雑誌『をちこち(遠近)』
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日系人が最多のブラジルで日本語教育はどう息づいてきたのか

立花アルマンド敏春(ブラジル日本語センター理事長)

その数約160万人と、海外で日系人が最も多く居住する国、ブラジル。日本人移住が始まった1908年から長い間「継承日本語教育」が重視されてきましたが、日系人の世代交代が進むにつれ、「継承語」ではなく「外国語」としての日本語教育へと変わってきています。そのブラジルで、ブラジル日本語センターは1985年の設立以来、日本語教師と学習者の支援、日本文化の普及に努めてきました。また、日系人の多い南米諸国での日本語教育の促進にも貢献しています。その功績により、このたび2016年度 国際交流基金賞を受賞。去る10月20日、ブラジル日本語センター理事長の立花アルマンド敏春さんによる「次世代のための日本語教育の現状と課題―ブラジルの若者たちにとっての日本語と日本文化」と題する受賞記念講演会が、東京外国語大学で開催されました。
(2016年10月20日 東京外国語大学での2016年度 国際交流基金賞受賞記念講演会より)

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2016年度 国際交流基金賞授賞式(2016年10月18日)

日本への帰国を望む若者たちにとって日本語の学習は必要不可欠だった

 1985年に日本語普及センターの名称でサンパウロに設立されたブラジル日本語センター(2003年に改称)は、これまで延べ1000名を超える日本語教師を育成し、毎年約2万人の日本語学習者をサポートしてきました。日本語の教材開発や教員研修に取り組むほか、日本文化の普及と日本語能力向上のために硬筆、書道、絵画、マンガ、アニメ、作文の生徒作品コンクールなどを実施しています。

 サンパウロ出身の立花アルマンド敏春さんは、日系2世で初のブラジル日本語センター理事長です。本講演会では、ブラジルで日本語教育を受けた自身の経験を交えながら、日系社会と日本語教育の変遷、そして現状について語ります。なお、講演は3部構成で進められ、パートごとに東京外国語大学言語文化学部の武田千香教授の進行で質疑応答が行われました。

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東京外国語大学の学生たちを前に講演する立花アルマンド敏春さん。

 まず第1部では、日本人が移住を始めた時代から第2次世界大戦終結までの移民の歴史を振り返ります。

立花「日本人の移住開始は1908年です。781人が移民船の笠戸丸でブラジルに渡りました。移住した日本人は1913年頃から自営農業を始め、何家族もが固まって住むようになり、サンパウロ州のあちらこちらに植民地ができます。ブラジルはヨーロッパからも移民を受け入れていましたので、ドイツ人やイタリア人、スペイン人の植民地もありました。

 1932年、日本人移民は13万人。日本人が固まって住むようになったことで、移民たちは植民地に日本語学校を作ります。そこでは日本の小学校で採用されている教科書を使って日本語学習を行い、さらにポルトガル語も教えていました。たとえば高卒でどちらの言語もできる農家のお嬢さんなどが、先生を務めたそうです。子供たちは小学1年生から3年生まで地域の日本語学校で学び、4年生からブラジルの公立学校に通い始めました。

 その当時、移民の意識はどうだったか。ブラジルで財産を築き、いずれは日本に帰るという考えでした。だから、日本語の学習は絶対に必要。逆に、ポルトガル語はブラジルで生活できる程度でいい、そう思っていたんです。実際、地域の日本語学校で3年間ポルトガル語を学んだ後、ほとんどの子供はポルトガル語を勉強しませんでした。

 ところが、戦争が始まる直前の1937年に14歳以下の児童への外国語教育が禁止されます。1938年にはブラジル政府によって日本語、イタリア語、ドイツ語の使用が禁じられた。さらに、1940年に日本語の新聞や雑誌が発行禁止となりました。

 日本語学校が閉鎖されてしまったため戦時中は巡回教室というものができたそうで、私の母もそこで勉強を続けたといいます。その時代を経てきた今80代以上になるかなりの日系人は、ポルトガル語だけでなく日本語もあまりできません。彼らは自分のようにはならないでほしいという思いから、息子や娘に日本語をきちんと学ぶことを強く望みました」

