雑誌『をちこち(遠近)』
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国際交流基金の関連事業

小沢剛 高木正勝 アフリカを行く|Dr.Nの人生劇場 小沢剛が繋ぐアフリカ/ガーナ 日本/福島

高木正勝、小沢剛、神谷幸江



 国際交流基金(ジャパンファウンデーション)は、2013年6月に横浜で行なわれた第5回アフリカ開発会議(TICAD V)にあわせ、2013年5月25日~6月9日まで、「小沢剛 高木正勝 アフリカを行く」と題した展覧会をヨコハマ創造都市センターにて開催しました。

 この展覧会のために、2人の注目すべき日本のアーティストがアフリカを訪れ、それぞれの地での人々との出会いや体験、情報をもとに、新たに作品を制作しました。現代美術家の小沢剛氏はガーナへ渡り、その成果をインスタレーション作品の「帰って来た Dr.N」として発表、また映像作家で音楽家の高木正勝氏はエチオピアに渡り、オリジナル作品「うたがき」としてまとめ上げました。

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高木正勝 「うたがき」
映像作家・音楽家の高木正勝氏は、アフリカの中でも独特の歴史や文化を持つエチオピアを旅しながら、そこで出会った農村の人々の姿を、映像や写真に綴っていきました。それらを素材として、エチオピアの人々、特に子ども達の希望や夢、祈りといったテーマに沿い、オリジナリティあふれる映像世界を作り上げました。

「遥かエチオピアの地にて。陽光のような瞳、何かを愛で祝うような唄声にたくさん包まれてきました。光を分け入れば現れる色彩の中で、よくよく心を凝らしてみると、あらゆるものものが、唄い舞っている。慌ただしく過ぎ去っていく時の中で、よくよく心を凝らしてみると、あらゆるものものが、唄い舞っている。
ただただ、そう感じられるような作品になっていればと思います。
子どもの日々、描いた絵日記のように、映像を心の記として、彼の地で感じたものをそのままに。」

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5面のスクリーンに投影されたダイナミックで美しい映像作品



小沢剛 「帰って来たDr.N」
現代美術家の小沢氏は、約100年前に黄熱病の研究のためガーナに渡りその地に没した野口英世博士に着目し、野口博士の生涯や足跡に独自の解釈とフィクションを交えながら生み出した架空の人物「Dr.N」の物語を、インスタレーション作品「帰って来たDr.N」として発表しました。

(作品や展示写真はページ後半に)





Dr.Nの人生劇場 小沢剛が繋ぐアフリカ/ガーナ 日本/福島

神谷幸江
(本展キュレーター、広島市現代美術館チーフキュレーター)


 誰しもが手にしたことがあるだろう、この偉人についての伝記を。
 野口英世。幼少の頃の名を清作。1876年(明治9年)福島県猪苗代町に生まれ、1928年(昭和3年)、ガーナ・アクラで黄熱病のため死去。国際的細菌学者。梅毒スピロヘーターの純粋培養に成功し、黄熱病の研究に心血を注いだ。 現代美術家・小沢剛は、アフリカをテーマにする新プロジェクトで、今から1世紀近く前にアフリカ・ガーナに向かったこの実在の人物、千円札の顔でもある野口英世に光を当てた。明治維新から大正、昭和へと社会が大きく変わるなかで、より大きな舞台へ、国を超えて移動し、苦悶奮闘しチャンスを捉えていった、第一世代の国際人、野口の足跡を小沢はたどる。そして野口の人間像に独自の解釈とフィクションを加えて、一筋縄ではいかないキャラクターの持ち主、「Dr. N」なる人物を生み出した。Dr. Nの、波瀾万丈、時に荒唐無稽な人生物語は、単なる絵空事に非ず。過去と現代、文化の違いと距離を超えて、日本とアフリカを結びつけ、現代に私たちが抱える課題に対し思索を促すのである。



