ウラジーミル・ニコラエヴィッチ・ワシーリエフ
西村雄一郎
司会・通訳 池田正弘
2010年に、生誕100年を迎えた映画監督・黒澤明が唯一、海外で撮影した日ソ合作映画『デルス・ウザーラ』。当時、助監督を務めたウラジーミル・ニコラエヴィッチ・ワシーリエフ氏が来日し、撮影当時のエピソードやシベリアでの「黒澤組」の友情、ロシアでの黒澤評価などについて語るイベントが催されました(2010年12月8日、JFICホールにて)。当時の様子を記録した映像なども上映。また、映画評論家で『黒澤明 封印された10年』、『黒澤チルドレン』などの著書のある西村雄一郎氏が対話に加わりました。
黒澤明監督の名前を知らない
ロシア人はほとんどいない
池田:ワシーリエフさんは、今回が初めての訪日です。こうした形で黒澤さんと仕事をした方のお話を直接お聞きできるのは、たいへん貴重な機会だと思います。
ワシーリエフ:黒澤明さんという偉大な監督と仕事をした縁で、こうしてみなさまとお会いすることができました。『デルス・ウザーラ』が完成したのは1975年、約35年前です。以来、私は黒澤さんの生まれた日本に来たいとずっと願っていました。日本には『デルス・ウザーラ』で一緒に仕事をしたスタッフの方々がたくさんいますし、ロシアにも俳優はもちろん、スタッフも大勢います。その中には映画監督になった人も、舞台の監督になった人もいます。
2010年6月に開かれた第32回モスクワ国際映画祭では、会期のうち1日が"レトロスペクティブ「黒澤明100年」"という企画に当てられ、シンポジウムに世界中から黒澤監督の研究者25人が参加しました。日本からは西村雄一郎さんがモスクワに来てくださいました。ロシアからは映画監督のニキータ・ミハルコフが参加しました。黒澤さんとミハルコフは5回くらい会っており、彼は黒澤監督に因んだ賞も受けています。
当時のソ連では、黒澤さんは大変尊敬されており、ソ連で1本撮ってくれるというので、モスフィルム(ソ連時代の国営の映画会社)を挙げての大歓迎でした。現在、ロシアでは黒澤さんの作品を収めたDVDなどもたくさん出ています。日本の首相の名前を知らなくても、黒澤さんの名前を知らないロシア人はほとんどいないと思います。ソ連時代、私は数多くの地方都市から『デルス・ウザーラ』や黒澤監督について話してほしいという依頼を受け、話をしてまいりました。
この35年、私が肌身離さず毎日身に着けているものがあります。黒澤さんからいただいたセイコーの腕時計で、今も正確に動いています。また黒澤さんは、『デルス・ウザーラ』がモスクワ国際映画祭で金賞を受賞したときにしていたネクタイも記念にくださいました。日本大使館でパーティがあるときなど、私は必ずそのネクタイをして出席したものです。
アルセーニエフ役で主演したユーリー・ソローミンも黒澤さんからセイコーの腕時計をプレゼントされ、いつもつけていました。ところが、別荘へ行ったときに、庭仕事をしているうちに、なくしてしまいました。庭中を探したけれど出てこなかったそうです。2年後、同じ庭を掘ったら、何か固いものに当たった。掘り起こしてみると、なんとあの腕時計で、土をぬぐって振ってみると、ちゃんと動き出したそうです。
『デルス・ウザーラ』撮影の提案は
ソ連側を驚かせた
池田:本日、皆さんにご覧いただいた最初のフィルムはワシーリエフさんが制作した『デルス・ウザーラ』のメイキングフィルムで、日本で映写されるのはおそらく初めてです。もう1本は黒澤さんの生誕100周年を記念して、2010年にクラスノヤルスクのテレビ局がテレビ放映用に制作したものです。こうしたテレビ番組ができるくらい、黒澤さんの生誕100年はロシアで意識されています。
ワシーリエフ:『デルス・ウザーラ』のあとで、ドキュメンタリーのメイキングフィルムをつくることができたのは、モスフィルムの当時のシゾフ総裁、それから幹部のエルマーシュが大変、黒澤さんを尊敬していたからです。シネマスコープ(シネスコ)という幅の広いサイズで400本、スタンダードサイズで400本がつくられたようです。しかし、現在では、完全なものを1本も見つけることができない状態です。
もちろん『デルス・ウザーラ』のフィルムはありますし、そのときの撮影の材料も、ある程度アーカイブにはあります。それから、『モスクワ映画祭金賞受賞』という15分ぐらいのドキュメンタリーフィルムも残っていますが、このメイキングはどうしても見つからないのです。
