300年にわたるロシアでの日本語教育の系譜に連なって

ステラ・アルテミェヴナ・ブィコワ(モスクワ国立大学付属アジア・アフリカ諸国大学日本語学科長)



 モスクワ国立大学付属アジア・アフリカ諸国大学日本語学科は、日本語教育の普及・発展に50年以上にわたり尽力し、日露両国間のかけ橋として貢献してきた功績により、2014年度国際交流基金賞を受賞しました。以下、ステラ・アルテミェヴナ・ブィコワ学科長による受賞記念講演「モスクワ大学における日本語教育と日本語・日本文学の研究」の内容をご紹介します。

(2014年10月16日 国際交流基金 JFICホール「さくら」での講演会より)


russia_japanese01.jpg russia_japanese02.jpg
平成26(2014)年度国際交流基金賞 授賞式

russia_japanese03.jpg
平成26(2014)年度 国際交流基金賞 受賞記念講演会


モスクワ大学における日本語教育の歴史

  ロシアで日本語教育が始まったのは18世紀の初め、1702年です。ロシアと日本は隣国同士なので、昔日本の船は海難に遭い、それらの船に乗った人がロシアに入ったこともありました。歴史上初めてロシアで日本語を教え始めたのは伝兵衛という人です。伝兵衛はカムチャツカの沖で遭難し、ピョートル大帝の命令を受けて1702年に日本語を教えはじめました。1736年、ロシア科学アカデミー付属日本語学校が創立され、日本人のゴンザが日本語を教え始めました。当時は最初の日本語教科書、辞典などが作られました。なかにはロシア史上初めての、1万2千の言葉を収録した露日辞典があります。18世紀の中ごろシベリアのイルクーツクでは日本語学校が開かれました。ロシアに入った日本人は洗礼を受けて新しい名前が付けられる習慣がありました。当時作られた教材、辞書を見るとユニークなものはイルクーツク日本語学校の教師アンドレイ・タタリノフによる『露日辞典』ではないかと思います。アンドレイ・タタリノフは東北出身の漂流民・三之助の息子で、日本名はさんばち(三八)といい、父と同様に東北出身でした。だからこそ、1000の言葉が載ったこの辞典は歴史上初めての「東北弁の辞典」となりました。1870年、サンクト・ペテルブルグ大学で日本語教育課程が始まり、だんだん日本語教育の基盤が置かれてきました。1899年にはウラジオストクで東洋大学が創立され、日本語が教えられ始めました。
 以来、19世紀を経て1950年代まで、日本語教育はサンクト・ペテルブルグを中心に行われていました。モスクワでは20世紀の30年代に当時モスクワに開かれた東洋学大学で日本語教育が始まったのです。戦後、有名な研究者であり、日本、中国の研究をなさっていたN.コンラッド先生、日本語の理論を考案なさっていたN.フェルドマン先生が、サンクト・ペテルブルグからモスクワに移住し、モスクワで日本語、日本文学、日本文化の研究を始めてからモスクワは日本語教育、日本学の中心となりました。コンラッド先生は日本語の理論を開発しながら、『伊勢物語』、『源氏物語』など、日本古典文学の研究をなさる一方で、それらの作品の最初の断片的な翻訳をなさいました。コンラッド先生は日本、中国の優れた研究者であるだけでなく、とても魅力的な人でしたから、若い研究者はコンラッド先生に「光源氏」のイメージを重ねて、冗談半分に先生のことを「プリンス・ゲンジ」と言っていました。最初、モスクワ大学では日本語は2つの学部、つまり文学部と歴史学部で教えられていました。
