雑誌『をちこち(遠近)』
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ボランティア活動を通して見えるヤポーニヤ(日本)の姿


日本の震災の経験から何を受け止めるか国際社会に問われている


トゥイチェフ・ムヒディン(TUYCHIEV Mukhiddin)
ウズベキスタン・タシュケント国立東洋学大学政治学科研究員


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日本で東日本大震災を経験した有志の在日外国人がボランティアグループを組織し、福島県、宮城県、岩手県の被災地で活動を続けています。その中の一人、ウズベキスタン出身のトゥイチェフ・ムヒディン氏にお話を伺いました。


■震災の夜、知人たちの間で
 募金活動が始まった

──日本に住むムスリムの人たちといっしょにグループをつくって、被災地へボランティアに行かれているそうですね。

CA3G0033.JPGムヒディン◎これはいわば義務であり、義侠心からの行動なのです。 3月11日に地震があったときは東京にいました。その直後は家族の安全を確保することが第一でした。 誰でもそうだと思いますが、さまざまな知人に連絡を取って、互いの安否を確かめ合いました。夜になって、災害の被害の甚大さがわかり始めたなかで、知人たちが集まって、被災地を助けるにはどうすればよいかを話し合いました。 まず、最初の行動としては、義援金を集めました。2週間で1000万円近く集まりました。ほとんどが日本国内からのムスリム、特にヒラーモスクに集まる人たちのもので、大きな3つの基金から寄付があったものの、基本的には個人の寄付です。1人一人が出したのは100ドルとか200ドルとか500ドル程度かもしれません。しかし、それが集まるとこのようにまとまった金額になるのです。次に、毎週、3トンから4トンの食料を被災地に届けました。同時に、避難した子どもたちのためのおもちゃ、それから医薬品など、こうした大災害でまず最初に必要とされるものを届けました。 私がなぜこの活動を始めたかというと、研究活動と関係があります。専門の研究テーマは、アフガニスタン安定化における日本の役割です。そして、このテーマで調査するなかで、日本にいるパキスタン、アラブ諸国、イラン、トルコ、アフリカなどからの移民たちにインタビューしたり、話したりする機会がありました。彼らのなかには、アフガニスタンで従軍したり、地域紛争に参加したり、あるいは洪水などの災害時に救援活動の経験をもったりしている者が少なからずいました。緊急事態のとき、どう対処すればよいか、その専門知識をもっていたのです。そこで、その人たちの助けを借りて、救援のためのボランティア活動を行うことにしました。 このグループは特定の団体というよりも、偶然集まったのがムスリムだったという感じです。そのなかには日本人もいれば、日本に住む英国人でムスリムに改宗した人もいました。

DSC01296.JPG──被災地では、どのような活動をなさったのですか?

ムヒディン◎私たちはボランティアセンターとはコンタクトを取らないまま、直接、現地の市役所と相談しながら、現地に入り、行動をしました。最初は、災害の影響を受けた場所を調査するために、第一のボランティアグループは震災の次の日に出発しました。 最初は震災から2週間ほど経ったときで、場所は福島第一原発から20〜45キロほど離れた相馬市、南相馬市でした。2回目は宮城県仙台市、南三陸町、石巻市、3回目は気仙沼市と岩手県の港のあった地域を回りました。気仙沼では、丘の上に学校が一つ残っているだけで、その下の港はすべて破壊されていました。 海の近くは寒くて、湿気もありましたが、避難所とは違って、自宅に留まっている人たちは暖房がまったく使えない状態であることなども、聞いて知っていました。そこで私たちは温かく辛くて体が温まり、なおかつカロリーも十分にとれる食事がいいだろうと、カレーとナンをつくり、提供することにしました。羊肉とか牛肉とか鶏肉の入ったもの、豆の入ったものなど、数種類のカレーをそれぞれ40~60リットルほどの大きな三つの鍋でつくったのです。 DSCF1308.JPG最初は10~15人ほどが週に1回行っていたのですが、4月に入ると私たちがボランティア活動をしているという情報が仲間内に広まったこともあり、希望者が多くなって、1週間に2、3回行うようになりました。参加者の間で、車の運転ができる人、料理ができる人、お医者さんなど、役割分担がなされていきました。そして、次第に身軽に動ける若者たちが増え、いまではメインは彼らにお願いし、私はときどきお手伝いするという形に変わってきています。