それ以外にも黒澤さんについて『創作のリズム』というタイトルで撮ろうという話もありましたが、実現していません。70ミリで撮ったフィルムの材料が倉庫にたくさん残っていましたが、ソ連邦が崩壊し、モスフィルムが大変な状態になり、当時保存していた材料は次々に捨てられてしまったのです。しかし、黒澤さんの記憶は私やスタッフの胸と頭には残っています。
黒澤さんに1本撮ってもらうことが決まったときに、黒澤さんから最初に提案されたのは、ゴーゴリの『タラス・ブーリバ』でした。これはコサックの話で、『戦争と平和』をつくったセルゲイ・ボンダルチューク監督がすでに準備をしていたため、候補から外れました。次に黒澤さんから出たのが『デルス・ウザーラ』でした。ソ連で過去2回それまで映画化されていたので、ソ連側は「どうかな」という感じでしたが、黒澤さんが「ぜひこれにしよう」と推して決まりました。
池田:ソ連側は、黒澤さんが『デルス・ウザーラ』を提案したことに驚いたそうです。ドストエフスキーやトルストイの作品も候補に挙がっていましたが、驚くのは黒澤さんがロシア文学をたくさん読んでいることです。『戦争と平和』だけでも10回くらい読んでいる、と聞いています。仮に他の日本の映画監督が1975年ごろにソ連に呼ばれても、『デルス・ウザーラ』を撮りたいという希望は絶対に出なかったでしょう。
黒澤流の映画づくりに
撮影は困難を極めた
ワシーリエフ:『デルス・ウザーラ』の撮影で黒澤さんが描いた絵コンテが残っています。デルスとアルセーニエフが出会う場面は、カメラ3台で撮ると描かれています。黒澤さんの前には、ソ連では3台同時で1つの場面を撮ることはあまりありませんでした。だから、黒澤さんはフィルムの使用量が格段に多かった。カメラ3台を同時に回すとフィルムの使用量は3倍になるわけです。
フィルムはソ連製の「シベーマ」というブランドのフィルムでした。黒澤さんがソ連の映画監督アンドレイ・タルコフスキーと会ったときに、「ソ連製のフィルムを使う」と言ったら、タルコフスキーは「それは止めたほうがいい。質が悪くて色が褪せてしまうから、フジかコダックを使うべきだ」と言ったそうです。ただ、ソ連側にとってはそのお金が出せず、結局ソ連製のフィルムを使いました。
撮影チームは100名を少し超えるという大所帯でした。機材はもちろん馬などもモスクワから持ち込みました。私たちのロケの周囲には保護のために部隊がいましたが、彼らの食糧はヘリコプターで運ぶという騒ぎでした。
黒澤さんは季節の進行通りに撮りたいというやり方でした。夜のシーンですら、秋なら秋に撮るというこだわりようでした。
「谷間で」という場面は、夜の撮影で蚊もたくさんいて大変でしたが、フィルムのせいもあってうまくいかなくて、1万2000メートルものフィルムが無駄になってしまいました。
また、洪水の場面を撮るときには、極東で本当に起きた洪水の様子を撮りました。10万ヘクタールもの土地が水浸しになった大洪水だったのですが、そのときにはほかの撮影のためのセットも水浸しになって使えなくなってしまうありさまでした。
一番大変なことが起こったのは、1974年10月15日です。予想に反して早く大雪が降って、すべてが雪景色になってしまったのです。私たちは秋の大河の様子を撮る予定でした。そこで、モスクワから人工の葉をたくさん運び、東京からもプロデューサーの手配で人工の葉を持って来て、それはもうスタッフ総出で、兵士たちも手伝って、木に葉をつけて回りました。
大変でしたが、これはが黒澤さんのやり方で、彼の才能を支えていたと思います。こんな具合ですから、私も上の管理側と意見が合わなくて往生したことがあります。半年ほど日本のスタッフと一緒に仕事をしていたので、私も日本側と同じ立場で上とかけあいましたが、うまくいかないこともありました。「これが通らないのなら、首にしてくれ」とたんかを切ったことがあります。話がこじれてモスフィルムのトップまで行き、最後は黒澤さんとプロデューサーの松江陽一さんが「この件はわかった。ただワシーリエフは残してくれ」と言ってくださって、辞めずに撮影を続けられました。
白熱したモスクワでの
生誕100年記念シンポジウム
