雑誌『をちこち(遠近)』
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国際交流を二本の直流ではなく本当の交流にするために

石井 米雄
京都大学名誉教授
小倉 和夫
国際交流基金理事長

2010年2月に石井先生はお亡くなりになりました。その2週間前に収録させていただいたインタビュー記事です。

国際交流や援助が必ずしも日本の広報である必要はない

小倉:かつて国際交流は、それ自体に魅力があると考えられ、その意味が問われることはあまりありませんでした。しかし、国際社会も日本社会も大きく変化してきています。

まず短期的には現在、世界も日本も不況下で、しかも日本では政権交代が起こったばかり。「国際交流は大事だけれど、このような状況だからちょっと待ってくれ」という議論が多いようです。そのなかで国際交流基金(ジャパンファウンデーション)の果たすべき役割はどうあるべきなのか、さらには国際交流の新しい視点についてお話をうかがえればと思います。

石井:以前、雑誌『国際交流』に書いたのですが、「国際交流基金法(国際交流基金の名称、目的、業務の範囲等に関する事項を定めた法律)」は、まず日本文化の紹介という発想から始まったのですね。しかし、国会で付帯決議として、本当の意味での国際交流が盛り込まれました。この法律に従えば、国際交流基金の活動はたしかに日本文化の紹介に力点が置かれるのですが、出発点として、この付帯決議の意味を考えることが大切だと思います。

国際交流自体はさまざまなところで実施されていますが、多くが本当の交流ではなく、二つの直流になっています。たとえば、イギリスのオーケストラを日本に招聘し、日本のオーケストラをロンドンへ派遣するというのは、本当の交流ではない。そのあたりの整理があまりなされていない感じがします。いくらグローバリゼーションが進んでも、交流の基本はあくまでも個々のユニークな文化を持つ人たちの交わりですね。

小倉:国際交流基金では、たとえば今、平和構築における文化の貢献をテーマに事業を推し進めています。アフガニスタンの陶工を日本へ呼びアフガンの陶芸の復興を支援する、バルカン諸国の多様な民族の和解のためのオーケストラ結成にお手伝いをする、といったことです。そのとき、「日本」という要素をどう考えるかという問題が出てきますね。

たとえばドイツはスリランカの演劇を援助していますが、作品にドイツという要素が出てこなくても援助が大事だという考え方です。しかし日本では、どこかに日本という要素が見えないとよしとしない傾向が見られます。

石井:それは交流ではなく、日本を宣伝しようとする「広報」的な発想ですね。私が25年間所属した京都大学の「東南アジア研究センター」の下地をつくったのは「フォード財団」でした。つまり、東南アジアとは関係のないアメリカの財団だったわけです。そのような発想をしないと、本当の意味での文化交流や、財政的な支援は成立しないと思います。

その意味で国際交流基金の「東南アジア研究地域交流プログラム」(SEASREP)は特にすばらしいと思います。これは東南アジアの人々による東南アジア研究を支援する人材育成プログラムです。日本が入っていないからおかしいとする向きもあるかもしれませんが、日本が入ってないからこそ、意味があると思います。

個々の味を活かすサラダボウルの発想を国際交流に活かす

小倉:グローバリゼーションについていえば、「海外」「国際」といった言葉のニュアンスが昔とは変わってきましたね。本来、「海外」は「国内」と厳然と分かれていて、「国際」は国と国との関係でした。ところが今や国際といえば、浜松市周辺には多くのブラジル人がいるように、外国人や外国との国際的な接点は、飛行機に乗らずとも私たちの身近にある状況です。

そこで、国際交流とは何かとあらためて考えると、国境を越えた人々の往来という概念ではなく、日本国内の隣人との関係も含めたものが国際交流であるということになるでしょう。

外交では依然として国という単位から離れられず、文化というと日本国をどうやって世界に理解させるかという議論になりがちですね。ところが、実は国境はなくなってきていて、日本紹介が大事だと簡単にいえる時代ではないというと、一般の人にはなかなかわかりづらい議論になってきます。

石井:おっしゃるとおりですね。二つの文化が衝突する場合、二つのパターンがあります。野菜や果物にたとえれば、一つはミキサーに入れて混ぜ合わせてジュースにしてしまうアシミレーション(同化)です。たとえば、浜松にはブラジル人がたくさんいて、子どもたちは日本語ができません。そこで、日本語を勉強させて彼らを日本人にしようとするような接し方がアシミレーションです。

もう一つはサラダボウルです。個々の材料の姿や味を残したままドレッシングをかけて食べることで、そのうちのどれでもない味が出てくる。このサラダボウルの発想を、文化や国際交流に適用できないかと考えています。

小倉:個々の文化の固有性と多様性を守っていこう、しかし、サラダボウルも奨励しようということになるわけですが、両立はなかなか至難の技ですね。

母国語でなければ表現できない文化や価値観がある

石井:そこでバイリンガリズム(二言語併用)が大事になってきます。たとえば、日本人としてのアイデンティティを失わずにフランス人やアメリカ人を理解するという、バイリンガリズムの発想ですね。

