雑誌『をちこち(遠近)』
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インドネシア元日本留学生協会(プルサダ)講演会レポート 55年の歩みとこれから

2019.12.25

【特集071】

日本とインドネシアの懸け橋となることを目的に、1963年に日本への留学経験者を中心に設立され、現在では約8000人の元日本留学生を擁するインドネシア元日本留学生協会(プルサダ)。1986年にはプルサダとインドネシア日本友好協会が中心となって私立のダルマ・プルサダ大学が設立されました。5400人の学生全員が日本語を学習する、インドネシアで最も日本語学習者の多い大学です。卒業生の約4分の1が日系企業に就職するなど、日本とインドネシアの将来を担う若者を輩出しています。
11月9日に国際交流基金本部で行われた講演会では、プルサダ第一副会長のイスマジ・ハディスマルト氏、事務局長のヒデキ・アマング氏を迎え、プルサダの歩みを振り返るとともに、ダルマ・プルサダ大学の日本語指導を監修した広島大学副理事の迫田久美子氏を聞き手に、現在の活動や思いを語っていただきました。

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第1部:イスマジ・ハディスマルト氏(プルサダ第一副会長)「プルサダ55年の歩み」

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プルサダの歩みについて語るイスマジ・ハディスマルト氏

1970年代、50年ほど前に個人留学生として日本に留学し、技術を学びました。
日本は第二の故郷。プルサダの活動を通じ、日本とインドネシアの深い友好関係をさらに強くし、平和を実現していきたい。この取り組みこそが、私の人生における喜びと感じております。

インドネシア人学生が初めて日本に留学したのは1932年。それ以降、後のASEANの事務総長ウマルジャディ・ニョトウィジョノ氏等、多くの自費留学生が来日しました。彼らは、「SYARIKAT INDONESIA(シャリカット・インドネシア)=インドネシア人協会」を日本において設立しました。その後、そこからインドネシア人元日本留学生の会等が設立され、現在のプルサダとなったのです。

第二次世界大戦中、そして日本の統治時代にかけても、新聞社の支援や、1943年からは日本の外務省の支援によりインドネシアから日本への留学は続いていました。帰国後に元日本留学生の会で知り合い、その後、政府職などの重要なポジションに就いて、大学創設にかかわったのが、プルサダ元会長のヨガ・スガマ氏、ダルマ・プルサダ大学元学長のW.D.スキスマン氏でした。

1943年に外務省主催の留学制度による第2陣のインドネシア人学生が日本に来た際は、2名の留学生が広島での原爆投下を受けて被爆しましたが、幸運なことに生き残り、その後も日本で学び続けることができました。日本の大学を卒業した後にインドネシアに戻り、プルサダの重要な人物となりました。特に広島大学で学んだハッサン・ラハヤ氏は博士号を取得、帰国後に海運会社を立ち上げ、政治家としても活躍しました。

1943年、インドネシアの独立運動の時代には、インドネシアの若い指導者たちが日本を多く訪問し、日本にいるインドネシア人留学生たちに独立を勝ち取ることの意義を伝えました。1944~1945年にかけて、日本の留学生の間でも独立運動が展開されました。1945年には、当時のスカルノ大統領がインドネシアの独立を宣言しましたが、オランダ政府等に認められなかったため、インドネシア独立戦争が起こりました。日本の留学生も、日本の政府や社会に対して独立を認めてもらおうと、東京や京都で集会やデモを行いました。

1949年にインドネシアは独立し、1958年には、日本・インドネシア政府間で外交関係が結ばれました。外交協定に含まれていたのが、戦後賠償の一環としてインドネシア人学生を日本に留学させることでした。1960~1965年にかけて、「賠償留学生」が多数来日しました。その後、留学生の数が非常に多くなり、東京都内に「インドネシアの家」という学生寮もできました。5階建ての建物に2500人もの留学生が住み、日本語学校で日本語を勉強してから、その後日本各地の大学で学びました。

1963年、日本で勉強したインドネシアの元留学生たちがジャカルタに集まり、プルサダを設立しました。日本で学んでいるインドネシア人留学生は2018年時点で6277人に上り、プルサダはスマトラの北からスラベシにわたるまで、インドネシア各地に15の支部を設けて活動しています。プルサダの歩みを本としてまとめ、今年の年末までに出版する予定です。

