雑誌『をちこち(遠近)』
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日本からタイへ、そしてアセアン共同体に向かって

スッチャリット・クーンタナクンウォン(泰日経済技術振興協会会長)



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平成25(2013)年度 国際交流基金賞 授賞式

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平成25(2013)年度 国際交流基金賞 受賞記念講演会



泰日経済技術振興協会(TPA)は1973年設立され、今年の1月でちょうど40周年を迎えました。国際交流基金賞の受賞にあたっては、TPAがどうしてこのような賞を頂くことができたのか、我々も自分たちの活動について振り返り、分析してみたのですが、そのあたりを踏まえつつ、本日は皆様にTPAのことをご紹介したいと思います。



■泰日経済技術振興協会(TPA)の設立をめぐって
まず、泰日経済技術振興協会(TPA)が設立された1973年の状況についてお話ししたいと思います。当時、タイは軍事政権から変わりつつある時期でした。市民や学生による反政府運動が高まり、また日本とタイの間も貿易赤字による反日機運が高まっていました。日本政府は何らかの対策を模索しており、いろいろな形の無償援助や円借款なども検討されていたようですが、もう少し新しい協力体制をイメージしていました。タイ政府にとっても、露骨な親日政策はタイの社会から反発を受ける可能性があり、その辺りの選択は大変難しい状況にありました。

当時、日本側はアジア学生文化会館(ABK)海外技術者研修協会(AOTS)の初代理事長である穂積五一先生にその任を託し、政府主導ではなくて民間ベースでの事業化を検討していました。そして、日本に留学経験のある人などの集まりによって、中立的な立場から活動する機構の設立ができないかと考えました。しかし当時は元留学生の中でも、組織を作るとなると、「親タイ・親日」や「中立」の意味は何なのかなど、いろいろ悩んだことと思います。そうした中から、中立性を尊重して支援するという原則の下、泰日経済技術振興協会 (TAP)が設立されたのです。そして日本にも、カウンターパートとなる日・タイ経済協力協会(JTECS)を設立し、日本側の支援窓口としました。

日本側は穂積五一先生の尽力で機構が設立されました。タイ側も元留学生や研修生の集まりだけでは組織として成り立たないので、中立的な立場で活動を発展させるために、タイ社会の中でも認知されているリーダーが必要でした。TPAの設立メンバーは、財務省の大臣を務め、日本への留学経験もあるソンマイ・フントラクーン先生に白羽の矢をたてました。先輩達の話によると、ソンマイ先生に理事長就任のお願いに伺うと、先生はまず「本当に中立的な組織なのか?」と質問されたそうです。ソンマイ先生は、理事長就任について最初から「イエス」とは仰らず、元財務大臣として深く考えられ、組織の原則や体制についていろいろ質問なさったのでした。



■TPAの原則
そこで、私達の先輩である設立メンバーは「プリンシパル」を作りました。

第一に、この組織がタイの社会にとって本当に有益となる活動をし、自主性を持つために、理事会には日本人は入れないこととしました。タイ人の理事によって活動を運営していく。それは自主性の一つの証明です。

第二に、活動にはどうしても場所が必要です。会館の建設ですね。これについては、日本の補助金でいくらか支援するということになりました。

第三は、設立メンバーの願いとして、普通の協会を立ち上げるのではなく、やはり技術教育のための学校を作りたかったということです。当時は70年代ですから、日本の優れた技術の普及と技術に関わる人材を育てることが、長期的に日本とタイの産業発展に資すると考えました。

第四に、日本とTPAの関係は、窓口をJTECS一つに絞るという原則です。

そして第五に、TPAを自主的かつ継続的に運営していくため、日本からの補助金や協会独自の財政体制などはタイ側に任せるという原則。

これら5つの原則の合意があって初めて、ソンマイ元大臣から理事長就任への承諾を得られたのです。

結局は当時、この5つの原則中、3つめの学校設立は実現できませんでした。というのは、まだ軍事政権だった時代、日本の影響を与える教育を行う学校の設立となると、あまりにも親日的となってしまい、文部省から許可が得られなかったのです。協会で短期研修などは行って良いけれども、学校まで設立するのは当時の政治下では難しかったのです。だから最終的には4つの原則でTPAを設立することとなりました。私達はこの原則に沿って今日まで運営を続けており、それが発展の要因の一つだと考えています。

