インドに響く『島唄』――宮沢和史さんのニューデリー日本文化センター特別訪問

2018年9月号

さる2月22日と23日の2日間にわたり、インドの国際交流基金ニューデリー日本文化センターでは、「Okinawa Ki HAWA」(ヒンディー語で「沖縄の風」の意)というイベントが開かれました。『島唄』を世界中でヒットさせ、さらに沖縄の音楽文化を保存する活動で知られる宮沢和史さんを特別ゲストに、沖縄の音楽と文化に触れる機会を設けることで、日本語を学習しているインドの人々の日本への関心を深め、日本語学習を奨励することを目的としたイベントです。
1日目は、日本語教育の場でもある同センターで日本語を学ぶ、さまざまな年齢層の学習者たちやデリー近郊の日本語教育機関の方々、そして2日目は、日本に興味を持つ小学生や中学生が集まりました。

その様子を宮沢和史さんへのインタビューを通してお伝えします。

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ニューデリー日本文化センターにて

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これまでインドとはなぜか縁がなかったという宮沢和史さん。

インドで沖縄を紹介する

――宮沢さんは、欧米はもちろん、ブラジルや東南アジアなど世界を股にかけて活躍していらっしゃるイメージがありますが、インドにいらしたことは?

宮沢:それが、インドとはなぜか縁がなかったんです。年齢的にも、きっともう行くことはないだろうと思っていました。それが、昨年秋に、国際交流基金ニューデリー日本文化センターのモーリス歩さんから声をかけていただいて、ああ、これはきっと(何かに)誘われたんだなと思い、行くことにしました。

――今回は、沖縄の文化を伝えるというミッションがありましたね?

宮沢:そう。モーリスさんは沖縄出身。一昨年ニューデリーの日本文化センターに日本語教師として赴任なさり、沖縄の文化をインドでも伝えたいという思いから僕に声をかけてくださったのです。依頼内容がざっくりしている割には責任重大で(笑)。しかも僕は沖縄の人間ではないのです。

――宮沢さんのこれまでの活動からすると、適任だと思います。このお話を受けることに決めた時、沖縄のどんな文化を、どんな風に伝えようとお考えになりましたか?

宮沢:まず考えたのは、インドの人は映画が好きだということです。インド映画といえば、ミュージカルですよね。そういうところから、沖縄との共通点を並べてみたんです。
沖縄の人たちも歌と踊りが大好きなんですよ。沖縄には組踊りというのがありますが、これは簡単にいうとミュージカルなんです。芝居の部分と踊りの部分とが共存して進んで行く、まさにミュージカル。まずそれを映像で観てもらいたいと思いました。しかも伝統的な琉球時代の組踊りじゃなくて、現代の人たちが現代流にアレンジした、現代版組踊りをまず観てもらおうと思いました。
もう一つはエイサーという沖縄でお盆に太鼓を使って踊る伝統的な行事です。インドの人たちも打楽器が大好きなはずだから、エイサーも気に入ってくれるんじゃないかなと。まずこの二つの映像を観てもらいました。予想通り、すごく反響がありました。
その後で、沖縄の話をして、三線さんしんを紹介して、最後に僕の演奏する『島唄』を聴いてもらいました。

――集まった人たちは大体何歳くらいなのですか?

宮沢:初日の参加者は、日本文化センターで日本語を習っている人たちですから、若い人から年配の人までいろいろでしたが、次の日は小中学校の子供たちでした。内容はほぼ同じ、映像を観た後で、僕が歌を歌ってプログラムを締めくくるというものでした。今回どうしても三線の音色を聴いてほしかったので三線とアコースティックギターを日本から持って行きました。2日目はインドの子供たちも踊ってくれましたよ。

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宮沢さんに促され、踊りを楽しむ生徒たち。

――そのビデオを拝見しました。会場からは、質問もたくさん出て、活発なやりとりでしたね。宮沢さんが参加者に、沖縄について知っていることをたずねた時も、いろいろな答えが出ていましたね。沖縄は日本の南西にある島だとか。

宮沢:みなさん思ったよりも知っていましたね。モーリスさんのご尽力だと思いますが、日本のことも沖縄のことも、ある程度知識を持っていましたね。驚きました。日本語を習っても、日本に行ける人は限られていると思います。だけどあれだけ熱心に日本語を勉強しようとする姿はうれしかったし、美しかった。子供たちもですけど、国際交流基金のみなさんの力だろうなあ、と思いましたね。インドに日本文化を根付かせようとしている。子供たちも本当に日本のことが大好きで、ぜひ行きたい!って言っていましたよ。

――そういう子供たちにとって、日本のイメージはどのようなものなのでしょう?