 1956年にモスクワ大学付属東洋語大学が設立されて、後に今の名、すなわちアジア・アフリカ諸国大学と名を変え、日本語教育だけでなく、東洋学全体として大きな刺激を受けて、多面的な発展が可能なものになりました。東洋語大学は全国の東洋語教育の中心となってきました。現在、日本語は第二外国語としてモスクワ大学のジャーナリズム学部、国際政治学部、地理学部、心理学部などの学部でも教えられていますが、アジア・アフリカ諸国大学が中心です。ロシア教育省の定めによりアジア・アフリカ諸国大学は東洋語、東洋学の主要教育機関であり、全国の東洋語教育の基準を作る任務を負っています。
 東洋語大学の歴史に戻りますと、1956年に設立されたばかりの東洋語大学では日本語学科の他に中国語学科、インド語学科、ペルシア語学科、東南アジア言語・モンゴル語・韓国語学科、アフリカ諸国学科などの学科が次々に生まれてきました。日本語学科はアジア・アフリカ諸国大学でもっとも長い歴史を持つ、1956年から教育を行っている学科です。日本語学科が設立されてから今まで日本語教育そのものだけでなく、日本語学、日本文学、日本語教育方法の分野における研究を進めてきました。日本語学科の創立者は皆傑出した大学者ばかりだったと言っても言いすぎではありません。
 1962年まで日本語学科は極東東洋語学科といい、学科長はN.パユソフ先生でした。パユソフ先生はロシア史上初めて文語、草書、候文の教科書を作りました。A.リャブキン先生は日本語を教えながら、有島武雄の『或る女』、島崎藤村、芥川龍之介の作品などの翻訳をなさいました。L . ロバチョフ先生は教育課程に日本語史のコースを導入しました。当時、母国語が日本語である教師は一人だけで、日本共産党の創立者である片山潜の娘、片山やす先生がいました。片山やす先生は日本語会話を教えていましたが、ほかにもいろいろな活動をしていました。他の教師と一緒に日本語学科による最初の教科書を作り、日本の文化、習慣を紹介していました。片山先生はいろいろな才能に恵まれ、若い時クラッシック・バレエもしていました。
 日本文学の有名な研究者、翻訳家であるI.ヨッフェ(ペンネームはリボヴァ)先生が樋口一葉による『にごりえ』、井原西鶴、近松門左衛門、徳冨蘆花の『黒潮』、芥川龍之介の作品などの翻訳をなさいました。特に、ヨッフェ先生による『平家物語』のロシア語訳は傑作といってもいいほど素晴らしいもので、前書きそのものも日本史、日本文学に関する優れた論文です。この先生はサンクト・ペテルブルグ大学を卒業して、学生時代にコンラッド先生の指導を受け、日本文学、日本文化に関する深い知識をもっていました。ヨッフェ先生は日本文学を教え、多くの日本文学の研究者を育てました。ヨッフェ先生の活動や研究が非常に高く評価され、日本語学科の史上初めて、日本の勲章である旭日章を授与されました。
 科学アカデミーとの協力も発展して、コンラッド先生が年に2、3回は大学生のために講演を行い、日本語学科だけでなく、大学のいろいろな学科の教師、学生が集まり、熱心に聞いていました。コンラッド先生が講演をする予定があると分かれば、大学はお祭りのような明るい雰囲気に満ちていました。