1973年5月24日のTPA発足の日、ソンマイ先生と穂積先生が演説をし、開会式を行いました。当時はもちろん自前の建物はなく、ちょうどルンピニパークの反対側にあるウーチュリアンというビルに事務所となる部屋を借り、活動を始めました。

TPA発足当初に私達がまず始めたのは、技術セミナーではなく日本語学校でした。やはり日本語や日本の習慣を知らないと、新しいことを勉強しても分からないからです。

とはいえ、普通の日本語学校とは違います。日本語教育、日本の習慣、技術研修の三つを教える活動として学校を始めたのです。日本語だけを教える学校は民間でどこにでもあります。またセミナー研修もJICAの専門家による研修など、多数あります。TPAの場合はそれらを組み合わせることによって、技術者が言葉と習慣を一緒に勉強できる場を提供したのです。それはTPAのスタートの一つの特徴になったと考えています。

当時は、日本語を聴く教材もテープでしたし、Power pointもないですから黒板に書いて日本語を教えていました。日本語教育の専門家を2、3日短期派遣してもらってセミナーを行ない、技術研修は通訳をつけて行いました。また簡単な測定や実習も兼ね、実験と技術研修も行いました。

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TPA発会式 1973年5月24日(穂積五一先生とソンマイ・フントラクーン先生)



■TPAの活動の状況と実積
我々の活動は、大きく4つの段階に分けることができます。

第1段階は技術移転です。日本から専門家を派遣してもらい、我々がセミナーを開き、通訳を使って技術指導を行ないました。その指導をもとに、タイ語のテキスト発行を目指しました。それが最初の10年です。

第2段階は、タイ人の専門家、コンサルタントやトレーナーの育成です。日本の専門家だけでなく、タイ人の専門家を派遣して日本の技術指導ができる体制を作りました。これも10年かかりました。

第3段階は、企業診断士育成事業です。1997年、後に「トムヤンクンクライシス」と名付けられた経済危機がありました。この頃に我々は、日本の協力を得て約200名のタイ人の企業診断士を養成しました。この事業はタイの中小企業に対して大きなインパクトがありました。

そして第4段階ではいよいよ教育に着手しました。1973年当時は学校を設立できませんでしたが、2007年、大学を設立しました。教育産業への進出です。技術だけでなく、日本の言語と習慣も一緒に、インテグレイティブな授業と教育体制を作り、企業に人材を送り出せるようにしたのです。

TPAはこのように40年間、大体10年ずつの発展を経て、タイの産業界にインパクトを与えながら、発展してきたのです。



■第1段階 日本のタイ進出とタイの企業誘致の一致
第1段階の時期には、日本で1973年にオイルショックがあり、日本の多くの中小企業がタイに進出を始めるきっかけとなりました。そうすると、日本企業はタイで人材が必要になってきます。実際、タイの技術者が日系の工場で働くには、言葉と習慣を学ぶ必要がありました。

最初の10年間のTPAは、日本の投資増加をサポートするための一つの政策だったとも考えられます。1973年から80年代初めまでは日本の産業がタイに進出し、TPAも産業が必要とする人材を育成しました。

一方、日本ではオイルショックで国内産業が外に出ていき、国内に残った企業は省エネ技術の開発に着手せざるを得なくなります。80年代になると、タイに進出した日本の大手・中小企業も、日本で開発された省エネ技術をタイで展開するようになりました。タイの工場にも省エネ技術が普及し、より高度な技術である省エネ技術の普及がスタートしました。それはタイの産業にとっても、大変有意義な展開だったと考えています。

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スクンビット本館 1975



■第2段階 タイ人の技術指導者育成
第2段階になりますと、タイの産業も、ものをつくるだけではなく品質管理(QC)を追及する段階を迎えます。ここでも、TPAは必要とされる人材の育成やテキストの開発を行い、日本の品質管理のノウハウと体制をタイに普及させ、産業に大きな役割を果たしました。

