近代日本の歴史的経験を発信する~ヨーロッパの若手日本研究者に知的刺激を受けて

井上寿一(学習院大学教授)



 国際交流とは国際的な相互交流のことだと思います。近代の日本は欧米文明の受容に忙しく、対外発信よりも受信の方が中心でした。今もそれほど変わらないのではないでしょうか。たとえばグローバル化の問題をめぐって、どのように適応すべきかに議論は偏りがちです。日本はどのようにグローバル化を主導すべきか。このように課題を設定することは稀のように見えます。今の日本にとって重要なのは、海外のことを受信するだけでなく、海外に向けて発信することです。
 このように考えるようになった直接のきっかけは、アルザス日欧知的交流事業日本研究セミナー「大正/戦前」に参加したからです。アルザス・ヨーロッパ日本学研究所(CEEJA)と国際交流基金によるこのセミナーは、2012年9月8日と9日の2日間、フランス・アルザス地方のキンツハイムにあるCEEJAを会場として開催されました。フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、ロシア、スイス、ブルガリアなど、ヨーロッパの各国から日本研究の最先端を行く若手の研究者がつぎつぎと到着します。

alsace_seminar03.jpg  事情をよくご存じない方にこのセミナーのことを話すと、一様に信じられないという表情を浮かべます。疑問は二つです。第一に欧州の多言語のセミナーに井上が参加できるのか。第二に欧州で日本を研究している人がいるのか。第一の疑問は正しいです。第二の疑問は誤解です。どちらの疑問にも共通するのは、国際的なセミナーは英語などの欧米の言語でおこなわれ、日本語を解するヨーロッパの人はほとんどいないと考えがちな日本人の国際的な受信者の立場でしょう。 ここであらためて強調します。ヨーロッパの日本研究の水準はきわめて高いといえます。私たちが知らないだけです。日本語は外国人にはむずかしい。そう思っているのは、日本語しかしゃべれない日本人ではないでしょうか。このセミナーは報告と討論から休憩時間に至るまですべて日本語です。

 どれほど高度で最先端の研究なのか、報告の一部を紹介します。言及された主要な人物を例示すると、有島武郎、宮武外骨、時枝誠記、和辻哲郎、遠山茂樹です。童話をとおして「児童」が形成される過程を分析する社会学の研究や1930年代の日ソ合作映画を主題とする研究もありました。これだけでも研究の多彩さがわかるのではないでしょうか。

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「『アンナ・カレーニナ』及び『或る女』における女性について」「大正・戦前の童話:児童の発見」「確信と日和見主義の間の風刺画家」「宮武外骨と60年代における外骨の再発見」「『行動主義文学論争』と日本におけるフランス知識人概念の誕生」「時枝誠記の言語理論における<志向性>の問題」「初期和辻哲郎の日本史意識を問い直す-『日本古代文化』を中心に」「マルクス主義とアイロニー-遠山茂樹の『昭和史』について」「初めての日ソ合作映画『大東京』(1932年)-音響の問題を中心に」「昭和戦前のドキュメンタリーに基づいたマルチメディア教育」の10テーマの発表が2日間にわたり、全て日本語で行われた。

 繰り返します。これらの研究報告はすべて流暢な日本語でおこなわれました。思えば不思議な体験です。セミナーが終わったあと、CEEJAに程近いレストランで食事をしました。近くの席のフランス人の方が怪訝そうに私たちを見ています。それはそうでしょう。フランス人やその他ヨーロッパの人たちがどこかわからない国の言語で話しているのですから。しかもその話の内容がわかったとしたら、もっと驚くのではないでしょうか。何しろカラオケが歌いたいとか-事実、スマートフォンに入っている谷村新司の「昴」を歌い始めた人がいました-、美空ひばりの後継者は小林幸子ですよねとか話していたのですから。

alsace_seminar05.jpg  日本人ならば誰でもこの人たちに聞いてみたい質問があるのではないでしょうか。それはなぜ中国語ではなく、日本語なのかという疑問です。躍進する大国中国を研究した方がいいのではありませんか。返答は「否定はしない。それでも日本に関心がある」です。
 私はこの答えに意を強くしました。日本は非欧米世界で最初に近代化へと離陸した国です。その過程で日本は漸進的に欧米起源の普遍的な価値(法の支配・基本的な人権・民主主義など)を身に着けました。このような近代の日本の歴史的な経験を今こそ世界に向かって発信すべきではないでしょうか。21世紀の非西欧世界では経済発展と政治的混乱が同時進行しています。このような非西欧政界の安定化のために、日本の近代化の歴史は役に立つはずです。
 日本の近代の歴史に対する日本人が持つ先入観から自由なヨーロッパの若手研究者の研究は、知的刺激に満ちていました。日本はもっと積極的に発信して、世界に受信してもらおう。そう思わずにはいられませんでした。

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自然豊かなアルザスでの2日間の集中セミナー。参加者と一緒に。(筆者は中央)

 最後になりましたが、お礼を申し上げます。実はパリからストラスブールへのトランジットの際に、荷物が行方不明になってしました。荷物が戻ってきたのは、帰国から1ヵ月経ってのことでした。不便な思いをしなかったといえば嘘になります。しかし参加者や関係者の皆様がとても親切でやさしく、楽しく過ごすことができました。このセミナーを支えていただいたすべての皆様に深く感謝申し上げます。アルザスは私のなかでもう一つの大切な心のふるさとになりました。





alsace_seminar01.jpg 井上 寿一(いのうえ としかず)
学習院大学法学部政治学科教授。一橋大学大学院法学研究科博士課程修了(法学博士)、専門は、近現代日本政治外交史。主な著書に『危機のなかの協調外交』(第25回吉田茂賞)、『日本外交史講義』、『アジア主義を問いなおす』、『日中戦争下の日本』、『昭和史の逆説』、『吉田茂と昭和史』、『山県有朋と明治国家』、『戦前昭和の社会』、『戦前昭和の国家構想』など white.jpg



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