国際交流基金賞 受賞記念講演会
言葉を運ぶ旅、探す旅

2018年12月号

多和田葉子(小説家、詩人)

 多和田葉子氏は1982年以来ドイツに生活の中心を置き、ドイツと日本の間で国と言語の境界を越えて自由に行き来しながら、詩と小説を書き続けてきました。日本語とドイツ語の両方で行われてきたその創作は、ドイツでも日本でも高く評価され、両国ですでに数々の権威ある賞を受けています。国や文化の壁を越えた真の相互理解の促進に貢献してきたその功績が称えられ、2018年度国際交流基金賞を受賞。受賞を記念して開催された講演会「言葉を運ぶ旅、探す旅」でのお話を基に、多和田氏にご寄稿いただきました。

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国際交流基金本部 2階 ホール[さくら]で開催された、多和田葉子氏の国際交流基金賞受賞記念講演会「言葉を運ぶ旅、探す旅」(2018年10月23日)。モデレーターは東京大学大学院人文社会系研究科の沼野充義教授(左)。
撮影:桧原勇太

 「草枕」という言葉があります。夏目漱石が1906年に発表した小説の題名でもありますが、同時に「旅」にかかる枕詞でもあります。「草枕」が「枕詞」では枕が二つになってしまうのではないか、と大学受験の勉強をしていた時に不思議に思った記憶があります。
 実際にいろいろな国を旅行してみますと、二つどころか5つとか8つも大小様々な枕がベッドに並べてあるホテルがあります。これは肩が凝る人、背中の痛い人、それぞれが好きな場所に枕を差し入れて寝るように考えたのか、あるいは首がいくつもあるインド神話に出てくる蛇の神様ナーガが宿泊することを考えてそうしたのか、わかりませんが、私自身、あの枕に乗せる頭、この枕に乗せる頭、と多言語的な睡眠に戸惑ってしまいます。
 「枕が変わると眠れない」という表現がありますが、わたしの場合、自分の枕には「ご無沙汰しています」と挨拶したいくらいで、例えば今年の前半6か月のうち何日、ベルリンの自宅の枕に頭を乗せて寝たか数えてみると、71日でした。283日のうち71日ですから、4分の3は旅に出ていたことになります。では、今年になって宿泊したケルン、マインツ、チューリッヒ、ライデン、ユトレヒト、デンハーグ、バルセロナ、ニューヨーク、ロサンゼルス、トウキョウ、サラマンカ、トレント、ヴェネチア、ミラノ、ハンブルク、マニラ、コペンハーゲン、リレハンメル、チュービンゲン、インスブルック、ヴィクトリア、トロントなどなどの枕は一体どんな枕だったのかと聞かれると全く覚えていません。

 「旅」という言葉には、日常を離れて自分や自然と向きあう特別な時間を指すロマンチックなところがあります。松尾芭蕉の旅を思うと、文明の便利さ、衣食住の贅沢、社会的地位、友人や家族の支え、安全の保証などをあえて捨てて、病、貧困、死と向きあわなければ旅とは言えないのかも知れません。そのせいか、普通の 講演旅行、新刊のプレゼンテーション、取材旅行などを「旅」と呼ぶのは気恥ずかしく、むしろ「移動」という言葉がふさわしく思えます。日常が移動しているだけなのです。朝起きればそれがホテルであっても自宅と同じように原稿を書き、インタビューがあれば受け、夜は講演やら朗読やらをして、いろいろな人と話をする。列車の中も飛行機の中も同じです。それは旅ではなく、移動なのです。そういう移動が現代の作家の精神に及ぼす影響は、旅が松尾芭蕉に及ぼした影響とは自ずと違ったものになってくるでしょう。
 「旅」の意味を広辞苑で調べて見ると、「住む土地を離れて、一時他の土地に行くこと」だと書いてあります。亡命者や難民の増えた現代では、滞在ビザを待ちながら、それが一時の滞在になるのか、死ぬまでドイツにいるのか、わからないまま何年も暮らす人たちがたくさんいます。また、 滞在ビザ申請が拒否されてもすぐにドイツを離れなくても大丈夫なので、その代わりちゃんと仕事につくことはできないし、いつ強制送還されるか分からない、という不安を抱えながら何年も暮らしている人たちもいます。旅人ではありませんが定住者でもありません。

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自身の経験を交えて「旅」について語る多和田氏。
撮影:桧原勇太