今の日本の幼児英語教育の間違いは、子どもたちを英国人やアメリカ人にしようとしている点です。まず日本語、日本人としてのアイデンティティを教えて、そのうえで他国語を学ばせることが大切だと思います。

絶対に英語に訳せない表現がありますね。たとえば、日本語ではオノマトピア(擬声語)が発達していて、靴が「ブカブカ」とか、目を「パッチリ」開けるといった表現があります。日本語と英語は発想が全然違うわけです。

小倉:日本語は単なるコミュニケーションの手段ではなく、日本の文化的な伝統と価値が詰まった一つの文化財であるということ。従って、ただ英語に翻訳すればいいというものではない。それぞれの国の言葉をどうやって鑑賞し、どうやって深く理解するかが基本になりますね。

石井:おもしろいのは、EU(欧州連合)が「言語権(ランゲージ・ライツ)」というコンセプトを打ち出していることです。EUの公文書に使われる言語は、英語、ドイツ語、フランス語などの特定の言語に統一されるわけではありません。これらの言語はあくまでも「作業語」で、公文書は自国語でなければ受け取らないと主張するんですね。

私はEUのような、本当の意味での「東アジア共同体」が実現すればいいと考えていますが、いくら交流が盛んになっても、「文化権」や「言語権」といった基本的な権利を忘れて交流を語るのはまずい。

かつて国際交流基金の事業で、インドネシアで開かれた文化フォーラムの司会を私が務めたことがあります。今日は英語でやろうと申し合わせて進行していたのですが、突然、インドネシアの著名な女優であるクリスティン・ハキムさんが、「これから先はインドネシア語でないと話せません」と発言しました。彼女はそれまで流暢な英語で発言していたのですが、そのときは母国語でなければ表現できないインドネシア的な価値観について、彼女は語りたかったわけです。これは先ほどの言語権の問題と重なる部分があります。

東アジア共同体ができるとすると、多くの人は英語で交流すると考えるかもしれません。しかし、ハキムさんのような例が出てきてはじめて、それだけではないことに気づくのですね。いくら交流が盛んでも、相互理解の媒体となる言語、その背後にある文化を無視することはできません。

日本の存在感は薄れてきたのか、それとも増してきたのか

小倉:現在、海外での日本語教育でも大きな問題が起こっています。たとえばフランスの若い女性で時代劇の漫画に興味のある人たちが、漫画で日本語を勉強して、「ごめんなすって」「かたじけのうござる」といった挨拶をして喜んでいる(笑)。わざとでしょうが、そんな現象が起こっています。

そこで国際交流基金も考えて、アニメ・マンガの日本語についてのウェブサイトを2月1日に立ち上げました。漫画で使われている「女の子」の言葉や侍の言葉がどういう意味で、どのように使われるのかといったことを解説しています。

石井:それはとてもおもしろいですね。日本人の日本語教師は多くが生真面目で、1年終わると、次に徒然草なんて読ませるわけですね。それより論文とか新聞とか雑誌を読めるようにしたらいい。日本語だけが世界だと考えているのではないかという印象をもつことがあります。

小倉:そのことに関して言えば、現在、日本の人々が必要以上に内向きになっているのではないかという問題意識が私にはあります。一つには経済活動の収縮という要因もあるのですが、青年たちは留学もしたがらない。

中国が各国に「孔子学院」をつくり、韓国が韓流ブームに乗って、勢いよく世界へ展開していますね。これに対しては同じアジアのメンバーとしては結構なことだという見方と、日本もしっかりしなくては、という見方があります。両方、正しいのでしょうけれど。

中国や韓国の元気な様子を見るにつけ、日本は現在、戸惑いの時期に来ているのではないか。しかし、戸惑いの時期だからこそ、逆に国際社会へ向きあい、国際的な風を入れる、あるいは外へ出て行くことが、日本の明日を考える契機になるのではないかとも思います。

石井:我々の世代は海外に行かないとだめだという雰囲気があり、必要性もあった時代でした。今はその必要性がないわけで、若い世代の悩みは贅沢な悩みだと感じますね。

小倉:明治以降、これまでずっと日本はヨーロッパやアメリカを見てきました。戦後の文化交流の主要な相手も欧米になりがちでした。国際交流基金の大きな文化会館が3つもヨーロッパにあるのが、このことを象徴しています。日米基金の規模は大きくても、日中基金は小さいというのも同じです。

ここにきて、東アジアが活気づくと、東アジア共同体の重要性を指摘する人も多くなり、アジアとの交流も声高にいわれるようになりました。しかし、東アジアにおける和解の問題はまだ解決されていません。

そこで、和解に役立つ事業となると、どうしても若者の交流といった発想になってしまいますが、そこを超えて、アジア人としての意識やアジアの役割を考えるといった、広い意味でのアジアとの交流について考えることが必要でしょうね。

