雑誌『をちこち(遠近)』
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日米センター/安倍フェローシップ25周年に寄せて

五百旗頭真(公益財団法人ひょうご震災記念21世紀研究機構理事長)

~はじめに~ 経済一辺倒でいいのか

 「国大なりといえど、戦好まば必ず亡ぶ。」山本五十六が好んで揮毫した東洋の格言である。戦前の日本はアジアで唯一近代化された軍隊を持ち、従って戦えば必ず勝てた。それをいいことに戦を好むに至った満州事変以降の日本であった。そして格言通り、日本は昭和20年に国を亡ぼす結果となった。
 それに懲りた戦後日本は、経済を中心に平和的発展による再生を求めた。それは成功した。1960年代に奇跡の高度成長を遂げた日本は、西欧諸国を次々にGNPで追いつき追い越した。
 経済成長はいい。しかし経済一辺倒でいいのか。「国家は力の体系であり、利益の体系であり、価値の体系である」(高坂正堯)。経済復興を遂げた日本は、やはり本格的な軍事力を持つべきか。否、あの戦争の誤りだけは繰り返したくない。むしろ文化的価値を経済力に添えるべきではないか。1972年の国際交流基金の創設は、そうした自問から生まれた選択であった。

1.国際交流基金の創設 1972

 3つのアクター~外務省、首相官邸、福田赳夫外相~が国際交流基金を産み出すに力があった。
 外務省では、1964年に情報文化局文化課から昇格した文化事業部がこの問題の主務部局であった。振り返れば、戦後のガリオア・エロア援助も、フルブライト交流計画も、ロックフェラーやフォードの民間財団活動も、すべて米国の資金に依存してきた。経済成長を遂げた今、日本側も一定程度持つべきである。そう主張しながら、財務当局を説得し切れなかったところへ、ニクソン・ショックが来た。相互理解の欠如が痛感された。加川隆明文化事業部長のもとで、日本側が100億円を拠出し、共同出資による日米文化センターを設立する案を1971年8月に提示するに至った。(楠綾子論文、福永文夫編『第二の「戦後」の形成過程』有斐閣、2015年、所収)
 外務省には、情報分析を担当する国際資料部が存在し、70年末に調査部に改組されたが、その分析課長の岡崎久彦や堂ノ脇光朗らは首相官邸の外交政策形成にも関わった。大国化しつつある日本の新たな国際的役割として人的・文化的交流の拡充を考え、1千億円もしくは1兆円を投じてのJapan Fund構想を同じ頃に提唱した(同上)。
 歴代政権の中でも佐藤栄作の首相官邸は強力であった。骨太の保守政治家といったイメージの佐藤であるが、楠田実首席秘書官らブレーンは首相が成熟した民主主義時代の国民と共感を保てるようリベラルな拡がりと水準の高さを重視し、外務省はもとより、多くの学者、文化人を政策形成や首相演説づくりに組み入れた。基金設立の時期には、楠田が加川部長を招き、「国際交流基金の理事長及び理事の人選について」方針を伝えるなど深い関わりを持った(『1972年3月9日楠田實日記』中央公論新社、2001年)。
 1971年7月、佐藤政権最後の内閣改造において、福田赳夫が外相となった。首相が後継者とする意向をもって行った人事であり、財政に強い最有力政治家が基金創設を扱うことになった。1972年6月5日、「福田外相のイニシアティブで実現した国際交流基金の設立披露レセプションが」開かれ、楠田は「日本外交に一層の重みを加えることになるだろう」「心強い」と記した(同上)。
 岸信介派を継いだ福田にはタカ派イメージが強いが、記録を見れば「平和大国日本」演説に示されるように、日本は経済大国化しても軍事大国となるべきではなく、途上国に対する援助と文化交流の拡充を両輪として平和的に健全な役割を果たす、それが福田外相の構想であった。日米間にすらパーセプション・ギャップが根深いことを福田は痛感し、文化交流を通して相互理解を促進することを急務と認めた。福田は1千億円規模を展望しつつ、500億円をベースとする基金づくりをリードした。1972年10月に今日出海を初代理事長として、国際交流基金は発足した。
 それは高度成長期の最後の局面に生まれた新機関であった。しかし、1973年の石油危機によって日本経済は急転落し、新たな基金など望み得ない事態となった。

