北斎の作品に見る江戸期日本の暮らし

アンチエ・パピスト・マツオ(Antje Papist-Matsuo)




本年の日独交流150周年を記念し、日本の世界的芸術家・葛飾北斎(1760~1849年)の大型回顧展が、ベルリン有数の展覧会場Martin-Gropius-Bau(マルティン・グロピウス・バウ)にて開催中である。

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マルティン・グロピウス・バウ内

高名な北斎研究者・永田生慈氏の監修のもと、北斎の卓絶した長い画業の全時期より版画・素描・絵本・肉筆画400点以上を出展している。うち少なからぬ数が美術史上の代表的作品とされており(図1)、日本と西洋の文化を問わず、その後の美術・デザイン界に大きな影響を及ぼしている。

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図1:冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏(ベルリン「北斎展」出展作品)
1831年頃。大判錦絵 25.2×37.6cm。北斎改為一筆。版元:西村屋与八。墨田区蔵。


日本と西洋の別を問わず、北斎は日本の美術史における巨匠の一人に数えられている。しかし西洋での高い評価は、19世紀後半ヨーロッパを席捲した日本趣味の流行を抜きには考えられない。時の有力アーティストらが北斎を東洋の芸術家の究極の代表格として賛美するようになったのは、浮世絵様式の素朴な木版画作品を通じてであった。北斎の版画作品が万国博覧会に出展され、画商の手で流通され、西洋のコレクションに収蔵されるようになった中でも、特に北斎の名を高らしめたのが"Hokusai Sketchbooks" (『北斎漫画』)と呼ばれる作品群である。1814年から1878年にかけ15巻が刊行され、幅広い多様なスタイルで描かれた素描、無数の魅力的な図解および人間模様の点描が3,000点以上収められている。(図2)ベルリン・アジア美術館にはこの素晴らしい素描集が10巻所蔵されており、今回のベルリンでの展覧会にも出展されている。こうした作品の取得には、パリで活躍し、日本美術をヨーロッパに紹介した日本人画商・林 忠正(1853~1906年)が関わっている。

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図2:伝神開手 北斎漫画 初編(初摺本)(ベルリン「北斎展」出品作品)
1814年正月刊。絵手本1冊 半紙本。葛飾北斎筆(印)=雷辰。版元:永楽屋東四郎


日本を見ると、北斎は版画で高く評価されただけではなく、豪華な風俗画や美人画、また中国風の神話的人物など、より伝統的な題材を扱った絵によっても、同じように高い評価を得ていた。北斎は生前すでに絶大な人気を誇っていた。財力ある商人の得意先であれ、美術をたしなむ風流人であれ、江戸市中の一般庶民であれ、みな同じように北斎を斬新で独創的な、教養ある画家と受け止めていた。将軍さえも北斎の画才を認めていた。

北斎は自分の生きた時代と世相を入念に記録づけ、多くは斜に構えた見地から切り取ったが、画中の人々を悪意をもって描くことはなかった。北斎の取り上げた実に様々な題材からは、江戸市中の世相や、都鄙(とひ)を問わぬ一般庶民の生きざまに対する格別の関心がうかがわれる。版画でも素描でも北斎は農民、人夫、職人、商人、職工、遊女、役者を分け隔てなく描いた。また北斎の絵本は、その無数の自然物の模写ゆえに、百科全書的な性格を有している。

北斎は、17世紀末までに開花した人気の美術ジャンル・浮世絵のすぐれた絵師であった。歴史的に見ると浮世絵は、14世紀以来、自作を庶民対象に販売することにより生計を立てていた町絵師(独立系絵師)の系譜を引く。浮世絵は日々の暮らしや江戸庶民の風俗習慣を精密かつ詳細に描写し、とりわけ江戸庶民の贅沢な娯楽を盛り込むことによって、江戸期(1603-1868)の溌剌とした人生謳歌の精神を生き生きと表現している(図3)。数多くの遊廓(郊外の吉原遊廓が最も有名)や歌舞伎座の情景(図4)、美人画(美女・美男の肖像)、人気役者の肖像や春画(官能画)は庶民の競って購入するところとなり、ファッショナブルで斬新な流行を呼び起こした。一方で浮世絵様式による景物の描写は、自国とその圧倒的風景美に対する日本民衆の強い思い入れを余すところなく伝えている。時に抒情的で、時に写実的なこれらの風景描写は常に宗教的な色合いを帯びており、旅人や遍路者が神聖なる土地との交わりを通じて味わった精神的体験を今に伝えている(図5)。

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図3:「枕草子を読む娘」(ベルリン「北斎展」出展作品)
1822年頃。摺物21.3×18.6 cm。不染居為一筆。墨田区蔵。