russia_japanese04.jpg  1962年に日本語学科の発展に新しい段階が始まりました。モスクワ大学、すなわちアジア・アフリカ諸国大学では日本語教育の主な原則と教育方法が完全に形成され、学科の名前も変わり、日本語学科と呼ぶようになりました。そして、1962年、優れた東洋学者で日本語の研究者であるI.ゴロヴニン教授が学科長になりました。ゴロヴニン先生は1991年まで学科長をし、「ゴロヴニン先生の時代」と言ってもいいほど華やかな時代が続きました。その時期に日本語教育の新しい方法が導入され、新しい教科書、教材が作成されました。ゴロヴニン先生はヨッフェ先生と同様、大学院でコンラッド先生の指導を受けました。ゴロヴニン先生は日本語を教えるだけでなく、日本語論に関するさまざまな研究を行っていました。特に日本語の文法論における貢献が大きく、数多くの論文だけでなく、著書の『現代日本語の文法』と『現在の日本語シンタクス入門』は現在にいたるまでたいへん高く評価されています。
 また、ゴロヴニン先生は若い研究者の指導も行い、私自身も含めて、日本語学科の博士の半分くらいはゴロヴニン先生の弟子です。モスクワ大学だけでなく、他の大学の卒業生も大学院に入り、ゴロヴニン先生の指導を受けました。特にウラジオストクにある極東連邦大学の日本語学科のスタッフのなかにゴロヴニン先生の教え子が多くいます。それと同時に、芥川龍之介など日本文学の作品の翻訳をなさいました。ゴロヴニン先生が編集され、日本語学科の教師により作られた初級用の日本語教科書は、旧ソ連、ロシアでは今でも人気があり使われ続けています。これは、ロシアの日本語学界では通称「ゴロヴニン先生の教科書」と言われています。当時毎年ゴロヴニン先生の創意によって大学で全国の日本語・日本文学の研究をめぐる会議が開かれ、論文集が出版されました。1993年にゴロヴニン先生は日本の勲章の瑞宝章を授与されました。
 V.グリヴニン先生は優れた日本文学の研究者、翻訳家で、芥川龍之介の研究を行いながら芥川龍之介、大江健三郎、安部公房の作品をほとんど全て翻訳なさいました。また、グリヴニン先生は翻訳論に関する研究を行い、学生たちに日露翻訳を教えていました。1997年にグリヴニン先生は旭日章を授与されました。
 L.ストリジャック先生は日本語の会話、日露・露日通訳を教え、もう一人の先生、東京生まれのV.ヤヌシェフスキー先生と共著でいくつかの日露・露日通訳法の教科書を作りました。ストリジャック先生は優れた教師だけでなく、当時一、二を争う同時通訳者で、政府首脳レベルでの会談、会議、交渉の同時通訳を行いました。それにストリジャック先生は日露交流の発展のために大いに尽力されました。その幅広い活動の一端が、日本の諸大学との交流を始めたことです。次第にモスクワ大学は早稲田大学東海大学創価大学などの大学との協定を結び、これらの協定の枠内で、日本語を学ぶ学生がさまざまな大学へ研修のため留学し、一方、ロシア語を学ぶ日本の大学生がモスクワ大学へ研修に行くことが可能になりました。この交流に関する交渉に活発に参加したストリジャック先生の役割は非常に重要なものだと思います。最初の交流に関する協定がモスクワ大学と東海大学の間に結ばれ、1970年代の中ごろ、ストリジャック先生に引率されてモスクワ大学最初の研修団が日本へ行きました。後の研修団と違って、これは学生でなく卒業生からなっていて、同時通訳者を養育することを目指していました。卒業生のなかには時間が経つにつれて後に同時通訳の経験を積んでから優れた学者や外交官になった人がいました。まさにその時から、東海大学との長年にわたる交流が始まりました。ストリジャック先生の多面的活動が高く評価され、2005年に旭日章を授与されました。
ヨッフェ先生の同級生であるN.カルポヴィッチ先生は、文学と日本語学の研究はしませんでしたが数多くの教科書を出版しました。特に当時開かれたばかりの、いわゆる「第二高等教育」の学生向けの教科書が人気がありました。「第二高等教育」とは他の大学を卒業して、日本語を習いたい人のための2年間の短期コースで、勉強していた学生はいろいろな分野の専門家で、なかには当時開かれた旅客便のモスクワ―東京直行で飛んでいるアエロフロートのパイロット、極東から派遣された貿易船の船員もいました。カルポヴィッチ先生はサンクト・ペテルブルグ大学を卒業し、学生時代にはコンラッド先生の指導をうけました。
 また、数年間日本語学科の教授として働いていたA.パシコフスキー先生は有名な言語学者であり、若い時ゴロヴニン先生とグリヴニン先生に日本語を教えていました。パシコフスキー先生は日本語学の全分野における研究を行い、たくさんの本、論文などを書きました。
 現在モスクワだけでなく、全ロシアにおける日本語教育課程が盛んになっていますが、それに強い刺激を与えたのは、ロシアにおける日本語研究の進歩です。19~21世記には多くの分野、すなわち日本語アクセント論(ポリヴァノフ先生がその先駆者で、日本語の方言を研究し、日本に長く滞在しつつ、日本語アクセント論だけでなく、子音、母音システムも深く研究しました)、日本語の文法論(コンラッド先生、フェルドマン先生、プレトネル先生、ポリヴァノフ先生による研究)、日本語史(スィロミャトニコフ先生,ポポフ先生)などの研究が行われました。日本語学科の創立者も、他の学者と一緒に日本語学の発展のために全力を尽くし、日本語学、日本語教育法の研究、日本文学の理論研究を行って、日本語教育をもっと高いレベルに上げることを可能にしました。