TPAは品質管理(QC)の技術移転だけではなく、その推進活動として、タイで初のQC大会を実施しました。日本の企業では「品質月間」などを行なっていましたので、それをタイに持ってきて、現場作業者やマネジャークラスでそういう大会を開催したのです。大会という切磋琢磨し合う場を設けたことは、協会の技術促進にとって大変効果的だったと思います。

それから、工業計測機器校正事業ですね。この事業自体は、あまりお金にはなりません。しかし、大変高い技術の精度を必要とします。0.01ミリなどの精度で測らないと証明書をもらえないので、タイの政府もあまりやりたがりません。しかしそういう産業も第2セクター、我々みたいなセカンドパーティーには適しています。

この時期からはだんだんと、一つの活動をするのではなく、テキスト作成、大会の開催、セミナーや研修の実施など、コンビネーションでの活動を展開していくようになりました。インパクトのある事業と内容を同時に企画して実行していかないと、タイ社会の中で認知された組織にはなれず、単なる「活動のための活動をやっている組織」になってしまいます。TPAはコンビネーションの活動によって、タイ社会の至るところで認知してもらえる組織になりました。「活動のコンビネーション」は、我々の一つの技だと考えています。

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工業計測機器校正センター



■第3段階 診断士の養成事業
第3段階になりますと、1997年にアジア通貨危機があり、タイの産業 は大きな打撃を受けました。通貨レートが1ドル25〜26バーツのところが、半年で52バーツになってしまい、多くの企業が赤字採算、倒産しかねない状態となったのです。当時新館を建設し、大きなローンを組んだ途端にこの状況になり、我々にとっても大変な危機でした。

TPAではこの時期、タイの企業が経営を選別的に進められるよう診断制度を導入し、200名ほどの診断士を育成しました。半年から1年で診断士を養成する制度を導入したのですが、これは日本国外では恐らくタイが初めてではないかと思います。TPAにとっても、またタイの産業にとっても大きなインパクトのある事業になりました。この事業の実施・成功によって、TPAはより規模の大きなプロジェクトを受けられるような体制を構築できたのです。

97年に起こった経済危機は、危機でもあり、チャンスでもありました。このようなコンビネーションはTPAにとって有意義でしたし、タイの産業も通貨危機から2、3年という比較的短期間で、立ち直れる力をつけたわけです。日本政府の宮澤イニシアチブは、その意味で大変効果的だったと考えています。

その後、我々は都市部だけでなく郊外へも展開し、バンコク郊外のランシットに日本語学校を開校、そしてバンコクにも新たな施設をパタナカーンに設置しました。

我々は個々の研修を行うことから始め、次にパッケージ的な人材育成事業に展開しましたが、これを「トータルヒューマンパッケージ」と呼んでいます。工場で必要な人を、言葉、習慣などのコンビネーションで育成して、企業側が工場全体で必要とするサービスを受けられるようにしたのです。これは診断士制度を生かして制度化したもので、我々の開発した養成パターンだと考えています。

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パタナカーン新館設立 1998

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企業診断ならびにコンサルティングサービス



■第4段階 教育産業への進出
2007年にはTPAも資金繰りに余裕が出てきましたし、そしてタイの産業界も新たな投資の時期に入り、「人材が足りなくなる」と予想しました。経済危機からの復活、エンジニア不足を見込んで、我々は大学設立を考えました。泰日工業大学(TNI)の設立です。

大学の名称決定にはエピソードがあります。当初は文部省に「泰日大学」と申請したのですが、断られてしまいました。「この名前を私立大学には使えない。国際機関や国の機関にしか『日本』や『タイ』と付けることはできない」と。

これには困ってしまい、当時の日本大使に相談に行きまして「我々は民間だけども、30年40年と、国と国との関係で作り上げてきた組織だ」と申し上げました。そこで大使も検討し、この名前を使えないか本国に打診して下さったのです。

学校名に「泰日」と入れると、今後この学校を閉鎖することはできません。学校が閉鎖されたら、国と国の関係にとって悪いイメージになってしまいますから。大使にとっても大変難しい問題で、日本から使用許可の書面が届くのに1ヶ月かかりました。我々はその書面をタイの文部省に持って行き、日本が国として承認したということで、初めてその名前で申請することができ、無事「泰日工業大学」という名前に決まりました。 