2.冷戦終結と日米センターの誕生

 石油危機のどん底で、日本人は一致協力、勤勉に働く国民性を甦らせた。加えて性能のよい家電製品、燃費効率のよい小型自動車エンジン等を次々に生み出す技術革新によって、日本経済は70年代後半に息を吹き返した。80年代には米欧を圧倒する産業競争力を築き、それが経済摩擦を深刻化したものの、経済国家日本の繁栄が続いた。その最後の局面で日米センターが生まれることになる。
 1987年11月に、中曽根康弘内閣を継いだ竹下登内閣が、外務省の献策を容れて「国際協力構想」を打ち出したことは注目される。それは三本柱から成っていた。(1)ODA拡充、(2)国際文化交流の強化、(3)国際平和への協力・参画、である。この三者はそれぞれに冷戦後の対外政策における重要な柱として展開されることになる。
 すでに拡充されていた日本のODAであるが、89年から11年にわたり世界のトップドナーとなる。国際平和への参画については、92年のPKO協力法により自衛隊の国際活動が公認され、カンボジアを初め世界各地の紛争収束と国家再建のために派遣されるに至る。
 国際文化交流も、80年代の経済的成功を背景に企業メセナを含めて官民とも発展の時を迎えていた。とりわけ90年1月の国際交流基金によるアセアン文化センターの東京開設や、バンコクなどアセアン三都市に日本文化センターを設立に見られるように、東南アジア諸国との双方向の文化交流が軌道に乗りつつあった(和田純論文、添谷芳秀、田所昌幸編『日本の東アジア構想』慶応大学出版、2004年、所収)。
 1990年は「60年安保」の30周年であり、その記念式典がワシントンで開催された。日本からは80年代に長く外相を務めた安倍晋太郎が政府特使として派遣された。安倍の演説は、岳父の岸信介が30年前に大きな反対に直面しつつその成立に心血を注いだことから始まった、日米安保体制のもつ抑止機能がアジア太平洋の平和と安全を支えてきたこと、そして冷戦が終結し先行き不透明な今後の世界にあっても同じ抑止機能が不可欠であることを論じた。だがそれに加えて日米両国には新たな任務があると安倍は強調した。「日本と米国は世界的な課題について大きな責任を分かち合うパートナー」でなければならない、「日米両国が世界的な視野に立ちつつ、幅広い交流を深める」ため、日本はこの30周年を機に「日米親善交流基金」を創設すると、演説を締めくくった(安倍特派大使演説「変化の時代と日米同盟関係」1990.6.20於ワシントン)。
 ブッシュ大統領をはじめ米国側はただちに賛意を表明した。実は安倍は当然に首相となるべき指導者と目されており、その提案には重味があった。竹下前首相をはじめ与党の有力者の多くが安倍イニシアチブを支持していた。ただその意味合いが、病魔に冒されて首相になれないまま退く悲運の安倍さんへの贈り物と転じることになる。
 500億円の「安倍基金」が構想された。ところが折から1990年8月に湾岸危機が勃発し、日本の人的参加なき財政支援は国際的には"too little too late"と難ぜられた。日本の湾岸危機への貢献額は次々と膨張することになる。基金構想はそのプロセスと競合して調整は難航し、秋の時点で200億円の基金に落ち着くかに見えた。その報告を病床で受けた安倍氏は顔を真っ赤にして大声で叱りつけた。逝く者の気迫が原初案を取り戻す効果をもった(楠田實「安倍さんの遺したもの」)。
 安倍氏や小渕恵三氏ら中心的に新基金創設に関与した政治家は、国際交流基金が外務省の官僚主義の下で柔軟な構想力を見失っていると感じており、日米交流専門の新財団創設を望んだ。それに対し楠田實は文化交流事業の2元化を避け、国際交流基金内に日米基金を積むべきと主張した。安倍は楠田が初代所長を自ら務めることを条件に了承した(同上)。
 日本語名称は、国際交流基金日米センターに決まった。英語名はJapan Foundation Center for Global Partnership (CGP)と、ワシントンでの安倍スピーチの内容に即したものに決まった。すなわち、冷戦体制が終わり、多重化し先の読めない海図なき航海の時代を迎えて、単に日米間の交流を拡充するにとどまらず、グローバル化する世界のために日米共同で対処すべき課題を探求し、立ち向かうことを目的としたのである。
 日米間の交流については、首都を中心にいつもおなじみの顔ぶれで繰り返すのではなく、地域や市民団体を組み込む「草の根交流」に重きを置いた。グローバル・パートナーシップのために何より必要なことは、認識射程の広さと深さであり、「知的交流」が重視された。単に学術研究を支援するのではなく、世界的課題に対処するための政策的センスのある共同研究を促進することとした。社会と文明に責任意識をもつ知識人、パブリック・インテレクチュアルが望まれた。そのような人材を育成するため故安倍晋太郎氏にちなんだ「安倍フェローシップ」が設けられ、2年間国外で研修する制度となった。その選考は自国お手盛りにならぬよう米国の社会科学研究評議会(SSRC)などと共同で行う仕組みが作られた。