西村:私は2010年6月に行われたモスクワ国際映画祭に招いていただいて、行ってまいりました。上映された作品は、『デルス・ウザーラ』と『八月の狂詩曲(ラプソディー)』と『まあだだよ』の3でした。『デルス・ウザーラ』は、本当にびっくりするぐらい多くのロシア人がすでに観ているので、今回の上映時の観客はあまり多くなかったのですが、あとの2本は初めてロシアで公開されるということで超満員でした。私は上映前に解説をし、特に『デルス・ウザーラ』が黒澤さんの作品の中でどのような位置にあるかを説明しました。
黒澤さんは1965年の『赤ひげ』が終わったあと、ハリウッド映画の『トラ・トラ・トラ!』に関わって、途中で降板しました。『トラ・トラ・トラ!』は、たまたま今回の映画祭で戦争映画の特集があり、上映されていました。それから70年に『どですかでん』を撮りましたが、興行的にはうまくいかず、75年の『デルス・ウザーラ』で復活したわけです。ですから、『デルス・ウザーラ』はある意味で、黒澤さんを救った映画であると話してまいりました。
黒澤さん関係の催しのメインは6月21日のシンポジウムでした。1部と2部に分かれていて、1部には映画監督のニキータ・ミハルコフが「黒澤さんのためなら」と参加しました。ワシーリエフさんもいらっしゃいましたね。それから『デルス・ウザーラ』で探検家アルセーニエフ役をされたユーリー・ソローミンさんの思い出話がもう面白くて、シンポジウムの予定時間をオーバーして、昼食抜きで話し続けるほど、白熱したシンポジウムになりました。
午後はロシアとカザフスタンから、このシンポジウムのために公募し、選ばれた14名が1人の持ち時間15分で、黒澤さんとエイゼンシュタインの関係など、さまざまなテーマで話しました。私は真ん中に30分間いただいて、「黒澤さんの映画音楽がいかに優れているか」という話をしました。
モスクワに行って、人々が黒澤さんを尊敬しているということが身をもってわかりました。何よりもすばらしいのは、生誕100年ということで、黒澤さんの作品やロシアとの関わりを後世に伝えて残していこうという真摯なシンポジウムを開いたことです。日本でこうしたシンポジウムをなぜやれないのかと、悔しい思いをいたしました。
翌日、私は映画祭の関係者に「モスフィルムに行かせてほしい」とお願いしました。オスカー像がどこに飾ってあるか、見て確認したかったんですね。行ってみると、重役たちのための会議室にガラス張りのケースがあり、モスフィルムがアカデミー賞外国映画賞を受賞した2作品のオスカーがありました。左側にはボンダルチューク監督の『戦争と平和』、右には黒澤さんの『デルス・ウザーラ』のオスカーが、賞状とともに飾ってありました。それが確認できたのは本当に良かったと思います。
ワシーリエフ:そうですね。黒澤さんは、モスクワ映画祭金賞に続いてアメリカで外国映画賞・オスカーを受賞しました。当時、ソ連側はオスカーまでもらうことは予想していなかったので、黒澤さんもロシア側の制作者も招かれていません。『デルス・ウザーラ』が外国映画賞を受賞したとき、たまたまそこにいたソ連の映画監督でコメディーを撮っていたゲオルギイ・ダネーリアと、有名な映画批評家のロスチスラフ・ユレーネフがソ連代表としてオスカーを受け取りました。そのオスカーがソ連にわたり、KGBの手も経て、我々が目にするまでには半年がかかりました。
そして、黒澤さんにモスクワに来てもらい、それを手渡して、パーティーをしました。その後、オスカーはモスフィルムの書棚にしまわれたのです。モスクワ国際映画祭の金賞の盾もモスフィルムにしまってあるそうです。
日ソ合作第二弾の『赤き死の仮面』も
準備が進んでいた
西村:ワシーリエフさんに質問ですが、黒澤さんが撮影を終えて、1975年のモスクワ国際映画祭で金賞を受賞したあと、モスフィルムのシゾフ総裁と会食をして、ソ連映画界やモスフィルムのどこを変えるべきかというお話をしたそうですね。
ワシーリエフ:はい。黒澤さんが気に入らないことはたくさんありました。私の仕事にも、「上に図らないと何にもできない」とずいぶん不満があったようです。「上にいろいろ聞いてばかりいないで、撮影がどうやったらうまく行くか。それをもっとやってくれ」と言われたものです。私は答えました。「でも、私がこれをやらないと撮影そのものができないんだ」と。
それから黒澤さんの言われたのは「いくらかかるかを考えるな」ということでした。私は黒澤さんに言いました。「ここにシナリオがあります。これで撮影するためにはいくらかかるということを、言わないといけない立場なのです」。ソ連の映画界では、シナリオに基づいて、撮影計画を立てていくらかかるかを出さねばなりませんでした。