偉人の顔、知られざる一面
 野口英世という人物、様々な「顔」を持っていた。
 まず、偉人と称される、不屈の意志を持つ努力の人としての野口像がある。貧しい農家に生まれた野口は、一歳半のとき囲炉裏に落ちて左手に大やけどを負った。しかし母・シカ譲りの忍耐強さと努力から、このハンディキャップに屈すること無く、成績優秀。会津若松の医院で書生となり、寝る間も惜しんで英語・フランス語を取得。勉学に励み医師の資格を得る。語学が得意なことが功を奏して北里伝染病研究所、横浜開国検疫所、ペスト予防のための一員として中国(清)へ。さらにアメリカから来日した博士の通訳を買って出たことをきっかけに渡米。個人助手から機会を手にし、新設のロックフェラー医学研究所で研究に邁進。ヨーロッパに講演へ、南米、アフリカに研究のため遠征に出かける世界規模の仕事ぶりだった。
 一方で、破天荒なエピソードも枚挙にいとまがない。授業料や生活費を知人に無心し、パトロンから用立ててもらった留学費を一夜で使い果たす大胆な遊蕩ぶり。経済観念はどこか抜けていた。
 そして野口は美術と少なからぬ繋がりも持っていた。研究漬けのワーカーホリックだった野口に油絵の手ほどきをした人物が、同じニューヨークのアパートで隣室に住んでいた堀市郎(1879-1969)である。維新後、島根旧松江藩士として禄の無くなった父を見てきた市郎は、日本写真の開祖、上野彦馬についた写真師のもとで手に職を持つべく年若くして写真術を学び、渡米。ブロードウェイの役者のポートレートで定評を集めるなど写真家として成功を収める。野口がチフスにかかり、静養が必要となった折に油絵具一式を送り、これを使って野口は母親や恩師、妻メリーら近しい人々を描いている。堀は野口の死後日本に帰国、絵描きに転向するが、堀が野口を描いた肖像画は、ガーナの日本大使公邸に贈られ、現在もアフリカの地にその姿を留めている。
 野口が生きた時代は、日本の社会に明治維新からの大きな変化の波が押し寄せ、日清・日露戦争、第一次世界大戦と続く帝国主義のただ中にあった。世界に初めて対面した日本人の、国際的な功績ばかりが偶像視され、野口の偉人像が一人歩きした。後に明らかにされていく不品行、生き抜くためになりふり構わない行動力は、野口の負の部分というより、リアルな、人間くさい一面を浮かび上がらせたといえる。愛すべき人間・野口への支持は他に例を見ないほど多くの伝記が出されていることからも明らかだろう。

 小沢の作品は、ユーモアとフィクションを交えて、オリジナルを引用する、いわば本歌取りとでもいう方法をしばしば取る。例えば《醤油画資料館》 (1999-)は、日本美術史で重要な名作の数々を「醤油画」という架空のジャンルを作り上げ資料館仕立てでリメイクし、日本の代表的な調味料である醤油を画材に用いる思いがけない発想で、美術史について顧みるシリーズである。ほかに「画廊」や「大学」などシステムを、ごっこ遊びのように大真面目に取り入れた《なすび画廊》(1993-)、《相談芸術大学》(1995)はじめ、懐かしいもの、少し時代遅れなものに眼を向け作品に取り入れ、一般的なものの見方や、権威的ともなる既成概念に風穴を開け、新たな見方へとずらしていく。小沢は野口の人生物語を基に、現代の福島に戻って今度は見えない細菌ならぬ見えない放射能の脅威に立ち向かうという想像上の人物・Dr. Nを通して、遠く離れた時間と空間を私たちが共有する日常のリアリティーのなかに置き換えるのである。



ガーナの看板絵と音楽による物語の翻訳
 野心を持って世界に向かい、努力を惜しまず、小さなチャンスをものにしていく執念。小柄な体にグローバルな思考と起動力を備え、アフリカと日本を結びつけた野口にインスピレーションを受け、小沢は野口終焉の地、ガーナに向かい、地元の絵師にDr. Nの人生を描いた8枚の看板絵をオーダーした。アフリカの街角に溢れる、ポピュラーな看板絵によって、野口の人生を下敷きにしたDr. Nの物語が描かれていく。他者による、土地特有の表現を取り込んでいくことは、アフリカの地で翻訳される際の誤訳や誤解も寛容に受け止めていく、開かれたダイアログから生み出された。
 Dr. Nの物語の描写は絵画だけでなく、ガーナで出会った地元ミュージシャンの即興的な作詞作曲によって、ダンサブルな音楽にも変わっていった。2012年「別府現代芸術フェスティバル」で、作曲家・安野太郎とタッグを組み、コーラスという共同作業を表現手段に取り入れた小沢は、本作でも安野に編曲を依頼し、合唱の盛んな会津の高校生コーラスを重ね合わせることを思いついた。異なる土地、文化的背景の違いを超えてDr. Nは様々な人々を巻き込み誘うひとつのプラットフォームになっていく。