武田「第1部が終わったところで質疑応答の時間を設けたいと思います」

学生「第2次大戦中、連合国側についた国に住む日系人や日本人移民はアメリカの収容所に強制連行されたと聞きました。ブラジルでもそういうことが起きたのでしょうか」

立花「ブラジル政府にもアメリカから、移民をアメリカに送るよう要請がありました。ただ、ブラジルの当時の大統領、ジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガスはそれに従わなかったため、ブラジルに住む日本人がアメリカに強制連行されることはなかったようです。ペルーでは、ほとんどの日本人がアメリカの収容所に連れて行かれたと聞いています」

日系人の親世代は子供たちをブラジルの公立学校へ通わせることを優先

 第2部は戦後から1990年までの日系社会と日本語教育についてです。

立花「私は1954年の戦後生まれです。第2部の時代に当てはまる世代なので、自分の経験も含めてお話しようと思います。

 戦争が終わると、日系人が集中して暮らす地域で日本語学校が復活します。ただし戦前と違って、日本語だけを教える学校でした。
 1957年、全伯日本語教師研修会が設立されます。子供たちに日本語を教えるために、先生たちは協力して頑張ったわけです。ブラジル日本語センターの前身である日本語普及センターは、それから20数年後の1985年に設立されました。今回の国際交流基金賞の受賞は、これまで日本語教育に従事してきた先生たちの成果によるものだと私は思っています。

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全伯日本語教師研修会は現在、ブラジル日本語センターによって実施されている。

 私は5歳まで、家族と日本語で話をしていました。ポルトガル語を学習し始めたのは、ブラジルの公立学校に入学してから。ポルトガル語があまりできなくて、先生に学校では日本語を使ってはいけないと注意されたものです。
 公立学校で授業を受けた後、日本語学校に行って勉強しました。1960年代から70年代にかけてのことです。その頃も日本の学校で採用される国語の教科書が使われていました。
 当時の日系人の子供たちは、平均すると小学4年生程度の日本語能力を持っていたと聞いています。私は小学校6年生まで日本語学校に通っていましたから、4年生を基準とするならば、もう少し上のレベルまで勉強したことになります。

 戦前、日本人はいつか母国に帰るという意識を持っていたと、第1部でお話しましたね。戦後は違います。ブラジルに根を下ろして生きていくという気持ちに変わりました。日系人にとって日本語はもちろん大切だけれども、ポルトガル語の勉強はそれ以上に必要。だから日系人の親たちは、子供を優先的にブラジルの公立学校に通わせたんです。
 すると、日本語学校で学年に応じた授業ができなくなってきました。10歳で小学1年生程度、12歳で3年生程度というように、子供たちの日本語レベルが年齢と一致せず、しかもバラつきが出てきたからです。教える先生はもう大変。それでどうしたか。ブラジルで独自に国語の教科書を作り始めたんです。

 日本文化についても少し触れましょう。
 私が10歳だった時に憧れていたヒーローがいます。『ナショナルキッド』です。ナショナルは今のパナソニック。『ナショナルキッド』は子供向けのSF番組で、ブラジルでも放送され、大変な人気だったんです。そのあとはウルトラマンに夢中になりました。それらのヒーローは日本文化の象徴であり、子供たちの中には強い憧れがありました」

武田「第2部が終わりましたので、私から一つよろしいですか。立花さんはブラジルの学校と日本語学校の両方で学んで、ブラジル人の子供たちより余計に学校に行かなくてはならなかったわけですが、嫌だなとは思ったことはありませんでしたか」

立花「ありましたよ(笑)。ですから、小学校6年生で日本語の勉強をやめました。引っ越しをきっかけに『学校が遠くなったから、もう行かない』と言って。でもそれは口実で、本当は日本語の勉強をしたくなかったからです。
 ただ、日本語はまた勉強しようと思えばいつでもできる、と思っていました。実際に日本語の勉強を再開したのは30代になってから。私は物理の教師になり、すでに子供が二人いましたが、一念発起して日本の文部科学省が実施する国費外国人留学生プログラムの教員研修留学生に応募したんです。それで、34歳の時に初めて日本に来ました。2年半ほど滞在し、皆さんの前でこうして話せる程度の日本語を身につけたというわけです」