宮沢:短い滞在だったので、多分、ということしか言えませんが、インドって一つの惑星みたいなところで、すべてのことが国内で完結できるのだと思いました。国土が広く人口も多い。伝統もある。その一方、ITなど先端技術も持っている。だからあんまり他とグローバルに交流しなくてもやって行ける。それがもうずーっと続いているわけです。芸術も「濃い」。
ただITに関していうと、インドの今までの制度と関係ないですよね。能力さえあれば世界で力を発揮できる。だからこそ、サイバーシティ・トーキョーにとても関心があるんだろうなあと思います。
それから、インド国内ですべてが成り立ってしまっているって言いましたけど、ちょっと外に向かう扉をみんな開きたがっている。若い人たちからは、そんな印象を受けました。

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真剣な表情で宮沢さんの話に耳を傾ける生徒たち。

――宮沢さんは、沖縄のことを話す時、まず沖縄戦のことを話されましたね。サンゴ礁の海がきれいで、とかではなく。

宮沢:もしそこで、「沖縄は南の美しい島で、ヤシの木があって...」って話し出しちゃうと、みんなリゾートのイメージが刷り込まれてから話を聞くことになりますよね。僕は、沖縄の現実を最初に話しておいた上で、と思いました。

――とても素晴らしいことだと思います。でもインドの子供たちにとっては、70年以上前って言うと、生まれる前の前のことですよね。伝わったと思いましたか?

宮沢:そうですね。『島唄』を歌いましたからね。あれは沖縄戦がモチーフになった唄ですから。きっとわかってくれたのではないでしょうか。音楽って結構力がありますから。口でいろいろ説明するよりも伝わっただろうなあと思っています。

――三線のところも、かなり興味があったのでは、と思いました。

宮沢:インドの伝統楽器のシタールと比較しましたからね。シタールより弦の数が少ないとか。シタールの弦は副弦を入れるとすごい数になるので。

――みんなシタールは、弾いたことはなくても、知っていましたね。日本で言うと、お琴や三味線のような感じなんでしょうね。

宮沢:そんな感じですね。古典音楽は素晴らしいという気づきは、今や世界的に起きていますから、きっとインドもそうだろうなとは思います。

――今回のレクチャーは40分というとても短い時間でしたが、もしまたこのような機会があったら、今度はどんなことを伝えたいですか?

宮沢:やっぱり一人で行ってもできることには限界があるので、次は、いろんな楽器の奏者を、連れて行きたいです。何十人とは言いませんから、何人か、本物のエイサーを連れて行けたらいいだろうなあ、と。
エイサーを演舞する団体は、沖縄のみならず、世界中に存在しますが、インドには、きっと本物のエイサーは行ったことがないのではないでしょうか。インドの伝統芸能と交流して、ってなるといいですよね!
それから、沖縄には独特の民謡が数多く存在し、たくさんの歌い手がいますので、連れて行けたらなと思います。本物の沖縄民謡のすごさを知ってもらいたい。そう、若い子を連れて行きたいです、先生というよりはこれから沖縄を引っ張って行くような人を。エイサーを生の演奏で演舞できたら、それはすごいだろうなあ。なんて思って、後ろ髪を引かれながら帰ってきました。僕一人ではやりきれないから。

沖縄に深く関わることになるきっかけ

――宮沢さんは、最近、沖縄民謡を採集してCDボックスにまとめて、沖縄県内の学校や図書館、世界の沖縄県人会などに寄付するという素晴らしい活動もなさっていますね。そもそも、何がきっかけで、沖縄の音楽に関心を持つようになられたのですか?

宮沢: 僕の場合は、なんといっても喜納昌吉さんの『ハイサイおじさん』を子供の頃に聴いたことですね。70年代、沖縄が日本に復帰して数年後に大ヒットしたんですよ。子供ながらに衝撃だったんですよ、なんだこりゃ!って。でも、そのあと、何年かすると、尊敬する細野晴臣さんはじめ、坂本龍一さん、矢野顕子さん、久保田麻琴さんとかが、沖縄に接近するんですよ。中でも細野さんがいち早く沖縄の音楽と、アメリカ南部ニューオリンズの音楽をミックスした、『ルーチュー・ガンボ』(「泰安洋行」(1976年)収録)なんかを出したのをすでに知っていたんで、もう免疫はできていましたね。

もう一つは僕がデビューした頃、自分自身への問いとして、プロになってこれからも、イギリスやアメリカの人たちの真似をしていていいのか、せっかくプロになったのに、オリジナルじゃなくていいのか?って考え始めたことがあります。日本人としてイギリスのロックバンドに作れないものを作らなきゃプロじゃないんじゃないか、と若いながらに思って。でも、自分を掘り下げても、出身地の山梨では文化的なルーツがなかなか見つけられなかった。山梨ってところは、武田信玄が敗れたこと、中心部が空襲で焼けてしまったことも影響しているせいか、文化が目に見える形としてあまり残ってないんです。そんな時に、沖縄は、あれだけ戦争でやられたのに、文化が継承されている...。沖縄を勉強してみたい、そう思って、沖縄の扉を開いたというわけです。僕の関心を知ったスタッフが沖縄で民謡のカセットをいっぱい買って来てくれました。

――そこから『島唄』の誕生まで、どんな風につながるのですか?