■避難所では力士や元野球選手と
 支援を競い合った

──被災地ではさぞかし喜ばれたでしょうね。エピソードがあれば、お聞かせください。

ムヒディン◎被災者の方々からは、どこからやって来たのかなどと、さまざまな声をかけていただきました。しかし、私たちは1カ所につき2、3時間をかけて約200~500食のカレーを被災者に提供して、すぐに次の場所へ移動するのです。残念なことに、みなさんとゆっくりお話をする余裕がありませんでした。最初は苦労したのです。日本の方は、私たち外国人がボランティアでやってきたことが理解できない様子でした。私たちにとっては人助けができるのは、それが良い行いができる喜びであり、尊いことでしかないのですが、日本の方たちは、なぜこんなところまで外国人が来たのか、といぶかしんだようでした。仲間には日本語を上手に話す人もいましたが、話しかけても被災者たちはシャイなのか、積極的にコンタクトしてきませんでした。私たちはグループとはいえ、一つの会社や組織を代表したわけでもなく、車やボードに宣伝の文句を大きく書いたり、幟を掲げたりもしていなかったので、わかりにくかったこともあるのでしょう。救援ボランティアで食料を無料配布していることも理解されておらず、「これ、いくらですか」と聞いてきた方もいました。ガソリンスタンドや補修されたばかりの道路に立って、ボランティアをやっていることをわかってもらうよう努力もしました。

CA3G0216.JPG 始めたころはまだ寒く、雨や雪が降り、風も吹いていましたが、一日滞在していると、最後には口コミで広がったのか、多くの人がやってきて、私たちの食事を食べてもらうことができました。ほかのところでは、自衛隊が助けてくれて、私たちがボランティアでやってきたことを説明してくれました。自衛隊ではスープとご飯の炊き出しをしていましたが、私たちはカレーを持っていたので、話し合って、ご飯とカレーの交換をして、互いに融通しあうといったこともありました。彼らには機動力があり、いろんな部隊がいたので、協力して被災者に配ってくれたのです。また、ある避難所では自衛隊が仮設のお風呂をつくっていましたが、そのすぐ近くで私たちが食料を出すように手配してくれたこともあります。自衛隊の人たちは非常にオープンな印象で、市民に気さくに声をかけて会話を交わしていました。それでいて、てきぱきとしていて洗剤でアスファルトを磨きあげるように、徹底的に周囲をきれいに整えていました。

 CA3G0205.JPG南三陸町では、お相撲さんのグループといっしょになったこともあります。寒い中、野外で浴衣を着た大きな体のお相撲さんが大きな手でおにぎりを握り、大きな腕でちゃんこの入った鍋をかき回している光景。これはどんなに印象的なものだったか、実際に見ないとわからないでしょうね。また、その近くには、野球のユニフォームを着た元選手と思われるグループがいて、別の料理をつくっていました。私たちも含めて、その場にいたグループのうち、どれが一番上手に料理ができて配布できるのか、自然にライバル意識が生まれ、競い合いました。もちろん、私たちも一生懸命、がんばりました。ある場所では、役場や小学校体育館、駐車場などで1、2時間ほど炊き出しをしました。場所によって、避難民は200~500人ぐらいいたでしょうか。活動を終えて、これから去るというときに、突然、みなさんが立ち上がって拍手をしてくれたのです。高齢者の方が近寄ってきて、抱きしめてくれたり、私たちと写真を撮ったりして、感謝の気持ちを表してくれました。なかには、そっと涙を流している人もいました。私もこうした体験をするチャンスを得られたことに、本当に感謝したい気持ちでいっぱいでした。

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──ボランティア活動を始める動機の一つとして、そうした感動を分かち合うことができることもありますね。

