2025.6.9
【特集083】
ベイビーシアターという舞台芸術をご存じでしょうか? 1980年代のヨーロッパでムーブメントとして生まれた、赤ちゃんと大人が一緒に楽しめる舞台パフォーマンスで、近年日本でも関心が高まっています。
ベイビーシアターのカンパニー「BEBERICA theatre company」代表の弓井茉那さんにお話を伺い、年齢や言語という枠を大きく超えたコミュニケーション、そしてダイバーシティとインクルージョンの世界を拓く可能性を秘めたベイビーシアターの今に迫ります。
2016年に「あかちゃんと一緒にせかいをつくる」をテーマとした演劇作品を制作するシアターカンパニー「BEBERICA theatre company」を結成し、数々の演劇公演やワークショップの企画、プロデュースを手掛けてきた弓井さん。カンパニー設立前から舞台俳優として国内外で活動してきた彼女に転機が訪れたのは、2015年頃のことでした。
「ベイビーシアター専門のカンパニーをつくろうと決めた理由には、直接的なことと間接的なことがあります。直接的なきっかけは、フランス演劇界の巨匠、クロード・レジが来日して演出を手掛けた作品『室内』(SPAC:静岡県舞台芸術センターとの日仏共同制作作品)に3年連続で俳優として出演させていただいたことが大きいですね。その経験からさまざまなことを得たのですが、中でも心に刻まれたのは『その場その日限りの舞台芸術を、いかに観客と一緒に立ち上げていくか』ということでした。『出演者と一緒にこの舞台をつくってください』と観客に観る姿勢を求めるような作品で、観客も出演者と一緒に限界ギリギリの集中力でつくり上げる舞台となりました」
その後、弓井さん自身が俳優として「舞台芸術と観客を分けるのではなく、観客というコラボレーターと一緒につくれないか」と考えていた時に出合ったのがベイビーシアターです。
「オーストラリアのベイビーシアターのカンパニーの作品映像を見て、『これだ! 最高で最強のコラボレーターとして赤ちゃんという存在がいた』と思ったんです。一方で、間接的な理由は私の幼少期にあります。3歳の頃に母を亡くしていて声や顔の記憶はないのですが、唯一覚えている母の記憶があるんです。母と一緒に行った公園の砂場で裸足で遊んでいたところ、犬のうんちを踏んだんですね。覚えているのは、足裏にあたる砂のツブツブとした触感、うんちの生暖かさ、母に抱き上げられてフワーッと宙を飛んで、冷たい水がシャーッと足裏に当たる感覚です。3歳前という年齢を考えると、五感を通して母を感じていたんだなと思いました。こうした原体験から、赤ちゃんが五感を通してまわりで起こる物事を感じるというベイビーシアターの触知的な世界に共感すると同時に、大きな可能性を感じました」
1980年代後半、子どもの権利条約制定を機に子どもの文化権を保障することを重要視する機運が高まり、フランスやイタリア、デンマークなどヨーロッパでの国々で同時多発的に生まれたベイビーシアターですが、日本での流れは少し異なるのだといいます。
「日本では20年ほど前に、全国のおやこ劇場の呼びかけで未就学児とその保護者に向けての舞台芸術が生まれました。その背景には、親子の居場所づくりなど子育て支援のニーズが高まったことがあり、そのニーズは現在も続いています。私がカンパニーをつくった2016年頃は、芸術としてのベイビーシアターを追求していこうという人たちが増えてきた時期でしたね。それまで子どもに関心のなかったアーティストが出産を機に表現のひとつとしてベイビーシアターに取り組み始めるケースも出てきました。こども家庭庁が「こどもまんなかアクション」を掲げている影響もあるでしょう」
そして、2020年の夏には、弓井さんが発起人となって「第1回アジアベイビーシアターミーティング」を兵庫県城崎の城崎国際アートセンターのレジデンスプログラムで1週間にわたって開催しました。日本国内をはじめ、タイ、台湾、香港、シンガポール、インドからアジアのベイビーシアターの実践家15名が参加して、国を超えて互いの活動への理解を深めるネットワーキングイベントです。