石井:そうですね。孔子学院はいわば政府による中国文化の輸出ですが、韓流はたとえば、韓国の俳優が来日すれば日本の女性たちが大騒ぎをするといった、日韓の文化のきわめて自然な交流だからよかったのです。韓国と日本が共同で映画をつくるケースも増えていますが、とてもいいことですね。

小倉:自然に出てきたものでは、日本では漫画や寿司、さらにはファッションや建築などが世界中に広がっていますね。

石井:韓流ならぬ、一種の「日流」ですね。

小倉:最近は世界で日本の存在感が薄れてきたと指摘される一方で、「日流」は世界中に見られるわけで、逆に日本の存在感は増しているという見方もあります。

それに合せてコンテンツ産業とかソフトパワーと称して、国がもっと振興するべきだという考え方もあります。奨励したり、知的所有権を守ったりすることは大切でしょうが、せっかく自然に広まっているものについて、国が過剰に乗り出して、国力として活用しようという発想はいかがなものなのでしょうか。

石井:私は反対ですね。特に文化交流の場合、政府の関わり合いは、かなりソフィスティケイトされたものでなければいけないと思っています。

急がれる文化交流の専門家・プログラムオフィサーの育成

小倉:文化交流の専門家育成については、どうでしょうか。国際交流基金は事業主体であると同時に、専門家を育成している組織でもあります。

石井:日本は縦割り行政ですから、例えば「学術」という言葉は文部科学省が使う言葉で外務省は使えない。また、文化庁の交流も基本的に学術交流とはいわない。しかし、広い意味での学術交流、知的交流と私はいいたい。言葉にこだわらない大きな視点での知的な交流。その実現のためには、日本の縦割り行政の欠陥をどうやって埋めていくかが重要ですね。

世界の大きな財団にあって、日本の財団にないのは、プログラムオフィサーという存在です。国際交流基金もプログラムオフィサーをつくらなければいけないということですね。プログラムオフィサーは、ラインには入らないけれども、実質的に基金を支えていく。たとえば、まず留学して単に言語を勉強するだけではなく、二国間の相違など、文化交流のベースになる知識を持ち帰ってくれる存在です。プログラムオフィサーになることを前提に留学させ、必ず成果をきちんと書かせる。アメリカではプログラムオフィサーを務めたあとは、たいてい大学の教師になります。学会との交流も自由にできる知的な人物ですね。

小倉:国際交流基金では2年前に専門職制度を取り入れました。基金に入ってある段階を過ぎたら、ある部門に特化してもらう。ラインとは別の体系にして、給料も高めにする。企画役や審議役といったポストをつくり、専門領域を設定して、常に1〜2人がそのポストについています。たいてい40代の人です。ところが、そうしたポストをつくると専門性が高いので、別の組織にヘッドハンティングされる可能性があるわけです。そうならないように、基金の役員や上層部にも専門性を持った人を入れて、マネジメントのやり方を少しずつ変えていかなければならないのではないかと思います。

石井:国際交流基金がその人に投資するわけですから、10年間とか15年間は基金にいることを義務づけ、基金にいれば大きなメリットが生まれるような給与体系をつくる、そうでもしないと立ち行かないのかもしれません。しかも、プログラムオフィサーが尊敬されるような存在にならないといけません。

文化交流は役に立たないようで本当は役に立つ

小倉:竹下内閣のころ(1987〜88年)に平和協力・経済協力、経済外交、そして文化交流・文化外交と、3本柱が立てられました。しかし、現在では三番目の文化交流・文化外交という柱が忘れられかけていますね。経済が悪化したり、人々が内向きになってくると、一番先に忘れられるのがこの分野です。

石井:新政権による事業仕分けなどでも、文化が一番下の方へ追いやられてしまうのは、とても悲しいことです。

小倉:他方でこうもいえないでしょうか。それは権力の行使ではないのかと。文化はつねに反権力の要素を持ち、権力からある程度距離を置いていなくてはいけない。だから、権力はそこに踏み込んではいけない。事業仕分け等の議論のなかには、そういう根本的な考え方がどうも理解されていないところが時々みられる気がします。

石井:おっしゃるとおりです。たとえば、私のやっていることなんて、50年間やって、本人は役に立つと思っているわけですけれど、事業仕分け的な発想だと役に立たない。プラトンの哲学だって、役に立つわけない。だけど本当は役に立つわけですね。文化交流も同じだと思います。

(2010年1月27日 東京四谷のジャパンファウンデーションにて)

略歴

石井 米雄(いしい よねお)

東京都生まれ。京都大学法学博士。在タイ日本大使館、外務省アジア局勤務を経て、京都大学東南アジア研究センター教授、同所長等を歴任。著書の『上座部仏教の政治社会学-国教の構造』『タイ近世史研究序説』『タイ仏教入門』など。2010年2月に逝去。

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