DSCF1327.JPGムヒディン◎私がどうして、ボランティア活動をしようと思ったのか、説明するのはとても難しいことです。内面からわき起こる気持ち、感覚としか言いようがありません。どんなに厳しい状況にあっても、自分がいる場所のことを考えるべきだといつも思っています。ですから、日本に対する義務のようなものでしょうか。なぜなら、私は今、日本に住んでいるからです。それは、内面からわき起こるのかもしれないし、上から下りてくる光のようなものかもしれません。というのは、私は信心深い人間ですから。しかし、これは宗教というよりも、信条に近いものです。多くの日本人と同じように、ウズベキスタンの人たちも年を重ねていくと、伝統を守る立場になります。私も自分は伝統を守る人間だと思っています。私たちの社会では伝統的に、毎日一つでもいいから、よいことをしよう、社会のためになることをしよう、と教えられてきました。そして、よいことを始めたら、終わるまで続けようと考えるのです。それは家族の伝統であり、社会の伝統です。これは私の育った環境にもよると思います。

 DSC01179.JPG私は首都タシュケントと隣接している学術都市で生まれました。そこの学校や東洋学大学で勉強をしましたが、家族や友達のみならず、周囲にいたのは、そうした東洋の伝統にしたがって生きる人たちでした。ですから、ボランティアについても、宗教的な意味からというよりも、よいことをしなければならないという信条に基づくものだと思うのです。私は現在、研究者という職にありますが、これまで経験してきたことから、どんな厳しい状況にあっても、それが平気であるかのように振る舞うことができる性格で、身体的にも精神的にも常にそうした用意ができていると思っています。 1986年の春には、チェルノブイリ原発事故の後、私は移動式発電機の専門家のトレーニングを行う陸軍士官学校に送られました。1991~1993年にはカフカス地方で南オセチア紛争が起き、兵士として現地に赴きました。1987年から1988年にはバクーでスムガイートのアゼルバイジャンーアルメニア紛争があったときも、私は軍隊にいました。また1998年から2000年までトルコで外交官をしていたとき、1999年にトルコ北西部のイズミット大地震を経験しました。DSC01204.JPGいまでは私の研究テーマと関係する地域で、こうした大きな災害や紛争状況が起こるのは運命なのだろうと考えています。つまり、冒険しなければならないときもあるということです。これは私といっしょにボランティアを行っている外国人に、多かれ少なかれ共通することです。そして、私は何よりも日本人との一体感があったために、震災が起きてからというもの、寝るときも食べるときも安堵できず、今、被災地には苦しんでいる人が多くいると常に考えてきたのです。本当のことを言うと、私はボランティア活動について、あまり語りたくありません。みなさんが逆の立場なら、周囲の人々に大きな声で言うでしょうか。やはり、被災地を思う気持ちは、行動で示すべきもので、自慢をしたりするものではないと思います。 私は、ウズベキスタンに1991年から滞在し、ボランティアで日本との交流に尽力される教授である菅野令子先生を思い浮かべます。彼女の存在はあまり知られていませんが、彼女がいたからこそ、今日のウズベキスタンと日本の関係がここまで良好になっていると言えるのです。私のお話が、ボランティア活動の先輩としての彼女に捧げるような形になればと思っています。