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安倍フェローッシップ第1回会議における楠田氏

 日米センター評議会が両国の各界代表者によって構成され、毎年両国で1回ずつ泊まりがけで集まり、CGP活動の方向づけを論じることになった。私は創立時の評議会メンバーではなく、楠田CGP初代所長が本間長世所長に移る95年頃に加わったが、立派な品位ある顔ぶれの集りであった。政・財・学の各分野のほか、外交やメディアの代表者も加わっていた。日本側は山本正、米国側はスーザン・ベレスフォード(フォード財団)らシビル・ソサエティ代表者も活発に議論を展開していた。

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日米センターの楠田初代所長を引き継いだ本間長世所長。所長就任前に評議会委員を務めた。

~おわりに~ 政府と民間交流

 1991年4月に日米センターが全額政府拠出金で発足した直後、日本経済はバブルがはじけて「失われた10年」に陥った。低金利の時代に進むとともに財源が苦しくなった。
 それ以上に難しい問題となったのは、安倍や小渕が危惧した点、すなわち政府によって作られ運営される国際交流機関が自立的で創意に満ちた活動を展開できるか否かであった。監督官庁は国の公金をもって事業を行う以上、当然に自分たちがその使途の全般、全活動を管理する責任があると考える。けれども、知的・文化的活動は上からの押し着せでは生命力が萎えてしまう。自主・自立の尊重がなければ独創的・魅力的な成果が得られないのが、学術や文化の領域である。国がスポンサーであっても、一定のルールの下で活動の担い手を選び任せてしまう雅量が不可欠なのである。日米センター評議会において、日米の各界代表の委員の間でその認識は共有されていた。アメリカ側委員はとりわけ権力からの独立性を重視した。それは独立革命以来の精神的伝統であるとともに、成熟した先進社会のたしなみでもあった。他方、上述のように日本の役所には管轄官庁の強い管理責任意識があり、初代楠田所長の後任人事をめぐって意見が対立するなど、火花を散らすこともあった。また、歴史認識をめぐるプロジェクトが政治問題化したこともあった。様々な変遷を経て、日米センター評議会は設立10年後には廃止されることに至る。
 それは不幸なことであったが、全体として国際交流基金と日米センターの活動は、異文化世界をまたぐ交流の推進に大きな役割を果たし続けている。アジアを中心に、欧米を含め日本の双方向の文化交流に果たす役割は誠に大きい。基金は世界各国における日本語・日本研究を支え続けている。知的交流の分野でも、安倍フェローシップは今も日米の共同運営によって持続的成果をあげており、CGPに支援された平和・安全保障研究所(RIPS)のフェローも多くの国際人材を育成している。また国際交流基金に支援された日中韓の若者交流のプロジェクトなども北東アジア地域における未来への希望の光の一つである。
 戦後日本は間違いなく経済国家として再生した。しかし、経済一辺倒の国、あるいはエコノミック・アニマルといった批判は当らない。軍事負担率については先進諸国の中で例外的な低さである。しかしODAで途上国を支えることに力を注ぎ、青年海外協力隊を途上国の村落にまで送って現地の人々と共に汗をかく活動を50年続けてきた戦後日本である。のみならず1972年に国際交流基金を設立し、91年に日米センターを併設して、異文化世界の知的・文化交流と相互理解に努めてきた。戦後日本にあって、「力の体系」は限定的であるが、「利益の体系」を軸に日本なりの「価値の体系」を付加してきたのである。それは十分な質量とは言えまいが、よき努力がなされてきたのであり、今後の拡充が待たれるところである。戦前日本には軍事一辺倒の傾きが、戦後日本には経済一辺倒の危惧があった。一辺倒の精神的貧しさを克服して心豊かな社会をもたらす知的・文化的活動の大切さを、荒ぶる世界にあっても忘れない日本でありたいものである。

cgp-abe-fellowship_03.jpg 五百旗頭 真(いおきべ まこと)
1943年、兵庫県生まれ。1969年、京都大学大学院修士課程修了。広島大学政経学部助手、講師、助教授、神戸大学大学院法学研究科教授、防衛大学校長を歴任、その間、ハーバード大学、ロンドン大学の客員研究員、政治学会理事長、東日本大震災では政府の復興構想会議議長を務めた。現在、熊本県立大学理事長、神戸大学名誉教授、くまもと復旧・復興有識者会議座長、ひょうご震災記念21世紀研究機構理事長。『米国の日本占領政策』(中央公論社)、『大災害の時代』(毎日新聞出版)ほか著書多数。日本政治外交史専攻。

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