russia_japanese05.jpg 今日の日本語学科での日本語教育・研究

 学科の創立者によって作られた理論基盤に基づき、現在日本語学科は日本語教育の新しい方法を導入して、新しい教科書、教材をたくさん出版してきました。
 日本語を学ぶ学生数が年々多くなっています。学科が設立されたころは、各学年1クラスで、平均4、5人にすぎませんでした。当時専攻は3つだけで、日本語学、日本文学、日本史でした。現在では各学年に4クラスあり、日本語学科の学生総数は140名を超えています。従来の専攻の他に日本経済、政治、文化を選ぶことができます。大学院生数も前に比べて多くなり、他の大学を卒業した若い人も入学します。ロシア全国で日本、日本語、日本文学、日本文化に対する関心が広がり、ロシアの約50の大学、多くの学校などでは日本語を教えています。日本語を学びたい人は、数字を見れば、年々増えています。20年間以上にわたって続くCIS大学生日本語弁論大会の参加者のリストを見ると、ロシアのほとんどの地方で日本語が学ばれていることが分かります。だんだん日本語教育が行われている地域が広がり、昔から日本語教育を進めているモスクワ、サンクト・ペテルブルグ、ウラジオストクのほかにウラル山脈の麓にあるエカテリンブルグ、北カフカスのピャティゴルスク、ボルガ川沿いのニジニー・ノブゴロド、カザン市、モスクワに近いリャザン市、さらにシベリアと極東の多くの場所で日本語教育が行われています。
 教師のなかにはモスクワ大学の大学院を卒業して博士号を取得した者もいます。モスクワの例を挙げれば、前はモスクワ大学と国際関係大学だけで日本語が教えられていましたが、現在、国立言語大学ロシア国立人文大学、東洋諸国大学、モスクワ市立教育大学、ロシア国立高等経済学院などの大学でも日本語が教えられています。これらの大学の日本語教師の大部分はモスクワ大学の日本語学科の卒業生です。諸大学の教員のなかにも日本語学科の大学院で博士課程を終えた教師もいます。これらの日本語教育が行われている小・中・高等学校では子供たちが日本語を学んでいます。毎年秋に、日本語を学んでいる子供の「日本語の祭り」すなわち日本語スピーチ・コンテストが開かれます。
 前に述べたように、ロシア文部省の定めにより、アジア・アフリカ諸国大学は東洋語、東洋学の主要機関であり、全国用の東洋語教育の基準を作る任務を負っていますが、具体的にモスクワ大学では日本語教育課程はどのように行われているのでしょうか。まず教材とシラバス、プログラムについて話さなければなりません。教科書は、ロシアで作られた教科書と日本で出版された教材を使っています。ここ10~15年間、日本語学科の教師による新しい教科書、教材が作られたほか、国際交流基金と在ロシア日本大使館のおかげで日本で作られた新教材、ビデオなどがたくさん入り、教育課程に導入されて、日本語教育のレベルを高めることができました。また教科書以外にも、日本語学科のスタッフは日本研修のチャンスが与えられておりますので、それも全体として日本語教育課程の発展にたいへん重要な役割を果たしていると思われます。また、毎年日本から専門家がいらっしゃって、学科の教師と共に日本語教育課程に活発に参加しています。
 モスクワ大学のアジア・アフリカ諸国大学の学生は東洋語を学びながら、主に以下の分野を専攻しています。それは言語学、文学、歴史、政治学、経済学、文化ですが、どの専攻であっても日本語と日本文学は日本語学科の先生が教えています。日本史や経済などは他の学科が担当しています。日本語を習っている学生は、専攻ごとに4クラスに分かれ、文学・言語学クラス、歴史クラス、経済学クラス、政治学クラスです。学年別で見れば、平均各学年は30~40名が日本語を学習しています。日本語の時間数は1年生は一週16時間、2年生は14時間、3年生は12時間、4年生は10時間です。その他、10~12ヶ月間の日本での研修もあります。各クラスは少なくとも3人の先生が授業を行い、初級の場合、日本語の文法、文字、文章表現などは1人の先生が教えて、発音、会話などは2人の先生が担当します。そのうちの1人は日本から派遣された先生です。中級・上級になると、時には4人の先生が教えます。中級・上級レベルでは日露・露日通訳、翻訳が加わるので、別々の先生が教えています。教育方法は、初、中、上級の過程はそれぞれ特徴がありますが、一貫しているのは、日本語の文法、漢字、言葉などを習得しつつ、テキストを読ませたり、訳させたり、ロール・ゲームをさせたり、会話、日本語での発表をさせたり、聴解などをさせたりすることです。さらに、学生は常用漢字を全部おぼえ、いろいろな作文を書き、テストをします。また、日露・露日通訳、翻訳をします。試験は年に2回で、いつも筆記試験と口答試験からなっています。