「このイベントの目的は、アジアの国々でベイビーシアターに関わる人たちが、継続的につながることができるネットワークづくりです。というのも、ヨーロッパでは実践家のネットワークがいくつか存在していて、実践家たちが集まって勉強したり、互いに切磋琢磨したり、助成金などのファンドレイジングを行ったりという相互支援の仕組みがあるんです。でもアジアにはまだ存在しない。2019年に沖縄で開催された児童青少年演劇の実践家が集まる国際フェスティバル、国際児童・青少年演劇フェスティバルおきなわに参加した時、台湾の実践家の方とベイビーシアターの話題で盛り上がったのですが、そこで改めてアジアで実践家が交流できる機会がないということに気づいて、私自身も国内はもちろん海外の人たちとももっと交流して意見交換をしたいと強く思いました」
1週間のミーティングでは、15名の参加者がそれぞれのバックボーンやベイビーシアターの活動について自己紹介や実践報告をしてお互いを知り合うことからスタートし、ワークショップやいくつかのグループに分かれて小作品をつくり、実際に上演する公開プログラムが行われました。※コロナ禍の開催のため、国内はPCR検査を受けた上で対面参加、海外からはリモート参加
「意外だったのは、海外からの参加者の多くが、それぞれの国でベイビーシアターに取り組み始めた一人目だったことです。アジアのベイビーシアターはまだまだ黎明期なんだ、とそこで改めて感じましたね。またそれぞれの国の事情を反映していることも興味深かったです。たとえば、インドでは『ベイビーシアターは都会のものだ』と言うんです。田舎のおばあちゃんが親しんでいた素材や植物、方言など、消えゆくものを意図的に舞台で表現するのだそうです。一方で香港は国際都市ですから、教育熱心な家庭環境が多いのですが、アートに触れる機会は少ない。だから赤ちゃんと保護者が一緒に芸術体験できるのはとても有用だとおっしゃっていました。どの国の人も個別のバックボーンとともに『ベイビーシアターがもたらす芸術的な波及効果や社会的意義』といった話が全面に出てきました。そして最後は、『ベイビーシアターがアートをどう変えることができるのか』について話していきたい、という今後のビジョンで締めくくったんです」
ベイビーシアターがアートシーンはもとより社会にもたらす波及効果に、弓井さんは大きな期待を抱いています。
「『触知で世界を見る』ということは、他の舞台芸術ではなかなか体験できないことだと思います。ベイビーシアターは子どものいる方が対象だと思われがちですが、実は子どもと関わる機会のない大人にこそ観てもらいたくて一般チケットも販売しています。赤ちゃんの感性に触れる『触知的な世界の見方』を体感することで、この世界の美しさに出会い直す機会になると私は信じています。赤ちゃんの、物事の根源を見つめるようなまなざしを見ると、大人の都合でこんがらがった社会問題も、赤ちゃんが解決してくれるんじゃないかと思う時があるんですよ。赤ちゃんがどんなふうに物事を見てまわりを感じようとしているかに目を向けるだけで、大人にとってもずいぶんと発見があって、閉じた感覚を開いてシンプルに物事をとらえたり、問題を別角度から見たりするきっかけになるのではないでしょうか。それがベイビーシアターの芸術的な波及効果ではないかと考えています」
言葉を持たない赤ちゃんが皮膚感覚でまわりを知る「触知」という力は、子どもと大人という年齢差はもちろん、国際交流の場面でも言葉を超えた表現や交流を可能にし、五感を通して見る人に伝わっていく可能性を秘めているようです。