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図4:「浮絵元祖江戸歌舞伎大芝居之図」(ベルリン「北斎展」出展作品)
1781年から1789年頃。大判錦絵25.7×39.2 cm。勝春朗画。版元:西村屋与八。葛飾北斎美術館蔵。


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図5:冨嶽三十六景 甲州三嶌越(ベルリン「北斎展」出展作品)
1831年頃。大判錦絵 25.4×37.6cm。前北斎為一筆。版元:西村屋与八。墨田区蔵。




北斎という生き方

北斎は、1760年に江戸の本所で生まれた。1868年の明治維新を契機に江戸という地名は改名されて東京となり、現在、本所という場所は墨田区に存在している。幼い北斎は、幕府御用達の鏡磨師であった叔父に養子として迎え入れられた。6歳になった頃、北斎はすでに絵を描く術を心得ていた。12歳まで、北斎は当時江戸市中に数多く存在していた貸本屋の一つに丁稚として働いた(1808年当時、江戸市中には約600軒もの貸本屋が存在していた)。18歳になる頃までに、北斎は木版画の技術を習得していた。北斎は生涯に2度結婚し、5人の子どもの父親となった。そのうち2人の娘も父親と同じ芸術家の道を歩んだ。1849年に90歳で没するまでの間に、北斎は3万点を超える肉筆画、素描、および版画作品を残している。

では『画狂老人卍(絵を描くことに狂った老人)』をはじめ、生涯に30以上の画号を使った北斎という人物は、一体どのような生涯を送ったのであろうか? 北斎は、彼自身が描いた作品の題材に似つかわしい人生を歩んだのであろうか? 北斎は、いわゆる生粋の『江戸っ子』(江戸で生まれ育った人)の気質を持った人物だったのであろうか? 北斎の生涯を探る上で今でも重要な情報を提供してくれるのが、飯島虚心(1841~1901年)が執筆し、北斎の没後40年以上が経過した1893年に刊行された『葛飾北斎伝』という書物である。こうした書物に目を通せば、北斎が芸術の創造に一生を捧げた極めて個性的な人物であったことが分かる。

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図6:露木為一II (ベルリン「北斎展」では出展されていない作品)
1840年代中頃の北斎とお栄の様子を描いた仮宅之図。1880年代後期。墨絵。25×17 cm。国立国会図書館蔵。ニューヨーク アジアソサエティ 展覧会カタログ、Designed for Pleasure, The World of Edo Japan in Prints and Paintings, 1680-1860(編集:J. Meech/J. Oliver 2005年)より 図117。


北斎の姿が描かれた墨絵はいくつか残されているが、中でも興味深い一枚がある(図6)。この絵には、実に飾り気のない部屋にたたずむ晩年の北斎とその末娘・お栄(1800頃~1866頃)の姿が描かれている。この簡略化された描写の墨絵は、北斎が没してから数年経過した後に彼の弟子の一人である露木為一(1893年没)が描いたものであると伝えられる。恐らく最後に師匠のもとを訪れたときのことを回想しながら、為一は筆をとって描いたのであろう。すでに老境に入った師匠が布団の中でひざまずいた姿勢でひたすら絵を描き、娘はその様子をじっと眺めている。絵の中の二人の人物の間に見える張り紙には、「画帳扇面おことわり」の文字が見える。当時、北斎とその娘は『北斎漫画』など、画集に収録する作品の制作に余念がなかった。為一がこの絵の中で表しているように、北斎の生活は質素で飾り気がなく、仮暮らしの繰り返しであった。この事実は、同時代の人物が残した記述が裏付けている。中でも、当時の町役人(名主)であり、学者でもあった斎藤月岑(げっしん)(1804~1878年)という人物は、北斎の様子を極めて克明に伝える記述を残している。「今年(1848年)、北斎は89歳になったのだが健康状態は至って良好で、歩行にも難がない。絵を描く際に北斎は眼鏡を使用している。北斎は小さな仮宅から次の小さな仮宅へといった具合に、その生涯において数十回も転居を繰り返している。北斎の末娘であるお栄は、父親にそっくりだ。お栄は料理の支度をしたことはなく、また食事が終われば食器をそのままの状態に放ったらかしにしている。以前は絵師に嫁いでいたが、今は離縁して父親と同居している。」さらに読み進めると、「誰かから生魚をもらっても、この親子は料理をするのが面倒なため、すぐに他人にあげてしまう」とも記述されている(『斉藤月岑日記』より)。