 2年生以後、モスクワ大学の学生は皆、学年論文を書き、4年生は卒業論文を提出しなければなりません。論文のテーマはいろいろで、日本語の理論にかかわる諸問題、社会言語学の諸問題、日本の現代文学、詩、古典文学の研究などです。原則的には、日本語の知識がまだ不十分な初級段階では、日本語で書かれた著書はある程度が使われていますが、主にロシア語と英語の本が使われています。日本語の知識の基盤ができた中・上級の学生は日本語で書かれた本、論文を広く使いながら研究を行っています。各学生の研究は、特定の先生から個別指導を受け、学年の終わりに発表会が開かれます。大学院も一緒です。また、日本語学科は日本語学、文学を専攻とする学生のために特別の理論コースとゼミナールがあります。それは、必修科目となっている、古代から現在までの日本文学、日本文法論、語彙論、日本語史、文体論、日露翻訳法の理論、日本語慣用句論,方言論、民俗学などです。その他、歴史、経済学、政治学を専攻する学生に対しては、日本文学の講義も日本語学科の教師が行い、言語学、文学を専攻する学生には日本史・文化学科、国際経済関係学科、政治学科の教師が行います。以上の点から、日本語学科の教員は、日本語だけでなく、さまざまな分野で理論研究を含む多様な研究活動を行っていることが理解いただけると思います。
 また、大学院の教育課程も設置されており、言語学論、文学論に関する深い内容をもつコースがあり、それらも日本語学科によるものです。2年前からモスクワ大学で新しい教育の形態が導入されました。いわゆる「学部間のコース」です。その眼目は、モスクワ大学生は専攻別の知識を身につけることはもちろん、広い視野をそなえた専門家になれるように、他の学部での好きなコースを自由に選択し講義を聞くということです。日本語学科も参加して、学科のマズーリック先生が日本文化に関する講演を行っています。
 日本語学科の教員は皆、学生が日本語そのものだけでなく、日本、日本文化、日本国民の伝統の知識を身に付けるべきだと確信しています。授業以外の活動も行われています。毎年学科の弁論大会が開かれ、1位、2位の人が後にモスクワ大学生の日本語弁論大会に出ます。この弁論大会もアジア・アフリカ諸国大学で行われ、1位、2位を占めた人がCISの大学生弁論大会に出ます。ほとんど毎年日本語学科の学生はモスクワ弁論大会やCISの大学生弁論大会の入賞者になっています。学生はさまざまなテーマ(多くの場合日本にかかわるテーマですが)を選んで、日本語で発表をしながら、ロシア内外の大学生と交流し、ユニークな経験をすることができます。もちろん、日本語能力試験にも参加します。
 また、1995年にアジア・アフリカ諸国大学の建物のなかに裏千家の茶室が開かれ、学生は茶道のクラスで茶道を習い、日本文化を味わうことができるようになりました。茶室では日本文化に関するレクチャーも聞くことができます。なお、2013年アジア・アフリカ諸国大学ではロシアで最初の東洋学博物館が開かれ、その展示品の一部が日本を紹介するものです。学生は展示を眺めながら、各学科の歴史に関する講義を聞くことができます。
 現在の日本語学科の活動について言えば、3つの方面が中心になっていると思います。1つは前に申し上げた教育課程そのもので、もう1つは新しい教科書、教材を作ることです。さらにもう1つは、私たちの恩師が始めた伝統、すなわち日本語の理論、日本文学、日本文化に関する研究を行うことです。
 教科書について言うと日本語学科が設立されてから今までたくさんの大学用、小・中・高等学校用の教科書を作ってきました。有名な学者、ゴロヴニン先生の編集した、3冊からなっている教科書が前からありますが、現在広く使われているのはL.ネチャエワ著の『初級日本語教科書』、S.ブィコワ著の『日露・ロ日通訳法』(上級用)、E.ストロゴワ、N.シェフテレヴィッチ著の『中級日本語の読本』などの教科書です。
 学科の教師による研究については、主に日本語の理論と文学の分野における研究が行われています。日本語の理論の研究は多面的で、文法の理論、語彙論、日本の文字研究、文体論、翻訳論、社会言語学論、方言学、擬声語・擬態語論などです。数年前にロシア史上初めて、4000の言葉を収録した、S.ブィコワ著の『日露慣用句辞典』とN.ルマック先生が共著して作った『日露擬声語・擬態語辞典』が出版されました。学科の教員は多くの論文を書き、「モスクワ大学紀要:東洋学」誌だけでなく、他の学術誌にも載せたりします。学科による論文集も出版されます。
 日本文学に関する研究については、古典文学から現代文学にいたるまでの広い範囲をカバーしており、そのなかには20世紀の文学作品の研究(故グリシナ先生)、芭蕉の作品の研究(故N.シェフテレヴィッチ先生)などがあります。民俗学の研究も行われています。
 毎年春には、モスクワ大学の各学部ではモスクワ大学の創立者である、有名なロシアの学者、ロモノーソフを記念して「ロモノーソフ講演会」が開かれます。その際、アジア・アフリカ諸国大学では東洋学の各分野に関する、部会別の会議が行われ、日本語学科の教師は活発に参加します。また、他の大学、ロシア科学アカデミー研究所が行うシンポジウム、国際会議にも参加します。このような交流を通じて自分自身の専門知識を深め、もっと高いレベルで研究を行うことが可能になりますから、当然日本語教育課程のレベルも高めることができます。