■日本人の落ち着いた行動に
 感銘を受けた

──ウズベキスタンには地震はありますか。あるとすれば、地震に対する感じ方は日本と同じなのでしょうか。

DSCF0129.JPGムヒディン◎1966年、私が生まれる2年前に、とても大きな地震があり、首都タシュケントの建物は完全に壊れてしまいました。そのあと、ソ連全土から地震を専門とする建築家が集まり、改めて都市の建設が始まりました。首都は完全につくり替えられ、復旧しました。タシュケントの街には記念にそれぞれがつくった区画にロシア、べラルーシ、ウクライナ、カフカスなどからきた建築者の名が付けられています。親の世代も、日本のサムライと同じように人のためによいことをする助け合いの精神をもっていました。なお、私が育った家はその大地震で破壊されませんでした。その後、70年代―90年代にはウズベキスタンの様々な街で大地震がありました。例えば、ブハラの近くにあるガズリーという街、タシュケント近郊のナザルベクという街で地震が起こり、壊滅的な被害を受けました。ウズベキスタンは日本ほど多くはありませんが、地震がどういうものか、人々は理解しています。私は、日本のみなさんにウズベキスタンの建国の歴史や文化について知ってほしいと願っています。それは、日本に似ている点があるからです。今回の震災のような大きな出来事があった場合には、地域の代表者が集まって会議をし、対応を決める習慣があります。もともとは水をどう分けるか、土地をどう利用するかといった地元の集まりです。経済的な視点から見ると、ウズベキスタンと異なり、日本は経済大国ですが、危機的な状況にあって、集団で意見をまとめて解決する。あるいは、国などの上からの命令を待つのではなく、自分たちで話しながら復興につなげてこうとするのは、ウズベキスタンで70、80年代にあった危機的な状況の際に、市民たちがとった行動に似ていると思いました。一方で、中央アジアの諸国は遊牧民族によって昔つくられた国々で、ウズベキスタンには120以上の民族がいるとされています。もともとは同族ごとに動いてその土地を支配していたのです。それが2000年間の長きにわたって、ギリシャ、ペルシア、アラブ、モンゴル、ロシア帝国といろいろな国の支配を受けてきました。こうした点は、同じアジアにあっても、日本と大きく異なる点と言えるでしょう。しかし、先ほどの「信心深い」という話もそうですが、8〜9世紀に中央アジアにイスラムが広がる前に人々がもっていた、隣人を大切にし、助けようという信条は古い歴史から生きているものです。日本と似ているのはこういう点です。自分がよいことをしようという内面の思いが周囲の人に伝わって、合わさり、大きくなって、その国の文化となっているのだと思います。


──ウズベキスタンの人と日本の人には共通するところも多いのですね。

IMG_1691.JPGムヒディン◎日本の人たちは1000年以上、災害と闘ってきて、非常に我慢強いと思っています。自分のやるべきこと、役割、仕事を知っています。地震のあと、あの混乱した中で情報が不足していたにもかかわらず、精神的に落ち着いて組織化された行動をしていたことは非常に印象的でした。自信を持って計算された行動をするのです。日本人は日頃から、火事や地震の訓練をすることも多いのでしょう。妻が学校で見学してきましたが、地震が起きたときにどうするか、実際に行動し、生徒たち全員で避難所まで行ってみるそうですね。それで一人ひとりが逃げる場所が確実にわかる。すばらしいことだと思います。また、あれほど大きな揺れを感じた首都圏でも、ほとんどの建物に特に倒壊がなかったことにも驚きました。技術的にすごいと思いました。福島県相馬市でも津波の被害は甚大でしたが、地震そのものの被害はさほど大きくなかったようでした。これは驚くべきことだと思いました。もう一つ、私の印象ですが、東北の人たちは首都圏の人たちとは異なる文化を持っていると思います。東北の人は素朴な印象があって、自分の祖国を思い出させるところがあって、コミュニケーションをとりやすいと言えます。しかし、彼らにはとても苦しかった経験があり、心の中にたくさん語りたいことが詰まっているのだけど、誰にも語ることができないのだという感じが常にしていました。避難所でおじいさんが昔の写真を見て、懐かしんでいた姿が印象に残っています。それは追憶なのでしょう。きれいな家をもち、いい車があって、町には日本で暮らすのに必要なシステムがすべて整っていたのです。しかし、それを一瞬で失ってしまった。もっともおそろしいことは、そうした財産を失ったこともそうですが、親しい人たちを失ってしまったこと思います。 しかし、私は彼らが流す涙はまったく見ませんでした。先ほど触れた別れのときに涙ぐんでいた人を見たぐらいです。私たちの仲間には達成感によって涙を流すところを見ましたが、人々の涙は見なかったのです。日本人は本当に強く、こんな困難なときにも泣くのではなく、4、5時間寝たら、すぐに起き出して、自分で次にやるべき仕事を見つけ出して、それに向かっていくのです。