 広辞苑にはさらに、 「古くは必ずしも遠い土地に行くことに限らず、住居を離れることを全てたびと言った」という説明が付け加えてあります。これは驚きです。家から外に出て、駅前でラーメンを食べている状態も「たび」なのです。例として万葉集の「家(いえ)にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る」という歌が挙げられています。家にいればご飯を食器に盛って食べるけれども、そうではなくて葉っぱに乗せて食べるのが旅、というわけです。確かに食器というのは持ち歩かない事物の代表です。メガネもパソコンも服も家と同じものを持って旅に出ますが、自分のお椀と箸を持ってラーメン屋に行く人はいません。
 ところが食器が変わることは、枕が変わる以上に危ないことかもしれないのです。1982年、ドイツに移動する途中、わたしはインドで途中下車をしました。途中下車というとバスでドイツまで行ったように聞こえますが、そうではなくてエア・インディアの飛行機でヨーロッパに行くことになったのですが、途中インドで降りて一か月くらいぶらぶらしていたのです。デリー、アグラ、パトナ、ボンベイ(ムンバイ)などを列車でまわりました。駅に電車が止まると、窓を開けて、プラットホームにチャイを売りに来た男たちから、土を焼いた粗末な茶碗に入ったチャイを買いました。飲み終わると、その茶碗をみんな地面に叩きつけて割っていたので、どうしてそんなことをするのか聞いてみると、自分の口が触った食器を悪い人が拾って、あとで黒魔術をかけると自分が病気になるから、と説明してくれた人がいました。それ以来、外で食事をしたり、コーヒーを飲んだ後、微かな不安を感じるようになりました。わたしがそこに残していく痕跡を使って、わたしに影響を与えることが可能かもしれない、と思ってしまうのです。今の時代なら、例えば食器についた唾からDNA判定をすることができます。わたしのクローンを作って、それを操作して罪を犯させることもできる時代が来るかもしれません。でもわたしはサイエンスフィクションの作家ではないので、そちらの方向に空想が広がって行くわけではありません。ただ、ただ、わたしが旅先で話した言葉、残した痕跡は一体どうなるのだろうか、言葉を受け止めた人の中で何かが起こり、その何かにいつの日か出会うこともあるのだろうか、などということはいつも考えます。
 インターネットのない時代なのでホテルの予約もなく、リュックサックを背負ってインドに到着してしまったわたしの1982年の滞在は、「移動」というより「旅」に近かったと思います。そもそも目的のない旅です。ドイツで研修社員として二年間働くことが決まった時に、日本とドイツの間には面白い国がたくさんあるのに途中下車しないで直接行くのは勿体無いと思い、どこに寄ろうかと迷っていました。 そんな時になぜかインドの夢を見たので、インドに行くことに決めました。夢に白い象が出てきたら大変ですが、そうではなくて、もっと日常的なインドの街角の夢だったと思います。
 インドの旅は毎日が戦いで、病気にもなり、壁が昆虫に覆われた部屋にも泊まり、これまで嗅いだことのないほど豊かな香辛料の匂いに包まれ、これまで見たこともない鮮やかな色に染まった布を何十枚も見て、不思議な会話を無数に交わし、タブラの音を骨に刻みつけ、何が悪くて何がいいのか分からなくなるほど揺すぶられました。揺すぶられること。それこそが旅の醍醐味ではないでしょうか。

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2016年インドのジャイプール文学祭にて。壇上左端が多和田氏。

 国際交流基金にはかなり昔から度々お世話になっています。いろいろな国に朗読や講演に招待していただき、また、翻訳という言葉の旅を援助していただいたこともありました。北アメリカやヨーロッパでの仕事が多かったのですが、2016年、国際交流基金の招きでインドのジャイプール文学祭に呼ばれた時には、あれ以来行ってないインドに34年ぶりで行くのかと感慨深いものがありました。もちろん、当時とは全く違って、空港には迎えに来てもらい、ホテルは快適で、食事もその土地らしくしかも安全なものを食べられます。それでも、旅で一番大切な「何が悪くて何がいいのか分からなくなる」貴重な体験をすることはできました。
 まず、細かく時間や段取りを決めてイベントを実行するというやり方もありますが、計画なし、練習なし、段取りは全く決めないでも面白いステージができるということが分かりました。ただし柔軟であること、一度作ったプランにしがみつかないで綺麗さっぱり諦め、新しいプランをとっさに作ること、思うように行かなくても気にしないこと、目の前にいる人間たちを五感全部で理解することなどが大切なのです。

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(c)Florian Thoss

多和田葉子
東京生まれ。早稲田大学文学部卒業。1982年、ドイツ・ハンブルクへ。ハンブルク大学大学院修士課程修了。チューリッヒ大学大学院博士課程修了。1993年『犬婿入り』で芥川賞、2011年『雪の練習生』で野間文芸賞、2013年『雲をつかむ話』で読売文学賞と芸術選奨文部科学大臣賞(文学部門)を受賞。日独二か国語で作品を発表している他、著作は多くの言語に翻訳されている。世界的に権威のある文学賞として、2016年にドイツのクライスト賞を、2018年に『献灯使』で米国の全米図書賞を受賞。2006年よりベルリン在住。

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