の出版に関する日本の新聞社のインタビューのなかには、最近の韓日政府間の緊張関係について話を聞きたいという申し出があった。私にとって日本はあまりにも多くの関心項目があって、中でも興味があるのは文学と映画と音楽、あるいは都市と食べ物のようなものだ。しかし、その人にとって韓国を考える時の関心は、歴史と政治のようなものしかないのだろうか。韓国に対する認識がそれほど貧弱なものなのだろうか。日本を訪れた韓国の小説家たちが歴史と政治に関する質問の答を持っているだろうと日本の記者が考えるとしたら、それには当惑してしまう。日本の小説家たちがそのような質問に困惑するならば、それは韓国の小説家にとっても同じことなのだ。要するに、私たちはたいして違わないのだ。

 にもかかわらず、対談の場に集まった日本の読者の情熱は私を驚かせた。紀伊國屋書店の新宿南店6階には50人あまりの読者が待っていてくれたが、もしかしたら政治的な質問や韓国文学全般のような、一般的な質問がされるかもしれないといった私の推察とは違い、彼らの質問はあまりにも具体的なものだった。例えば「レイモンド・カーバーの作品を翻訳したそうだが、小説を書くのに翻訳は役に立つと考えているのか。だとすればどのように役立っているのか」のような内容だった。私はその質問をした若い男性読者の顔をじっと見つめるしかなかった。それは韓国の読者からもしばしば聞かれる質問だったからだ。おもしろい質問もあった。「大江健三郎賞では受賞した若い作家の作品が英訳されるチャンスを与えているが、もしキム・ヨンス氏と平野啓一郎氏が自分の名前のついた文学賞を作るとしたら、どんな副賞を与えたいのか」というのもあった。この質問に平野氏は自分の名前のついた文学賞を作る気などないと答えたが、それは私の考えと同じだったので、少し驚いた。しかし、平野氏が先に答えてしまったので、私は他の返事をするしかなかった。言葉や文化の壁など感じられない活発な質問と返事が行きかった。

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 順序がさかさまになったが、対談のはじめに平野氏は韓国を訪問した時のエピソードを紹介して、韓国人読者の彼に対する長い間の関心を説明した。2005年、国際交流基金の招待で私が訪日して講演会を行った時は、韓国文学や私について知っている観客がほとんどいなかったため、自己紹介と韓国文学に対する全般的な説明と、その中での自分の小説の位置を説明するのに多くの時間を費やした。しかし今回は、長い間交流をしてきた平野氏が自分の観点から私を紹介してくれたので、日本の読者に少しは近付くことができたと思う。また、今回出会った方々は8年前の観客に比べて、もっと読者のような感じがした。座談会が終わってからも個人的に質問をしてきたり、作品そのものに対する興味が強かったのだ。そして8年前に比べて、韓国語を話せる方々が多くなっていることにも気づいた。以前は私に韓国語で話しかける人のほとんどは在日同胞だった。韓国に対する関心が少しずつ韓国文学へと移っている実感もできた。これは非常に好ましい現象だろう。韓国人が日本の小説を読みはじめ、日本人や日本文化に対する偏見が少なくなっていったのと同じことが始まっているように見えるからだ。8年ぶりに作家として再び東京を訪ねて、やっと初の翻訳書が出たのに過ぎない私が鼓舞されたのは、その8年間の変化がこのように大きかったからだ。

 東京文芸フェスティバルに参加し、アジアの作家たちとお互いの文学について語り合うことができたのはとても興味深い経験だった。対話を通じて差異を理解し共通点を確認する時、小説は一国の境界内だけに留まるのではなく、国境を越えて人類の普遍的な価値に向かって進むことができるという事実を新たに確認することができた。会場には作家の話を聞くために多くの観客が座っていた。私は、目を輝かせながら異国から来た作家の話に耳を傾ける彼らから小説の力を感じた。理解の第一歩は、他者に対する関心から始まる。小説は常に他者の人生について語ってきた。他者の人生、見慣れない風景、遠い国.........依然として私は見知らぬ人を理解するのに小説ほど良い方法はないと思っている。なぜなら小説を読むことは、自分ではない他者になって、その人生を一度生きてみることと同じだからだ。その意味で韓国でも日本でも、より多くの外国の小説が翻訳され活発に読まれることを願う。

写真提供:クオン出版社(「キム・ヨンス×平野啓一郎 対談」以降)





power_of_the_novel11.jpg キム・ヨンス(金衍洙)
1970年、慶尚北道生まれ。成均館大学英文科卒。93年、「文学世界」で詩人としてデビュー。翌年、長編小説『仮面を指して歩く』を発表し、高く評価されて以来、『グッバイ、李箱』で東西文学賞(2001年)、『僕がまだ子どもの頃』で東仁文学賞(2003年)、『私は幽霊作家です』で大山文学賞(2005年)、短編小説『月に行ったコメディアン』で黄順元文学賞(2007年)を受賞し、新時代の作家として注目されてきた。2009年『散歩する人々の五つの楽しみ』で韓国で最も権威ある李箱文学賞を受賞。韓国文学を牽引すると同時に、若者たちを中心に熱烈な支持を得る人気作家である。小説のほかエッセイ『青春の文章』『旅行する権利』『私たちが一緒に過ごした瞬間』など、作家・キム・ジュンヒョクとの共著『いつかそのうちハッピーエンド』なども、多くの読者を獲得している。



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