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ムヒディン氏のグループが寄付したおもちゃで遊ぶ子供達


■日本はこの困難を必ず乗り越えて
 さらに発展の契機とするだろう

──外国でも震災の様子と日本人の落ち着いた対応が報道されましたが、これらの報道をご覧になりましたでしょうか。

ムヒディン◎外国のメディアについて一言いうならば、ジャーナリズムには美学というものがあるべきだと思っています。見たことを書くという考え方がありますが、そのためには客観的な視点が必要ですし、確認されたことでなければ書いてはいけないのです。震災が起きた最初の頃は、外国のマスコミはほかから入手した映像を流し、生の証言や専門家の発言を流しませんでした。私は国際関係が専門なので、アジア太平洋地域、ロシア、ヨーロッパ、アメリカなどのメディアから流される情報を集めていたのですが、いずれもそれぞれの立場の政治的な関心から、報道していたように思います。例えば、3日目には一つの取材チームが私たちの第一のグループが気仙沼に入ったのですが、すでに道路が直されていたところがありました。しかし、それは外国では報道されず、被害の様子だけが報道されつづけました。日本人は我慢強く、目立ちたがり屋ではないのでしょう。そうした復旧については広く公表していませんでした。それゆえ、多くのメディアがほとんど日本全体が被害を受けてしまったような論調で報道することになっていたのです。国際交流基金からは、私のようなフェローに対して、首相官邸や外務省や原子力安全・保安院の緊急時情報のホームページを見て、動静を確認するようにと言われていましたが、そこには何カ国語かで原発を含む震災の数多くの情報が出され、常に更新されていました。私はその情報を母国にいる親戚や、日本にいる友人たちに転送し、おかげで正確な情報が共有できました。

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──日本は海外とどうつきあえばよいでしょうか。どう発信するべきでしょうか。

ムヒディン◎私は、日本は海外とのつき合い方を変える必要はないと思っています。危機的状況にあったのは事実ですが、むしろ学ばなければならないのは、国際社会なのです。日本は今あるべき場所に立っていて、国際社会が日本の事例から何を受け止め、どう変わっていくかが本質だろうと思っています。 これほど大きな災害のあとで、日本人がどう行動したか、なぜこんなに落ち着いていられるのか、現在、地球上には200ほどの紛争がありますが、当事者の国々や国際社会が日本からどう学ぶかが大事だと思っています。福島第一原発の事故についても、フランス、アメリカ、中国など、原発利用のリーダーの国々がこの事故を受けて、どう行動するかによって、今後の世界は大きく変わってくることでしょう。人の生活を脅かす原発は必要なのか、やはり原子力の平和的利用という観点からその必要性は変わらないのかなど、いろいろな意見があると思います。日本は、経済活動を貿易に大きく依存している国ですから、日本にとって輸出先の国々が必要なのと同じく、世界の国々からすると日本という輸入先が必要なのです。今後、世界が日本を見る目が厳しくなるとは、必ずしも限らないと思います。復旧作業や原子力保安に関する経費を含めると損害額は天文学的数字になる可能性があると思いますが、1億2000万という大きな人口で割れば、さほどひどくないとも考えられます。増税は必要になるでしょうが、阪神淡路大震災から復興したことを考えると日本は必ず乗り越えられます。現在、民間の資金によって復興が図られている例が多く見られますが、このことが、これまで20年にわたった経済停滞の障壁を取り除き、同時に技術革新が起きて、今後、日本経済がさらに発展する契機となるのではないでしょうか。起きたことは大変な悲劇でしたが、それを跳躍台にして、日本はさらに高いところへ上っていくのだろうと信じています。

 最後に、私たちの行動を理解しサポートしてくださっている、日本に住むロシアやアジア諸国からの同僚と友人に感謝したいと思います。また、これも個人的つながりからくるものですが、困難な状況にもかかわらず職務を全うした在日本ウズベキスタン大使館やウズベキスタン航空の職員、私の家族の友人たちにも礼を述べたいと思います。DSCF0139.JPG



プロフィール写真うずべき.JPGトゥイチェフ・ムヒディン TUYCHIEV Mukhiddin
ウズベキスタン・タシュケント国立東洋学大学政治学科研究員
2010年度の日本研究フェローとして来日。 法政大学でロシアと日本の外交の歴史についての研究を続けている。 2011年3月11日、東日本大震災を東京で体験し、その後、有志とともにボランティアグループを組織し、福島県、宮城県の被災地で活動を週末ごとに続けている。国際交流基金日本研究フェローシップ

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