雑誌『をちこち(遠近)』
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2018年秋、京都からパリへ時代を超えた旅で出会う琳派300年の創造展

枯れることのない花は
深まりゆくこころから生まれ
今やそれは満開となり
さらに美しく香り高い※

 須川信行(1839-1917)の詩には、日仏関係をイメージさせるものがあります。1858年10月9日、両国は日仏修好通商条約を締結しました。この経済・政治が中心の条約は、やがて単なる通商の枠組みを超え、芸術分野へと影響をおよぼすようになりました。19世紀の万国博覧会開催時、フランスは異なる感性、自然と美に向き合うもうひとつの作法に出会います。フランスの人々は、琳派という美術運動から生まれた作品を高く評価しました。ところが、当時から21世紀までの間にどうしたことか、琳派はフランス人たちの記憶から忘れ去られてしまいました。
「ジャポニスム2018:響きあう魂」は、この途切れた糸を結びなおすものです。パリ市立チェルヌスキ美術館では、細見良行(細見美術館館長)、松原龍一(京都国立近代美術館学芸課長)、マヌエラ・モスカティエッロ氏のキュレーションにより、「京都の宝―琳派300年の創造(2018年10月26日~2019年1月27日)」展が開催されます。この展覧会は、時代を超えた旅、他に類をみない卓越した芸術家たちの巧みな技を見ることができる貴重な機会となります。

 会場となるパリ市立チェルヌスキ美術館のキュレーター、マヌエラ・モスカティエッロ氏に聞きました。

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「京都の宝 琳派300年の創造」展の会場となるパリ市立チェルヌスキ美術館外観
© Pierre Antoine / Musée Cernuschi

―琳派を簡単に紹介してください。

 17世紀初頭に現れた装飾美術のひとつで、その影響が現在まで及んでいるものです。その歴史は、本阿弥光悦(1558-1637)および俵屋宗達(1600-1640年に活躍)というふたりの人物を祖として京都で幕を開けます。「琳派(りんぱ)」とは19世紀末に造られた言葉で、「(光)琳派」を意味します。これは絵師である尾形光琳(1658-1716)がこの画技を範とし、その様式を見事に刷新したことから、その後に彼の名が付されるようになったものです。「光悦派」または「宗達光琳派」とも言われますが、ここ数十年では「琳派」という名称が最も一般的です。日本画と異なる点は、琳派の絵師たちが師弟関係ではなく、精神的および美的な親和力により結びついていることです。このような絵師たちが先駆者を尊敬し模範として慕っていたことを表すのに「私淑」という言葉が使われています。17世紀から20世紀にかけて、主題の影響を強く受けた絵師たちは、それを独自の手法で発展させます。宗達の代表作のひとつである《風神雷神図屏風》を例にとると、丹念に描かれた図像が光琳と酒井抱一(1761-1828)により模写されています。ただし、それはただの模写ではありません。3双の屏風をつぶさに観察すると、さまざまな違いが見て取れます。同じ主題および同じ技法を踏襲しているのは、盗用ではなく、オマージュであるという点に注意する必要があります。もうひとつ象徴的な例を挙げると、琳派様式の普及に努めた先人に範をとる中村芳中(1819年没)は、ユーモラスで洗練された光琳の意匠を版画に仕立て直すと、1802年に2冊の画譜を世に出します。
 琳派の絵師たちは、古典文学にモチーフを求めました。なかでも、美の探求に応えるものとして、平安王朝文化(794-1185)の再現を希求しました。作品にはしばしば、四季の移り変わりが奏でる自然のリズムが表されています。技法に関しては、時代の流れとともに、さまざまなものがみられます。たとえば、琳派の絵師が水墨画の技法を応用して独自の方法に作り上げた「たらし込み」。これは、墨や絵の具をたっぷりと筆に含ませ、色を塗ってまだ乾かない面に垂らす手法です。垂れると、にじみによる浮遊感が出ます。没骨画(中国語で「mogu hua」)とは、文字通り「骨のない絵」という意味で、輪郭線を描かずに墨または絵具を直接作品の台紙に用いる技法のことをいいます。

―琳派の作家たちはどのような階層の出身でしたか?