第2部:ヒデキ・アマング氏(プルサダ事務局長)「最近の取り組み:日本語事業を中心に」

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プルサダの近年の活動について語るヒデキ・アマング氏

プルサダでは、文化交流、ゴルフ大会といった行事のほか、1990年から2000年にかけて、大学を設立した後に、学術や文化セミナーの強化をしてきました。2011年からは、より日本的な色を出したいと、「ものづくり精神」「ひとづくり精神」という日本語を取り入れた活動を始めました。

プルサダでは、3つの方向性として、人材育成、文化交流、学術交流を掲げています。
1つ目の人材育成では、日本への留学の促進、プルサダの世代交代、大学や国に対しての貢献、そして日本との関係強化を、今後も進めていきたい。
「ジュニア・ホームステイプログラム」は、プルサダの中で私たちが一番期待しているプログラムです。2年に1回、いくつかの国の留学生の子どもたちと約2週間、日本に滞在します。青少年にとって異文化体験は重要であり、プルサダとしてはできるだけ早く、中学生の年代から日本への興味を持ってもらえるとありがたいです。

2つ目の文化交流では、学術関係の文化交流、学生との交流を最前線に立って実施していく。現在、プルサダと国際交流基金とで毎年、日本語能力試験を主催しているほか、国際交流基金ジャカルタ日本文化センターなどと共催して弁論大会を開いています。80~90の機関が参加する日本留学フェアも実施しており、1日に約4000~6000人の若者が来場します。参加者は年々増えています。
「多様な能力のコンテスト」として、弁論大会は作文の暗記ではなく、スライドで発表することにより日本語でのコミュニケーション能力を試せる形にしたり、日本の数学検定試験や、マナー検定試験にも今後取り組んだりして、日本のおもてなしやサービスの仕方等をどんどん取り入れたいと思います。

3つ目の学術交流では、2017年に設立された日本の11大学のコンソーシアム(共同事業体)と、交換留学や大学の運営に対するアドバイス、教員の指導などを行っています。日本語教員のブラッシュアップを図り、学生たちの日本での就職を有利にするのが目標です。プルサダ大学と日本の大学が共同で比較・研究も進めており、産業技術大学院大学と、バリ島の東にあるスンバ島を調査し、日本の離島との比較を通して観光事業促進策等を研究しています。

これからも日本への元留学生として、日本の文化、社会、思想的なものを取り入れ、日本的な色を大きくアピールし、新たに違った特徴を作り上げていきたいと思います。

豊富な人材が支える日本語学習への熱意――ダルマ・プルサダ大学との歩み

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ヒデキ・アマング氏の講演で聞き手を務める迫田久美子氏

――講演会で聞き手を務め、ダルマ・プルサダ大学の日本語教育のシラバス作成支援を中心となって行うなど交流の深い広島大学副理事の迫田久美子氏に、プルサダやダルマ・プルサダ大学について伺いました。

広島大学は、ダルマ・プルサダ大学と大学間交流協定を締結し、現地に「広島大学PERSADA共同プロジェクトセンター」を設立するなど研究・交流を続けています。ダルマ・プルサダ大学を支援する日本の11大学のコンソーシアムのうち、広島大学を含む複数の大学と国際交流基金等が日本インドネシア協会と共に、ダルマ・プルサダ大学の日本語教育のシラバス・カリキュラム作成に協力しました。作成にあたって、現地に通って先生方の悩みや要望を聞いたり、授業づくりのワークショップやセミナーを行ったりしました。ゲームを取り入れたり、漫画などリアルな日本がわかる題材にしたりと、学習を楽しめるよう工夫しました。大切なのはつながりを保つこと。現在も相互に交流し、日本語教育のレベルアップを図っています。

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現地で印象に残っているのは、インドネシア人の先生方と大学生の日本語学習への熱意と意欲です。学生以上に教師自身が日本語能力向上に対するニーズを感じていました。将来の就職に有利にしたい、日本企業で働きたい等の目的で学んでいる学生も多く、どの授業も教師との活発なやりとりがあり、楽しんでいる様子が印象的でした。

プルサダは、常にダルマ・プルサダ大学を大事に思い、活動を見守り、育てているように感じます。日本企業の重役や自営業で成功している方等、関係者は政財界に広がり、良いネットワークを築いています。遠く離れた異郷の地で苦しかった時代、そしてそれが実を結んでインドネシアに帰国して仕事に就いている方々ですから、可能な限り日本に「恩返し」したいと思うのでしょう。彼らの日本への思いは、私たちが学生時代にお世話になった先生や学んだ校舎を懐かしむのと同じ、いえそれ以上の慈しみがあるのではないでしょうか。

取材・文:寺江瞳(国際交流基金コミュニケーションセンター)
写真:片野智浩

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