Dr. Nを通じて考える福島
 2011年の東日本大震災以降、小沢の目は福島の有事に向いている。福島生まれの野口を取り上げることで、今回の小沢の試みもまた、美術作品の制作とそれを通じての発信を続けるアーティストとして、福島とどう向き合うことができるかの自問となった。
 震災後間もなく、小沢は福島で《ベジタブル・ウェポン》の制作を行っている。土地の名物料理の食材を使って作った、戦わないための銃を持って撮影するポートレートのシリーズである。豊かなはずの福島の食材には、当時すでに出荷制限が出ていた。徐々に伝わる原発事故の被害の広がりに、人々が押しつぶされそうな状況のなかで、途絶えそうな人と人との繋がりを、アートという手段がつなぎ止め、関係性を築くきっかけとなることはできないか。小沢が起こしたアクションだった。広島・長崎を経験した国で起きた福島。小沢の精一杯のアクションは、しかしこれからの途方もない道のりの長さに、その微力さを思い知らされるものでもあった。
 小沢の作品が持つ「参加性」は、例えば初期の牛乳箱をギャラリーに見立てた《なすび画廊》に見られるように、ユーモアで既成のシステムを再解釈し、美術の新たな場所と発表の機会を日常に生み出していくという、アートの文脈において批判性を孕むものだった。しかし野口に導かれて再び福島に向かう小沢は、アートの枠組みに限定すること無く、作品を通じて事態を捉え、美術の社会的な関わりを構築しようと果敢に試みる。どこへ向かうべきか、答えを出すことは容易でなく不可能かもしれない。しかし、野口も見たであろう福島の空のもと撮影した作品と、アフリカ・ガーナの地で野口が目にし、耳にしたであろう風景と音楽が同じ場所に会することで、ひとつの可能性を提示する。それは異なる社会空間で実現した美術表現が、繋がりの無かったコミュニティーを引き合わせ、硬直した状況や難問にオルターナティブな視点を投げかけること。グローバルな繋がりのなかで生きる私たちが、まだまだ繰り返さなくてはいけないディスカッションへの参加者は、福島にも、アフリカにも、そしてまだまだたくさんいるはずだ。
 開かれた可能性を模索すべく小沢の問いは未だ続いている。

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ガーナの絵師たちの手で、アフリカの街角を飾るポピュラーな看板絵のスタイルで描き出されたDr.Nの物語。


参考文献
中山茂『野口英世』朝日選書、朝日新聞社、1978年
渡辺淳一『遠き落日』角川書店、1982年
山本厚子『野口英世知られざる軌跡』山手書房新社、1992年
西島太郎『野口英世の親友・堀市郎とその父櫟山』バーベスト出版、2012年
『松江藩士の息子画家になる。孫写真家になる』松江歴史館、2012年





go_to_africa09.jpg 小沢 剛(おざわ つよし)
1965年生まれ。東京芸術大学在学中から、風景の中に自作の地蔵を建立し、写真に収める《地蔵建立》開始。93年から牛乳箱を用いた超小型移動式ギャラリー《なすび画廊》や《相談芸術》を開始。99年には日本美術史の名作を醤油でリメイクした《醤油画資料館》を制作。2001年より女性が野菜で出来た武器を持つポートレート写真のシリーズ《ベジタブル・ウェポン》を制作。2004年に個展「同時に答えろYesとNo!」(森美術館)、09年に個展「透明ランナーは走りつづける」(広島市現代美術館)を開催 white.jpg go_to_africa10.jpg 高木 正勝(たかぎ まさかつ)
1979年生まれ。自ら撮影した映像の加工やアニメーションによる映像制作と、長く親しんでいるピアノやコンピュータを使った音楽制作の両方を手掛けるアーティスト。国内外のレーベルからのCDやDVDリリース、美術館での展覧会や世界各地でのコンサートなど、分野に限定されない多様な活動を展開している。オリジナル作品制作だけでなく、デヴィッド・シルヴィアンのワールドツアーへの参加、UAやYUKIのミュージック・ビデオの演出や、芸術人類学研究所、理化学研究所、Audi、NOKIAとの共同制作など、コラボレーション作品も多数。2009年のNewsweek日本版で、「世界が尊敬する日本人100人」の1人に選ばれるなど、世界的な注目を集める。2012年公開の映画「おおかみこどもの雨と雪」(監督: 細田守)の劇伴を手掛ける。 white.jpg 神谷 幸江(かみや ゆきえ)
広島市現代美術館チーフキュレーター。ニューヨークのニューミュージアムでアソシエイト・キュレーターを経て現職。今回の小沢剛「帰って来たDr.N」展のキュレーターを務めた。国内外で多数の展覧会を企画しており、主なものに、ス・ドホ、サイモン・スターリング、小沢剛、蔡國強らの個展企画(いずれも広島市現代美術館)、「アートの変温層─アジアの新潮流」(ZKM、カールスルーエ、2007)、「Re:Quest─1970年代以降の日本現代美術」(ソウル大学美術館、2013)などの共同キュレーションがある。新聞、雑誌への寄稿のほか、共著に『Creamier: Contemporary Art in Culture』(Phaidon、2010)。早稲田大学非常勤講師も務める




アフリカ映画特別上映会「アフリカ人の描くアフリカ」
国際交流基金は、今回の「小沢剛 高木正勝 アフリカを行く」展と同時に、「アフリカ人の描くアフリカ」と題して、長編・短編合わせて約30本のアフリカ映画の特別上映会も開催しました。普段あまり目に触れることのないアフリカ映画を通じて、アフリカへの興味が高まったという感想も多くいただきました。




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