russia_japanese06.jpg 卒業生について

 設立以来日本語学科はおよそ2000人の卒業生を送り出しました。ロシアの学生だけでなく、ドイツ、中国、モンゴル、ブルガリア、韓国、ベトナムの留学生も学んでいました。日本からの大学院生が留学していたこともあります。日本語学科の卒業生のなかには本当に「藍より出でて藍より青し」と言ってもいいほどの優秀の卒業生がいます。例を挙げると、ロシアだけでなく、日本でも良く知られている学者、А.メシャリコフ先生、L .エルマコワ先生、V. モロディャコフ先生、ロシア日本学者の協会長のD.ストレリツォフ先生、外務次官、大使・公使などを歴任した優れた外交官であるG.クナゼ氏、V. ドブロヴォリスキ-氏、M.ガルジン氏、優れた翻訳家であり、有名な作家であるG.チュハルティシビリ氏(ペンネームはボリス・アクーニン)、『源氏物語』の翻訳をなさったT.デリュシナ先生などです。
 日本語学科のスタッフを見ても学科の卒業生ばかりで、他の大学でも本学の日本語学科の卒業生が日本語を教えています。それはたいへん喜ばしいことで、将来も学科の伝統を続け継ぐ卒業生が育つと期待しております。


russia_japanese07.jpg
モスクワ国立大学付属アジア・アフリカ諸国大学日本語学卒業生の
ラティシェヴァ・スヴェトラーナ氏(左)と


(講演会での写真 撮影:高木あつ子)

●こちらもご覧ください
日本語国際センター設立25周年記念 2014年度国際交流基金賞受賞記念講演
「モスクワ大学における日本語教育と日本語・日本文学の研究」(開催報告)






russia_japanese08.jpg ステラ・アルテミェヴナ・ブィコワ(Stella Artemievna Bykova)
モスクワ国立大学付属アジア・アフリカ諸国大学日本語学科長。
1967年にモスクワ大学卒業後、日本語学科の教師となる。1973年修士号(Ph.D)取得。2008年より日本語学科長(現職)。専攻は日本語、日本語の理論、日本語の文体論、日本語の慣用句、方言、語彙論。日本語に関する著書、教科書、論文など、合計90以上。日露翻訳として司馬遼太郎による『ロシアについて―北方の原形』。モスクワ日本語教師会会長。「モスクワ大学学報、東洋学」誌編集委員会会員。




Page top▲