宮沢:沖縄民謡のカセットを聴いて、この美しい音楽が生まれた島にどうしても行ってみたくなり、沖縄に渡り、実際に三線の音色、歌を聴いてますます虜になりました。それと同時に沖縄戦についても知りました。県民の4人に1人が死んだなんて信じられないですよね。一般人に加え、日本兵やアメリカ兵も含めると20万人以上の方々が亡くなりました。集団自決という史実も知りました。知らないじゃすまない。恥ずかしくなっちゃって。恥ずかしくなると同時に、なんで自分はこんな大事なことを知らないんだろう?と怒りがこみ上げてきました。そういう恥ずかしさと怒りを鎮めるにはどうしたらいいか。そのとき僕はもうプロになって2枚目のアルバムを出していましたから、「歌を作ろう」と思いました。

糸満に、平和祈念資料館という施設があるんです。そもそも沖縄には沖縄民謡を知りたくて渡ったんですが、実際にはそういった戦争の爪痕が否応なく見えてきました。その平和祈念資料館で、沖縄で起こった真実を知らされて、僕は愕然としました。僕にそれを教えてくれたのは、ひめゆり学徒隊の生き残られた人たち。死んで行った学徒たちのために私たちは伝えなきゃいけない、と僕らのような人間に語り続けているんです。「話を聞かせてくれたおばあちゃんに歌を作ります」とアンケートに書いて、東京に帰って作ったのが『島唄』。本当に最初の頃の曲です。沖縄の音楽をちゃんと研究して作ったものではない。最初に三線で弾けるようになった曲が『島唄』なんです。で、それを作ったものの、発表していいのかってすごく悩みました。三線を大和のロックバンドが演奏していいのかとも。

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最初にできた『島唄』は沖縄への感謝の気持ちを込めた沖縄限定のシングル。

そんな時に喜納昌吉さんと出会いました。そうしたら大いにやれ、と。ヤマトンチュとウチナーンチュとの間には見えない壁がずっとあると。僕もそっち行くから、あんたもこっち来なさい、と。それで、発売することにしました。僕が全部ウチナーの言葉にしたいって言ったら、昌吉さんが「いやいや、あんたウチナーの人間じゃないから、ところどころ島言葉にする方がいいよ」って、アドバイスくれて、それであの"ウチナーグチバージョン"ができたんです。それは、いろいろ勉強させてくれた沖縄への感謝の気持ちを込めて沖縄限定のシングルにして、喜納昌吉監修ということで出したんです。そうしたらものすごい反響があったのですが、僕は沖縄のために作ったものだから、あくまでも沖縄限定としました。
で、ことばを共通語に戻して違うシングルを作りました。皆さんによく知られているのはそちらです。

その『島唄』にも出てくるデイゴは沖縄の県花です。実は、この花は、インド原産なのです。だれかが持ってきたんですね。そういうつながりもあるんです。ないようであるんですよ。そういうところから交流ができるといいですね。インドと沖縄との文化交流はまだ始まってないから。

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イベント終了後、参加者らと記念撮影に収まる宮沢さん(中央)

東京に住みながら、沖縄に通って、沖縄の県立芸術大学で音楽を教え、民謡を採集し、民謡の自主公演を企画し、さらに、『島唄』のヒットによって、三線の材料である黒檀(沖縄では、くるち=黒木と呼ぶ)が輸入に頼らざるを得なくなった話を聞くと、植樹・育樹運動(くるちの杜100年プロジェクト)を開始するなど、どこまでも沖縄のために、できる限りの貢献を惜しまない宮沢和史さん。まさに、沖縄文化をインドに伝える親善大使として、うってつけの人選だったのではないだろうか。

「戦争は終わったわけではないですからね。語り続けなければならない。ずーっと何かそういう使命感を感じながら。『島唄』は平和を祈る歌ですから。永遠に。そんな歌を歌わなくなるのがいいんですけど」。そんな宮沢さんの言葉が印象に残った。

インタビュー・編集:西谷真理子
インタビュー撮影:桧原勇太

宮沢和史(みやざわ かずふみ)
1966年山梨県甲府市生まれ。THE BOOMのボーカリストとして1989年にデビューして以降、たぐいまれなる探究心と行動力で、生命力あふれる音楽の源泉を求め、国内外を巡り、数多くのアルバムをリリースしている。代表曲のひとつである『島唄』は、アルゼンチンでの大ヒット(2001年)をはじめ、国境を越えて今なお世界に広がり続けている。
公式ホームページ http://www.miyazawa-kazufumi.jp/

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