 琳派の創始者である光悦と宗達は、裕福な町衆の出自でした。数世紀にわたってそれに続いた作家らは、いずれも恵まれた教育を受けているという点で共通しています。光悦の家は、刀剣(国宝級の刀剣)の研磨・浄拭および鑑定の名家でした。光悦は刀剣にとどまらず、陶芸家でもあり、さらには17世紀初頭にあたる桃山時代末に「寛永の三筆」のひとりに数えられる能書家でもありました。宗達は、俵屋という扇絵の工房を取り仕切っていました。宗達は光悦の従姉妹と婚姻を結び、ふたりは縁戚関係にありました。このふたりの作家が共作を重ねることにより、ふたりの出自に相応しい、洗練された優雅な嗜好が生まれることになります。宗達の絵と文様ならびに光悦の書による和歌巻が制作されました。ふたりの作品は現在、重要文化財に指定されています。組み合わせたものという以上に、意匠と文字の間に交わされる、快い対話がそこには見られます。

―装飾の題材にはどんな意味が秘められているのですか?

 日本美術には、鶴亀で長寿と繁栄を連想させるなど、縁起が良いといわれるシンボルが多数あります。琳派に関しては、シンボルというよりイメージ喚起力をもつ意匠と言ったところでしょうか。琳派様式は、形態の総合と意匠の単純化を特徴としています。数あるなかで思い浮かぶのが、宗達の《蔦の細道図屏風》です。日本文学史上屈指の名作『伊勢物語』(10世紀)を題材にとったもので、一本の小道がきわめて簡潔に、植物で表されています。色遣いは金箔および孔雀石の緑青と最小限に抑えられています。日本人なら誰もがこの絵を見て、物語の一節をそれとなくイメージします。ひとりの高貴な旅の男が、物憂い気持ちで宇津の山を越えていきます。男は想いを寄せる女性に宛てて歌をしたためます。ひとりの修行僧に出会うと、想い人に渡してほしいと、その歌を託します。蔦の葉が描かれているだけで、その情景がまざまざと心に浮かびます。光琳が屏風に仕立てた題材のひとつである八橋の燕子花は、『伊勢物語』の別の一節をありありと描き出しています。燕子花というモチーフは、近代琳派の巨匠のひとりである神坂雪佳かみさか せっか (1866-1942)により引き継がれています。画題の植物が常に特定の季節を指し示していることも忘れてはならない点です。

―なぜ琳派に特化した展覧会なのですか?

 琳派が日本的感性の本質を具象化しているからだと私は思います。琳派の絵師がいかに中国画の技法を用いようとも、琳派以上に日本的なものはありません。「ジャポニスム2018」の開催にあたり、どのようなかたちで協力しようか考えました。琳派の展覧会という素晴らしい案が持ち上がっていましたので、チェルヌスキ美術館に神坂雪佳の回顧展を提案しました。フランスの方々が琳派を知る良い機会になりますから、続編のようなものを提案しようと、そして自分がすでに本を書いている絵師を紹介するのも面白いのではないかと考えました。最終的に琳派の展覧会を任されるという、ありがたいオファーをいただきました。フランスではあまり知られていない琳派を、できる限りわかりやすく、親しみやすい展示を心がけるつもりです。来場された方々には是非、作品を深く心に刻んで、会場を後にしていただきたいと思います。

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パリ市立チェルヌスキ美術館内観
© Pierre Antoine / Musée Cernuschi

―展覧会はどのような構成になりますか?