「第1回アジアベイビーシアターミーティングに参加した台湾の劇団の方が、ワークショップでの1分ほどの動画を見せてくれたんですね。それはある小さな子どもに向かって歌を歌っている演者と子どもの表情をとらえたもので、その子がとても心を動かされた表情になると演者にもそれが伝わって、それに呼応するように歌い続けるという映像でした。言葉がなくてもコミュニケーションが成立したことに自分で感動したと話してくれました。国際交流においても一番の喜びは、言語を介しても介さなくても、文化を超えて通じ合えることだと思います。赤ちゃんとのコミュニケーションは、国際交流の醍醐味に通じるものがあるように感じます。まだ2回目の開催は実現できていませんが、タイの参加者が『手探りで取り組んでいることを相談できる人が海外にいるだけでも心強い』と話してくれました」
アジアの実践家と交流するネットワーキングイベントを経て、弓井さんはこれからのベイビーシアターの在り方について模索していると語ります。
「今興味があるのは、ヨーロッパの真似事でないアジアのベイビーシアターをつくることです。これまでに西洋の実演家から学ぶ機会があって勉強になったのですが、知れば知るほど文化的バックボーンが違うことも浮き彫りになってきました。台湾の参加者から『おうちに舞台芸術を届ける』という台湾ならではの取り組みについて話を聞いて、アジアでは子どもと同時に大人も切り離せないという思いを強くしました。アジアの実践家たちは、子どもの方だけを見ている人は誰一人としておらず、子どもと一緒に生きる大人の方にも向いて作品をつくっている意識があると思います。それがアジアらしさなのかな。私のカンパニーでも、大人の方には『まるで赤ちゃんになったつもりで観てください』とナビゲートしています。子どもが文化権を持った一人の主体であるという西洋的な考え方は魅力的なのでそれも踏まえつつ、西洋とは違うアジア圏のベイビーシアターを探っていきたいですね」
今、日本国内でもベイビーシアターの実践家や劇場をつなぐ動きが始まっているといいます。ベイビーシアターとしては初めての全国ネットワーク組織「日本ベイビーシアターネットワーク」です。
「2022年に、日本・児童青少年演劇劇団協同組合(児演協) https://www.jienkyo.or.jp/project/baby-theater/ の呼びかけでつくられた組織『ベイビ―シアタープロジェクト』をはじめ、ベイビーシアターに取り組んでいる先輩方と一緒に『日本ベイビーシアターネットワーク』の立ち上げに参画しました。今後は、ベイビーシアターの認知度拡大や国内のネットワークをつくっていくことと同時に、アジア圏の実践家たちとの取り組みにも力を注いでいきたいです。一回の上演あたりの観客数にかぎりがあるため、経済的に成立しづらいという特性があるものの、みんなが集まることによって社会を動かすような大きな力にしていきたいと考えています」
プロフィール
弓井 茉那 さん BEBERICA theatre company代表 / 一般社団法人日本ベイビーシアターネットワーク理事
https://www.beberica.com
京都市生まれ。京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)、座・高円寺劇場創造アカデミーで舞台芸術と演劇教育を学ぶ。演出家クロード・レジの作品に俳優として参加後、2016年に「あかちゃんと一緒にせかいをつくる」をテーマとした演劇作品(ベイビーシアター)を制作する劇団「BEBERICA theatre company」を結成。演劇公演・ワークショップなどのプロデュース、演出を行い、金沢21世紀美術館、いわきアリオス、茨木クリエイトセンターなどの主催プログラムに招聘される。2017年デュッセルドルフの劇場で演劇教育士の研修。同年ASSITEJ世界会議(南アフリカ開催)にて次世代の児童演劇担い手のプラットフォームNext Generationメンバーに選出され参加。2020年城崎国際アートセンターのレジデンスプログラムにて「第1回アジアベイビーシアターミーティング」を主催するなど、ベイビーシアターの普及・啓発、研究、人材育成活動にも力を注いでいる。
【上演情報】
あかちゃんとおとなのための舞台芸術 ベイビーシアター『What is Like?』2025年3月22日(土曜日)〜24(月曜日)都筑区民文化センター(ボッシュホール)