北斎はその生涯のうちに転居を93回も繰り返したと伝えられているが、墨田区域を離れて居を構えることはほとんどなかった。当時、隅田川の辺(ほとり)に位置し、人通りの多い浅草寺界隈を囲むように広がる町の北部にあった本所という地区には、商人、職人、芸術家が多く居住していた。最晩年に北斎が所有していたものといえば、用具がいくつか、土瓶が一個、茶碗が数個のみで、皿は一枚も持っていなかった。必要があれば近所の人が北斎に食べ物を差し入れてくれたり、また北斎が料理の出前を注文することもあった。北斎がそばを好んでいたのは有名な話で、毎晩大盛りのそばを二丁注文していたという。その他に北斎が所有していたものといえば、一般庶民が普段着として着るような綿でできた素朴な着物一着のみであった。北斎は高名な絵師であると同時に、時代の先端を行く浮世絵師としてかなりの収入を得ていたはずであるが、お金には普段から不自由していたようである。その原因の一つとして、北斎が自分の家族(主に二人の不肖の孫)のために惜しみなくお金を費やしていたことを挙げることができるであろう。しかし実際には、それよりも何気ないことの積み重ねが原因であったように思われる。実は、北斎は金銭感覚に非常に乏しく、生活の保障、財産、あるいは社会的な地位といったものに一切の価値を置かなかったのである。北斎は自身を『奇人』、すなわち変わり者と称してはばからなかった。江戸期には、階級制度によって厳格に支配された既成の流派や画壇に属さない芸術家は皆『奇人』と見なされた。そして北斎は、まさしくこの『奇人』を体現する生き方を実践したのであった。



情緒的な境界 - 視覚による解放

長期にわたる内戦を終結させ、日本国内を平和的に統治することに成功したのは徳川家という武家であった。徳川家は1603年から1867年明治天皇の即位による王政復古まで約250年間にわたり国を治めた。この間、平和な時代が間断なく続き、対外的には鎖国政策が取られた。18世紀中頃までに、江戸を新たな日本の都とした中央集権的な侍(武士)による政府(幕府)の統治が確固たるものとなった。さらに、徳川幕府の時代には、宋明理学(新儒学)の教えを基盤とした厳格かつ世襲的な社会を形成するための身分制度が確立した。この身分制度により、日本の封建社会は主に4つの身分に分けられた。その身分制度の最上位に君臨していたのが特権階級の人々、すなわち侍と呼ばれる武士であった。彼らの間では、領地で収穫される米の量、または彼らが幕府から俸給として与えられる米の量によって階級の上下が測られた。侍に次ぐ身分を与えられたのが米を作る農民で、それに次ぐ身分を与えられたのが商品を作り出す職人であった。最下位の身分を与えられたのが、儒教では社会のために物を生み出さないとの理由で最も身分が低いと見なされる商人や取引人であった。芸術家、遊女、および役者はこの社会の身分制度の外に置かれた。彼らは『非人』(人とは見なされない人々)と呼ばれた。江戸期の町文化は、建前的には身分制度によって厳格に仕切られた社会的な各要素を様々な分野で融合させたのであった。

江戸の町の経済と文化の繁栄を支えたのが、多くの所領や部下を持つ領主(大名)に課せられた『参勤交代』と呼ばれる出仕の義務に他ならない。この制度により、大名は江戸と地元の藩との間で定期的に居を移し変えることを余儀なくされ(図7)、結果的に彼らは大勢の家臣や使用人を従えて豪華な邸宅を江戸に構えることになった。数多くの職人、職工、ならびに芸術家が日本各地から江戸に集まり、将軍家を中心とする文化の繁栄を支えた。しかし、これに伴い莫大な費用を負担することになり、彼らの多くは貧困に陥った。

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図7:冨嶽三十六景 従千住花街眺望ノ不二(ベルリン「北斎展」出展作品)
1831年頃。大判錦絵25.9×38.2 cm。前北斎為一筆。版元:西村屋 与八。葛飾北斎美術館蔵。


この時代を特徴付けるのは、社会の傾向や文化の潮流を比較的に短期間のうちに転換させる大きな活力に満ちた町の生活様式である。一般庶民の生活水準が向上することで、観念的、文化的、および経済的な理想像の転換が促され、商人が新たな侍として台頭した。18世紀末に至るまでには、中産階級の拡大に伴いメンタリティ(精神構造)にも変化が生じた。その結果、多くの裕福な商人は、多彩な公共的空間で提供される世俗的かつ物質的な享楽に耽溺することをやめ、儒教の教えに基づく質素な生活を送るようになった。しかしいずれにしても、歌舞伎座や遊郭のある遊興的な地区など(図8)、当時の人々を惹き付けた流行の場所に資金を出して支えていたのが商人たちなのである。日常から解き放たれたこうした『浮世』を監視する目的で、封建的な官僚主義を基盤とした幕府は享楽的な世相を規制する法律を定期的に施行し、文学、版画、挿絵付き書物、俳句、歌舞伎座、服装、遊郭など、多彩な庶民文化にそうした法律を適用した。特に、寛政期(1789~1800年)の政治家・松平定信(1759~1829年)が行った寛政の改革は、当時すでに弱体化傾向にあった徳川幕府の権威を再び強化することを主な目的とし、文化に対する厳しい検閲制度が施行された。