開校式にはシリントン王女も来て下さいました。日本とタイの友好・協力のシンボルとなる大学だと考えてくださったのだと思います。

お話ししてきたように、TPAはこれまでの40年間、4期に分けて活動してきました。現在、年間で2000名近くの研修コースを実施しています。また企業の工場内での研修はその倍ぐらいあり、年間約7万人の参加者がいます。40年間を累計しますと100万人ほどが、我々の研修を受けてきたのです。主としては日本語ですが、最近は英語、中国語、韓国語でも展開しています。今後、マレー語(Bahaza)の展開も検討中です。さらにカルチャーフェスティバル、スピーチコンテストや漢字チャンピオンなどの大会も開いており、タイの国際交流基金バンコク日本文化センターとも毎年、共催事業を実施しています。我々はまた、タイ駐在の日本人やその家族のためにタイ語講座も行なっており、年間1500コースほど開講しています。

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泰日工業大学(TNI)



TPAモデル
TPAでは今後、地方への展開をいろいろと検討をしています。タイ政府も日本政府もバンコク集中ではなく地方の産業化を進めたいと思っており、そのためには地方での人材育成が必要で、現在さまざまな検討をしています。

研修生は年間約1万5000人です。日本語教育でいえば、40年間で20万人以上が日本語を勉強してきたということになり、また日本人も2万人程度がタイ語を勉強してきたことになります。日本語コンテスト、日本語講師の養成、また今年からは日本人のために働く秘書を養成するコースも開発し、技術用語に精通した通訳者のトレーニングも行っています。これは日本企業からのリクエストによるものです。毎年オープンハウスを実施し、タイの中学生や高校生に日本語や日本文化を紹介する活動も展開しています。日本に関心を持っている学生が、1週間で3000人ほど来訪してくれます。

出版物に関して申し上げると、毎年50冊ほどの書籍を出版しており、過去の出版物の増刷も200件ほどあります。最近は、iPadなどで読める電子書籍の展開も企画しています。

泰日工業大学には年間1000名程度の学生が入学し、今年は900名が卒業します。学部は工学部、情報学部、経営学部の3学部です。毎年、約半数が日本の関係会社に就職しています。そして大学院からも年間約200名を各界に輩出しています。

我々はアジアでの技術促進の展開には、大会の主催が効果的だと考え、これまでに、QC大会、5S大会、改善大会、狩野品質賞など大会を主催して参りました。タイのアピシット前首相にも改善大会に出席していただいたことがあります。また、ラオスからの参加もしくはラオスにて5S大会を開催しようかという案もあります。また若者たちに技術への関心呼ぶため、ロボットコンテストも開催しており、中学生、高校生、専門学校と大学生と4カテゴリーに分けてコンテストを行っています。

また国内では我々が様々な試験的な養成プログラム、専門家派遣やテキスト開発を行い、その後、政府の機関にその実施を移行させるような事業も行っています。例えばタイのQC Association や省エネInstitute なども、準備段階ではTPAの場を使っていました。



■TPA成功の理由
なぜTPAはここまでの実積を挙げられたのでしょうか。

一つ目は創設者の基本的な理念です。当初の5つの理念を設立当初から今まで守り続けて、活動を続けています。我々の穂積精神は、大事な成功要因のひとつだと思います。

2番目は、理事が全員ボランティアであることです。また職員の実行力も大きな力です。タイの社会で協会の重要性を認知されることはとても大切です。また、その認められ方も重要です。ここまでお話しした通り、TPAは常に時代に合わせ、新たな形で知識と技術を提供してきました。これはとても効果的だったと思います。日本の省庁はどこかへ専門家を派遣して技術を広げれば、その技術がそこでずっと役立つと考えていましたが、実際には5年ほどで時代遅れになってしまいます。10年スパンでは長過ぎで、いかに現地の専門家を育成し、そして新しい技術の導入を5年毎に行うか、そのような機構がないと持たないのです。だからTPAも5年ごとに新旧を入れ替えるような柔軟性のある組織でありたいと考えています。マーケットを読むことは、我々が存在するひとつの意義だと考えています。