当時のソ連にはフィルムについてのノルマがありました。何メートルのフィルムを使ったら、そのうち何メートルは実際の映画に使われなくてはいけないということまで決まっていました。
最後のほうの撮影で、ハバロフスクのシーンがありました。ハバロフスクの全景、ハバロフスクという標示、それから1000人くらいの人が写っている場面、これは時間でいうと10秒のシーンです。それを逆算すると、きわめて短いフィルムしか、この場面では使えないことになります。ソ連側のシナリオを書いたユーリー・ナギービンに、「この場面、シナリオ上で何か付け加えてくれないとフィルムが使えない」と言いました。そうやってフィルムを使う許可が出るというシステムです。
例えば、デルスが死に、覆われて映る場面がありますが、ソ連側はその場面は人形で撮影すればいいと言うわけです。「お前はソ連側の代表なんだから、お前が黒澤さんに言って来い」と、私はそう言われる立場でした。でもそれを黒澤さんに伝えたらどうなるでしょうか。何とか工夫して、デルス役のマキスム・ムンズークが5日間、その撮影につき合えるように細工をしました。
墓穴も実際に新たなものを掘りました。実際にムンズークを包み、穴の中に入れて、土までかけました。冬だったのでムンズークも相当寒かったと思います。撮影中、二匹の犬を連れたおばさんがたまたま通りかかり、本当に葬式をやっていると思って、傍で十字を切っていたそうです。ところが、ムンズークが突然立ち上がったので、おばさんも腰を抜かすほどびっくりしたという話が残っています。そういうエピソードには事欠かないですね。
西村:黒澤さんは『デルス・ウザーラ』のあと、エドガー・アラン・ポー原作の『赤き死の仮面』をソ連で撮ろうとしていました。「赤」に気を遣って、タイトルは『黒き死の仮面』に変えたそうですが、あの話はどうしてその後、進まなかったのでしょうか。
ワシーリエフ:黒澤さんがオスカーを受賞したときに、「ソ連でもう1本撮りませんか」という話があって、黒澤さんも乗り気でした。黒澤さんは『赤き死の仮面』を提案し、「シナリオもできている。『デルス・ウザーラ』と同じユーリー・ソローミン主演で撮ろう」と言いました。馬に乗る場面がたくさんあるので、ソローミンさんは乗馬の練習も始めたぐらいです。それから同じく音楽担当のイサク・シュヴァルツにも声がかかりました。私にも『デルス・ウザーラ』のスタッフをもう一回集めるようにという話があり、撮影場所としてチェコスロバキアの古城を選びました。しかし、黒澤さんはいったん日本に帰り、それ以上に日本側から話が出ませんでしたし、ソ連側もそれっきりで残念ながら前に進みませんでした。
シナリオは残っていますから、ひょっとして今後、黒澤さんの弟子に当たるような人がこの『赤き死の仮面』を撮ることもあるかもしれませんね。ロシアも新しい時代になって、以前よりも資金の余裕は出てきたので、日露合作映画ができるとおもしろいですね。
1939年モスクワ生まれ。
1955年モスフィルム勤務、最初の仕事はミハイル・レム監督の小道具係、その後助監督、脚本も書いた。
1968年モスクワ文化大学演劇監督学部卒業、自分の脚本で、モスフィルムで短編8本を撮影。ドイツ、ポーランド、ブルガリア、米国、日本との合作映画に参加。
1973年から75年にかけて「デルス・ウザーラ」助監督を務め、「デルス・ウザーラ」のモスクワ映画祭金賞とオスカー受賞後、モスフィルムで「デルス・ウザーラの受賞」、「黒澤明デルス・ウザーラを撮る」の2本を制作。さらに「撮ってもいいですか、黒澤さん」、「黒澤明の創造のリズム」の2本の記録映画の脚本を執筆。
記録映画「モスクワの黒澤明」、「レニングラードの黒澤明」の制作でも、日本に協力した。2010年3月、著作『黒澤明 日本映画の天皇』(原題はロシア語)を上梓。
佐賀市生まれ、早稲田大学第一文学部演劇科卒。
大学卒業後、キネマ旬報社、ビデオプロダクション等を経てビデオCM、ビデオクリップの演出などするなど、映像ディレクターとして活躍。
1985年より、今の佐賀市富士町で行われている「古湯映画祭」の総合ディレクターを務める。
その後、映画評論家・音楽評論家として、『黒澤明 封印された10年』(2007年)、『黒澤チルドレン』(2010年)等の著書を多数執筆。佐賀大学特任教授。
会場写真 Tadao Kawamura
その他 ワシーリエフ氏、西村氏提供