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図8:「吉原遊郭の新年」(ベルリン「北斎展」出展作品)
1811年頃。5枚続の左半分。大判錦絵5枚続。各36.9×25.0 cm。かつしか北斎画。版元:伊勢屋利兵衛。墨田区蔵。




活気あふれる江戸の町

1760年に北斎が本所に生まれたとき、江戸の町ではすでに大きな事件に見舞われていた。1657年にはいわゆる明暦の大火が起きていた。この大火で町の6割が破壊されたという。930軒を超える武家屋敷、さらには350の寺院や橋梁が消失した。犠牲者は10万人に上ると伝えられる。この大火の後、建築手法の変更によって、江戸の町の様相は以前と異なるものになった。町の通りは拡張され、高い建築物を建てることは禁じられ、数多くの神社仏閣が郊外に移転された(また、吉原の遊郭街にも同様の措置が取られた)。それまでの軍事優先の都市計画を廃し、行政上の効率性を実際的に高める都市計画の採用が望まれたのであった。隅田川に新たに両国橋が架けられたことで、町の中心部と近隣界隈(北斎が生まれた北本所の地区など)が直結した(図9)。町は絶え間なく成長を続けた。19世紀に入るまでに江戸市中の人口は100万人に達し、侍と一般庶民が半数ずつを占めた。商人や職人は特定の地域に居を構えていたため、そうした地域は『町人町(ちょうにんまち)』と呼ばれるようになった。各地域は複数の区画に分けられ、特に夜になると各区画の門が閉鎖され、見張りの番人が立った。町の住人の多くは自らが所有する家に居住し、5軒単位で相互扶助のための隣組を形成した。魚市場のある日本橋周辺の地域などでは、一間限りの小さな商店が数多く軒を連ねていたほか、大規模な商店、倉庫、米蔵も多く見られた(図10)。

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図9:新板浮絵 両国橋夕涼花火見物之図(ベルリン「北斎展」出展作品)
1781年から1789年頃。大判錦絵24.0×37.0 cm。勝春朗画。版元:西村屋 与八。墨田区蔵。


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図10:冨嶽三十六景 江戸日本橋(ベルリン「北斎展」出展作品)
1831年頃。大判錦絵25.6×38.4cm。前北斎為一筆。版元:西村屋 与八。葛飾北斎美術館蔵。


町人文化は、江戸市中の遊郭や歌舞伎座など、娯楽が提供される地域を中心に花開いた。理想的な女性美を追い求める町の男たちは、華やかな衣装に身を包んだ美しい女性の姿を描くよう浮世絵師たちにさかんに注文を出した。そうした女性が持つ美しさや気品は文学の中で表現され、美術や舞台芸術の中でも視覚化された。高位の遊女(『花魁』)は複雑な髪型に、最新の柄が施された着物を身にまとうことで(図11)、江戸の美意識(『粋』)の高さを表現した。遊女たちの現実の生活は「悲しみに満ちた」ものと考えられていたが、彼女たちは称賛すべき美的感覚や技能を具現化する流行の仕掛け人として理想化され、描かれたのである。この時代、芸術と現実生活とが相互に作用ながら方向づけられていたのである。

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図11:「ほととぎすを鳴く遊君図」(ベルリン「北斎展」出展作品)
1801~1807年。掛軸。紙本画墨淡彩。88.7×27.6 cm。北斎画。印影:辰・政。墨田区蔵。


(原文:英語)




hokusai_edo11.jpg アンチエ・パピスト・マツオ(Antje Papist-Matsuo)
ケルン大学と台湾師範大学で中国の文化と言語、東アジア美術史、古典考古学を学ぶ。2005~2006年 国学院大学客員研究員。現在、ベルリン自由大学東アジア美術史科研究員。専門は東アジアの漆芸品、日本の応用美術、日本の浮世絵、および戦後日本美術。根来塗漆器に関する学位論文を執筆。複数の著書を執筆。2011年10月14日と15日にベルリンにて開催される国際シンポジウム「Hokusai in Context(文脈の中の北斎)」企画を担当。


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