雑誌『をちこち(遠近)』
バックナンバー

バックナンバー一覧

ひと瓶の醤油があれば
ナンシー・シングルトン・八須

ナンシー・シングルトン・八須(日本食研究家、「サニーサイドアップ!」主宰)

日本人の食卓に欠かせない調味料、醤油。重要だとわかっていても、近所のスーパーで適当に買ってしまったりします。しかし、醤油とは、生産される地域の嗜好などによって、さまざまな個性を持つ、奥深い調味料なのです。
米国カリフォルニア州で生まれ、埼玉の有機農家に嫁いだナンシー・シングルトン・八須さんは、醤油という食材の奥深さに触れ、毎年、手作りするようになりました。
ユネスコ無形文化遺産でもある和食についての本も出版されているナンシーさんに、日本食への情熱と伝統製法で作られた醤油について、ご寄稿いただきました。

syouyu_01.jpg syouyu_02.jpg

左: 八須家の小麦畑で、自身が経営する英語教室の幼児クラスの子どもの手をひくナンシーさん
右: 味噌や漬物を発酵させるための樽
写真: 三浦健司

1988年7月半ば、埼玉が蒸し暑くなり始めたころ、私は成田空港に降り立ちました。来日したての私が口にした食事には、馴染みのあるもの(寿司)もあれば、見たことのないもの(ケーキのように分厚いトースト)もあり、新たな味に出会うたび日本食に夢中になっていきました。最初、私が教える英会話学校の成人クラスの生徒たちが、思いつく限りの日本の食文化を熱心に紹介してくれました。けれども月日が立ち、何度も同じ店に通ううちに、食べる料理すべてが必ずしも目の覚めるほど美味しいわけではない、と気づき始めました。来日当初に出会った味には魅力を感じなくなり、口にするものの多くにすぐさま私の舌が興奮を覚えることはなくなりました。 そうして、もっと美味しいものを探す旅が始まったのです。

syouyu_03.jpg syouyu_04.jpg
syouyu_05.jpg syouyu_06.jpg

左上:豆を乾燥させる(埼玉県神川町)
右上、左下、右下:ヤマキ醸造での醤油作り
写真: 三浦健司

はじめは、自宅から車で行ける範囲で飲食店を回ったり、料理に使う基本的な食材の生産者を訪ねたりしました。結婚して最初の10年の間は、こうして、あちこち訪ね回り、人脈を築き、活動範囲を広げていきました。幸い私が住む地域は、60年近く化学肥料を一切使わない自然農法を手がける須賀さん一家の影響で、有機農業がさかんでした。私の夫も、この一家の長である須賀一男さんの影響で有機農業を始めました。私たちが師と仰ぐ須賀さんただひとりの存在が波及効果を生み出し、今やこの地域は、国産有機原料のみを使った食品メーカーがひしめく一大拠点になっています。

syouyu_07.jpg syouyu_08.jpg syouyu_09.jpg

左: しぼりたての醤油
中: 鰹節を削る
右:もろみ(醤油をしぼる前のペースト状のもの)
写真: 三浦健司

さらに、醤油など基本調味料のひとつにこだわれば、自宅のパントリーに次々と連鎖して変化が起こります。たとえば、国産有機大豆を樹齢100年の杉の大木で作った樽でふた夏かけて発酵させる伝統製法で作られたこだわりの醤油を用意します。近所のスーパーで買った小松菜を茹でたものに、この醤油をかけてみましょう。小松菜の食感はあっても、この野菜特有の風味が感じられず、幾重にもかさなった醤油の味の深みに負けてしまうでしょう。当然、この結果にがっかりして、ミネラル豊富で口一杯に風味が広がるような野菜を思わず食べたくなるはずです。そこで、丹念に育てられた有機野菜と伝統製法で作られた醤油を合わせてみれば、メロディーを奏ではじめます。でも、これだけでは、まだ完成ではありません。ここにパックの鰹節(何日か燻してあるが、発酵や5カ月間の天日干しは行われていない製品)をかけてみます。今度は、醤油のかかった小松菜の味が引き立たてられず、悲しくなるはずです。 ところが、最高級品の本枯れ鰹節を削って小松菜の上にたっぷりのせると・・・・・・ほら! 驚くほどシンプルながら、人生を変える一品が出来上がります。丹精込めて伝統製法で作られたひと瓶の醤油が、毎日口にする食品への意識を変える連鎖反応を生み出すのです。

syouyu_10.jpg syouyu_11.jpg syouyu_12.jpg

小松菜に鰹節を乗せ、醤油をかける
写真: 三浦健司

syouyu_13.jpg
写真:三浦健司

ナンシー・シングルトン・八須
米国カリフォルニア州出身。スタンフォード大学卒業後、1988年に来日。埼玉県にある築85年の古民家で農業を営む日本人の夫と暮らす。3人の息子の母親でもある。埼玉で10年以上スローフード運動のリーダーを務め、日本全国の地産地消運動にも積極的に参加している。初の著書 Japanese Farm Food(Andrews McMeel、2012年9月)は、ニューヨーク・タイムズ、ロンドン・タイムズ、LAタイムズの各紙で絶賛され仏語、独語、日本語に翻訳された(日本語版:『スタンフォードの花嫁、日本の農家のこころに学ぶ』日本文芸社、2015年)。 日本の漬物と保存食をテーマにした2冊目の著書Preserving the Japanese Way(Andrews McMeel、2015年8月) は、アート・オブ・イーティング賞、ジェームズ・ビアード賞、グルマン賞の最終候補に残った。現在、Phaidon Pressから刊行予定のJapan the Cookbook(2018年春)、ワニブックスから刊行予定の日本食の料理本(2017年秋)を執筆中。

日本国内のテレビや活字メディアにもたびたび登場し、NHK、TBS、フジテレビの番組が、ナンシーさんの保存食作りや農家での食生活、消えゆく食の伝統をたどり全国の生産者を訪ねる様子などを取り上げている。

Page top▲

Twitter - @Japanfoundation