 日本の担当者のみなさんと同じく、その誕生から20世紀に至るまでの琳派を見てもらいたいと思いました。したがって、時系列に沿ったものになりますが、それだけではありません。時代のコンセプトを大いに強調し、先駆者を範として受け継いできた作家を年代ごとに取り上げ、テーマ別に組み合わせます。展覧会では四段階に分けて展示を行います。第一期は「琳派の誕生」として光悦と宗達を、第二期では「新たな躍進」として尾形光琳および尾形乾山(とくに陶器で知られる)の兄弟を取り上げ、それぞれの作品を通じて琳派の持ち味と様式について深く掘り下げます。第三期は、「琳派様式の刷新」として、渡辺始興 (1683-1755)、深江芦舟(1699-1757)、芳中の3人の絵師を合わせてご紹介します。最後に、第四期を「20世紀の琳派の継承者―雪佳」と題し、近代琳派を代表する最後の絵師を集中して取り上げます。琳派美術をさまざまな角度から、屏風を通してご紹介します(国宝《風神雷神図屏風》を展示する機会に恵まれました)。そのなかには、《蔦の細道図屏風》および《舞楽図屏風》の宗達作重要文化財2点も含まれています。もう1点文化財指定作品として、芦舟が四季の草花を描いた屏風があります。主題から歌巻、当期、漆器、画譜等に至るすべてを展示いたします。

―琳派は西洋絵画に影響を与えたのでしょうか?

 19世紀にルイ・ゴンス(1846-1921)が全二巻からなるフランス初の日本美術の概論書を出版します。図版が豊富に収められ、序文のなかで日本人は「世界で第一級の装飾家」と評されています。西洋の作家たちは、琳派作品が放つ装飾的性質とセンスに魅せられたのだと思います。ルイ・ゴンスは、光琳を当時の最も創意に富んだ個性的な作家であると考えていました。光琳の作品にみられる形態の単純化は、現代性への渇望や、描くことで自然を喚起する欲求を満たし得るものです。琳派作品の愛好家または収集家だった西洋の作家には、印象派やナビ派の画家たち、クロード・モネ、エミール・ベルナールらがいます。ここで一般にはあまり知られていない、ジュセッペ・デ・ニッティス (1846-1884)というイタリア人作家の話を少しさせていただきたいと思います。マネやドガと交流があった人物で、私はこの作家にとってのジャポニスムを研究してきました。扇形の作品をいくつも制作し、日本の様式を模倣しましたが、自然が画題となることが多い意匠の模作に留まっていたわけではありませんでした。重要な点は、日本画特有の技法および画材の使用を模範としたことです。デ・ニッティスは琳派の絵師に倣い、金粉や銀粉、金箔や銀箔といった貴重な画材を用いました。

―イタリア人の学生だったあなたが、どのようにして日本美術の美しさに強く魅せられるようになったのですか?

 私はボローニャ大学の学生でした。とくに19世紀のフランス美術とイタリア美術は、私の初恋といってよいほど心惹かれるものでした。その後、私はジャポニスムに傾倒します。この心を捉えて離さない、ジャポニスムという現象を通じて、私は日本美術と出会いました。長きにわたり一緒に仕事をすることになる私の先生は、10年におよぶ日本滞在から帰国し、講義を担当していました。そしてその先生の授業は、私が素晴らしい世界へと足を踏み入れるきっかけとなりました。日本の美術作品への入り口となったのは版画でした。ボローニャ大学では浮世絵のコレクションを豊富に所蔵しており、先生は回顧展のコーディネートをいくつも手掛けていました。私もそれに協力したことが来場者の観点を理解する大きな助けとなっています。その後、修士号は美術史学科外で取得し、日本語の勉強を始め、数度にわたり日本を訪れました。私にとって日本と言えば京都です。神社仏閣が多く気持ちがとても落ち着いたものです(今もとても落ち着きます)。そこで引き続き日本語と日本の美術史の学習に努め、さらに深く研究しようとフランスにやってきました。日本へ初めて旅行する前に、日本に次いで豊富な日本美術のコレクションを所蔵する、ワシントンD.C.のフリーア美術館を訪ねました。そこを訪れたとき、私は20歳でした。《松島図屏風》という宗達の作品を見たいと思い、フリーア美術館のキュレーターに手紙を書きました。なんと幸運なことに返事を頂き、至宝ともいえるその作品を見る許可をもらいました。あれほど重要な日本の美術作品を目の当たりにしたのは、おそらくそれが初めてのことで、一日中収蔵庫に籠っていました。私は琳派と深い縁があると感じています。

―フランスが日本美術に魅了されるのはどうしてですか?