学生「ナショナルキッドをはじめとして、日本文化への憧れがあったとのことですが、ブラジルで日本語を学ぶうえで日本文化も助けとなっていたのでしょうか」

立花「ブラジルでも日本の少年漫画、少女漫画を買うことができましたので、漫画は日本語の学習に役立っていたかもしれません」

継承日本語教育から、「外国語」としての日本語教育へ

 日本人のブラジル移住開始から110年が経ち、すでに日系6世も誕生。第3部で立花さんは、日系人たちの現在の意識を伝えます。

立花「日系ブラジル人の日本への出稼ぎが始まったのは1988年。1991年頃がピークでした。ブラジルの日系人は約160万人で、ピーク時には32万人が出稼ぎに来ていたんです。2008年のリーマンショックで日本経済が厳しくなり、日系人もずいぶんブラジルに帰国しました。それでも現在、日本には18万人ほどの日系ブラジル人が住んでいます。
 どういう人が出稼ぎに行くかというと、大学を卒業しても収入のいい仕事に就けない人たちです。ブラジルでも子供の数が減り、なおかつ働き盛りの世代が出稼ぎに出ていく。その影響は、日本語学校の運営にも及んでいます。
 たとえば、日本語学校でずっと行われてきた運動会が姿を消していきました。私の息子は今35歳ですが、息子が日本語学校に通っていた子供の頃に運動会は2年に1度の開催になったんです。その後はまったく開かれなくなりました。

 では、日系社会で今、日本語教育はどうなっているか。継承日本語教育から外国語としての日本語教育に変わってきています。
 私が10歳の時までは、ブラジルの義務教育で教える外国語はフランス語でした。その後、英語が外国語科目として教育委員会に認められ、以来、学校では英語を教えています。今は日系人の若者にとっても、日本語より英語が大切になってきているんです。

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ブラジル日本語センターが行っている日本文化体験講座

 私はブラジル日本語センターの理事長の他に、私立学校の理事長も務めています。ブラジル人、日系人を問わず、生徒にはこう話すんです。『言語は大切です。必ず英語を勉強しましょう。英語だけでなくスペイン語も勉強してください。興味があれば日本語も勉強してください』と。『英語だけ』とも『英語より日本語を』とも言いません。今は多文化の時代です。『できれば第2、第3の言語を持ってください』と発言しています。
 今、日本語学校では、非日系の学習者が少しずつ増えてきています。地域によっては、半分近く占めているところもあるんです」

学生「日本人がブラジルに移住した当初は、日本への帰属意識があったと思います。日本語を外国語として認識している現代の日系の方たちには、日本人としてのアイデンティティはあるのでしょうか」

立花「現代の若い日系人たちも、日本に対する知識欲は持っているでしょう。でもほとんどの人は、自分はブラジル人であると認識していると思います」

 ただ、日本人が持つ気質と精神性は日系1世から2世へ、2世から3世、4世へと受け継がれていると言えるかもしれません。立花さんは講演の中でこう語っています。

立花「日系人は勤勉で真面目。そして非常に教育熱心です。サンパウロ州の日系人口比率は1%でしかありませんが、私がサンパウロ大学で学んでいた当時、日系人の学生は16%を占めていました。今もその水準は続いているはずです。真面目に勉強した結果が、東大に匹敵するサンパウロ大学への進学率に表れていると言っていいでしょう。日系人の勤勉さは、ブラジルで評価されている要素の一つだと思います」

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講演会終了後には立花さんと進行役の武田教授が日本語教材を贈り合った。右端は立花夫人。

(編集:斉藤さゆり)

brazil-japanese-education_07.jpg 立花アルマンド敏春
2016年4月にブラジル日本語センター理事長に就任。サンパウロ出身の日系2世で、サンパウロ大学を卒業後、物理の教師に。34歳の時に文部科学省が実施する国費外国人留学生プログラムで日本に留学した経験を持つ。

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