我々には設立時からの5つの「プリンシパル」と現地講師のネットワークがあります。現在、我々の組織には日本語教師だけでも、日本人40名、タイ人40名ほどがおります。様々な分野の技術者約1000名のネットワークも持っています。そうした基盤の上で活動を行っていることも成功の一つの要因だと思います。そしてタイ政府、民間、現地法人といったコンビネーションで展開していく手法が「TPAモデル」だと考えます。

我々は今までも近隣諸国の様々な団体と関係を結んできました。JTECSはもちろん、ABK、HIDA、JETRO、国際交流基金、またタイの中で工業省、科学技術省、タイ各地の中小企業銀行など、幅広いネットワークはTPAの強みだと考えています。

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TPAの構造



■これからのTPA
今後のTPAの展開についてですが、先に述べたように、タイの技術産業の革新、また地方の産業化や、周辺国への展開などをふまえ、前もってターゲットを定め、適切な技術の導入をしていくことが大事だと思っています。

また基盤となる国内の専門家の育成とネットワークづくりも重要です。TPA自体の運営、理事会との方針展開などのコンビネーションで、これからの新しいTPAのネットワーク構造についても考えていきたいと思っています。

今までの経験が全て使えるとは限りませんが、日本語、日本文化、日本技術を中心とした普及も依然大切です。ただ内容は選別的に考えなくてはいけないと思っています。



ASEANへの貢献の可能性
タイはある程度市場も成熟しており、これからタイ企業による ASEAN加盟国への投資も盛んになると思います。ASEANプラス3とASEANプラス6という仕組みがあります。ASEANの中で統一化して、共同でできるものは一緒にやり、共同でできないものは独自にやるというASEANウェイというやり方です。またタイは地理的に中央にあり、ラオスにしても、ビルマにしても1時間以内に飛べる距離ですので、これからの新しい産業育成のためのハブとなりうる場所だと考えています。

日本から見れば、ASEANはこれから単なる投資先のひとつではなく、安全上の意味合いもあるでしょう。ASEANはアメリカとヨーロッパに対抗する一つの大きな市場であり、そのバランスは日本の外交にとっても必要ではないかと思います。

日本とタイも、バランスを取りながら相互に助け合いつつ、お互いを生かすような開発をしていくことが必要でしょう。ある場面ではオリジナル、ある場面ではコラボレーションやフレンドシップというキーワードで、これからもタイと日本が良いコンビネーションでやっていけたらと思っています。

日本語・日本文化理解をサポートする役割をTPAがこれまで果たして来ましたが、それを周辺諸国にも展開する可能性がこれから出てくると思います。これまでの日本からの技術移転や人材育成の経験を生かすことで、周辺諸国にもモデルを広め展開していけると考えます。周辺国のミャンマー、ラオス、カンボジア、ヴェトナムの日本大使館に対しては、我々は特別顧問として支援策のアドバイスを行っています。

我々は大陸の国ですから、周辺にいろいろな国があり、社会的な違い、経済的な違い、文化の違いがあることを理解しています。日本もそこを考慮しながら協力関係を作っていく必要があります。また技術レベルも違うので選別的に導入し、協力体制を構築する必要があります。

国と国ですからなぜ、周辺国の人にとっては「日本の技術をなぜタイに勉強に来ないといけないのか」と感じ、抵抗感もあるかもしれませんが、我々TPAとしては「師弟関係」ではなく「姉妹関係」として、「教える」のではなくて「説明する」という展開をしたいと思っています。

国の発展の形はその国自身が考えるべきですが、TPA自体をスクールととらえて、是非自分たちの計画作りに使ってもらえればと思います。そのフォローについて、TPAは喜んで協力的ネットワークをつくりたいと思います。TPAとTNIの機構を生かし、タイと日本だけにとどまらず、日本とASEANのフレンドシップでコラボレイティブな関係を作り上げていきましょう。





towards_asean12.jpg スッチャリット・クーンタナクンウォン (Dr. Sucharit Koontanakulvong)
泰日経済技術振興協会(TPA)会長、チュラロンコーン大学工学部准教授。
文部省奨学金を得て日本に留学。京都大学工学部、京都大学農学部修士課程を経て、1983年に京都大学農学部博士課程修了、農学博士号取得。1994年に泰日経済技術振興協会の理事に就任し、2003年からは専務理事、2013年より会長を務める。




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