 フランスに限らず、西洋について言えることです。そこには飽くことのない知識欲があると思います。フランスに関しては、日本美術が与えた影響は、おそらく19世紀にさかのぼるもので、芸術やファッションをはじめとする分野においてみられます。(当時の)雑誌記事には「日本美術はパリにあるのだから、日本まで行くにおよばない」と書かれました。日本美術の普及には当時、3つのルートがありました。パリ万国博覧会は、1855年、1867年、1878年、1889年および1900年と50年のうちに異例の頻度で開催され、きわめて大きな影響力をもつものでした。それに回顧展およびアジア美術を専門とする小規模な画廊、競売もまた中心的役割を果たしていました。
 琳派の作品が、フランスの方々の心に響くと確信しています。

―2018年の日仏関係をどのように見ていますか?

 日仏両国は、貿易、経済、政治、科学、文化と、あらゆるレベルで関係を維持しています。特別なパートナーシップを結んでいます。日本は、アジア諸国の中でも重要なフランスへの投資国のひとつです。国際間において、芸術はなくてはならない役割を演じています。私はそれが妙薬として、世界の苦しみを癒すものになると考えています。楽観的な見方ではありますが、私はそう思います。

―日本人の自然を愛する気持ちはどこから来るものなのでしょうか?

 その情熱は古くから現代にまで続いています。アニミズム的信仰としての神道に由来するもので、日本人は何世紀にもわたり、それを通じて自然の事物に畏敬の念を抱いてきました。日本人はまた、先天的に自然志向でもあります。京都にいたとき、春になると、仕事を終えた人たちが桜の木の下でピクニックをしようと公園に立ち寄る姿を目にしました。それは日本人の心と言えます。日常生活のあらゆる側面で、ごくありきたりなものにさえ、美が実用に取り入れられています。特に京都の生活には雅が常に感じられます。

※神坂雪佳の傑作『百々世草』の冒頭、墨痕鮮やかにしたためられた短歌。
参考:『KAMISAKA SEKKA, Les Herbes de l'éternité』Manuela Moscatiello(編集・訳)Arles, Philippe Picquier, 2013。

インタビュー・構成:オレリー・ジュリア(Aurélie Julia)パリ在住雑誌記者

rinpa-300years_04.jpg マヌエラ・モスカティエッロ(Manuela Moscatiello)
2016年よりパリ市立チェルヌスキ美術館で日本美術を担当。研究対象は、19世紀の日欧交流および江戸・明治期の日本美術。さまざまな展覧会を手掛け、学術論文の執筆および日本人作家の図版本の編集(『KAMISAKA SEKKA - Les Herbes de l'éternité(神坂雪佳‐百代草)』、北斎『HOKUSAI - Manuel de dessins(北斎 - 素描手本)』、『Les Fleurs précieuses du jardin mystérieux - Itô Jakuchû(玄圃瑤華‐伊藤若冲)』) に携わる。『ジョゼッペ・デ・ニッティスのジャポニスム、19世紀末のフランスで活躍したイタリア人画家(Le Japonisme de Giuseppe De Nittis, Un peintre italien en France a la fin du XIXe siècle )』により、2011年にジャポニスム学会賞を受賞。ボローニャ極東美術研究センターの研究員およびボローニャ大学の美術館東洋展示室の責任者(2015~2016年)を歴任。

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