雑誌『をちこち(遠近)』
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若き日系アメリカ人が共有した福島の「声」

アイリーン・ヒラノ・イノウエ
(米日カウンシル プレジデント)



 東日本大震災と津波の発生から2年を迎えた日、2013年日系アメリカ人リーダー訪日招へいプログラム(JALD)の一団は、福島を訪れていた。JALDは外務省と米日カウンシルの共催で実施されているプログラムで、毎年、日系アメリカ人を日本に招き、日本社会のあらゆる分野のリーダーとの人的関係を築く機会を提供している。

 2000年のプログラム開始以来、これまでに163名の日系アメリカ人リーダーが全米各地から日本を訪れている。参加者は日本のトップリーダーとの交流を図るが、その顔ぶれは首相や外相、企業の幹部、市民社会の実務家など多岐にわたる。私は米日カウンシル会長として、これまで13回すべてのプログラムに同行している。

 東日本大震災が発生した2011年3月11日、同年のJALD参加者は東京を訪問中だった。翌2012年のJALD参加者は仙台と石巻を訪問した。そして、震災から2年を迎える日、JALD参加者が福島を訪問できたのは、このプログラムを実施するにあたっては特別に意味深いことであった。
 地域のお年寄りや小学生との交流を通じて、若い世代の日系アメリカ人は、復興に取り組む福島の姿を知り、人々の立ち直る力と精神に感銘を受けた。福島で訪れた至る所で感じたのは、自分たちの体験を世界の人々と共有し、世界の人々にも震災被害から学んだ教訓を生かしてほしいと願う福島の人々の思いである。
 日系アメリカ人は、自身の体験を他者と共有することの重要性を理解している。体験を共有することは、人と人、国と国との揺るぎない結び付きを築くための第一歩としての共通基盤を見出すために必要なことだからである。

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飯館村立草野小学校、飯樋小学校、臼石小学校の合同仮設校舎の体育館で。
左から、JALD参加者のエミリー・ムラセ氏、広瀬要人・飯館村教育委員会教育長、筆者


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飯館村立草野小学校、飯樋小学校、臼石小学校の合同仮設校舎の前で

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福島へ向かう車中で。左前から時計回りに、筆者、ケリー・オギルビー、マリオン・フリーバス=フラマン、エミリー・ムラセの各氏

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シンポジウムで取材を受けるパネリストたち

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首相官邸に安倍総理を訪問(2013年3月15日)
* 訪問時の様子は、首相官邸HPでもご覧になれます。




日系アメリカ人が日米交流に果たす役割
 日系アメリカ人の歴史は第二次世界大戦の体験を抜きには語れない。戦争中12万人以上の日系アメリカ人が、米国政府によって家を追われ、有刺鉄線で囲まれた収容所に収監された。さらに第二次世界大戦の体験といえば、従軍を志願し、日系人を中心に編成された第442連隊戦闘団、第100歩兵大隊、陸軍情報部で多くの勲章を受けた日系アメリカ人の英雄的行為と勇敢さも忘れることはできない。
 日系アメリカ人は戦争中の体験についてほとんど語ってこなかった。彼らが語り始めたのは1960~1970年代に、三世の世代が、両親や祖父母の世代に尋ねるようになってからのことだ。三世は戦争中の出来事とその被害について、一世と二世に語るよう促した。
 日系アメリカ人が耐え忍んだ不当な扱いについて一世、二世が直に語ったことが、1980年代に始まった日系アメリカ人の権利擁護運動とも相まって、歴史的な1988年「市民自由法」の制定につながった。これにより米国大統領による謝罪が行われ、補償金も支払われた。個人の体験を保存・共有することの重要性は、日系アメリカ人社会にとって必要不可欠な要素となっているのである。

 第二次世界大戦は日系アメリカ人と日本との絆を断ち切る大きな要因となった。その結果、日本人と日系アメリカ人の関係は複雑なものとなっている。協調と互恵の機会に恵まれた今日、日系アメリカ人には日米関係の構築のための新たな役割が求められている。JALDプログラムは、日系アメリカ人リーダーに、日本に精通し、日本とのつながりを再構築する機会を提供している。訪日中、参加者はディスカッションに参加し、現在と将来にわたって両国が直面する重要課題に取り組むうえで日系アメリカ人が果たすことのできる役割について話し合う。



震災から2周年を迎えた福島で
 福島訪問の一環として、国際交流基金日米センター(CGP)、米日カウンシル、福島大学うつくしまふくしま未来支援センター(FURE)の三者の共催により、「地域に生きる力:みんなの『声』が紡ぐふくしまの未来」をテーマにシンポジウムが開催された。2013年JALDプログラム参加者の中から3名がパネリストを務めた。2013年3月10日に、福島市のコラッセふくしまで行われたシンポジウムには、学生、地域住民、公務員、メディア関係者など、多様な聴衆が集まった。

america_fukushima10.jpg america_fukushima11.jpg  国際交流基金の田口栄治理事と村田文雄福島県副知事の挨拶の後、米日カウンシルを代表して、私はシンポジウム全体への導入の役割を担った。事業の概要や背景を聴衆に理解してもらうために、米日カウンシル、JALD、TOMODACHIイニシアチブについて説明した。TOMODACHIイニシアチブとは、米日カウンシルと駐日アメリカ合衆国大使館が主導する官民パートナーシップで、日本政府および日米の企業、団体、個人から支援を受けている。TOMODACHIは、東日本大震災からの日本の復興を支援するとともに、長期にわたり日米間の文化的・経済的な結び付きを強化し、友好を深める形で、両国の将来の世代に投資している。



逆境と試練を越えて
america_fukushima12.jpg  JALDプログラム参加者の3名のパネリストの中で、最初にプレゼンテーションに立ったのは、サンフランシスコ市女性の地位局局長を務めているエミリー・ムラセ氏である。彼女は2010年に日系人として初めてサンフランシスコ教育委員会委員に選出された。「Home, Community, Change: What Will Your Adventure Be?(ホーム、コミュニティ、チェンジ:どんな冒険が待っているのか)」と題されたプレゼンテーションで、ムラセ氏は自身の日系アメリカ人としての起源と家族のロールモデルについて詳しく語った。

 「私の祖父母は山口県出身で、1900年代初めに米国に渡り、カリフォルニアのブドウ農園で働いていました。暮らしは豊かではありませんでしたが、倹約を重ねてお金を貯め、1940年までには小さなブドウ畑を所有するようになっていました。

 ...1942年2月にフランクリン・ルーズベルト大統領が発令した大統領令9066号により、父の家族は、畑を手放し、手に持てるだけのわずかな荷物で汽車に乗り、見知らぬ土地に向かうことを強いられました。...父の家族が送られたのはアリゾナのポストン強制収容所でした。...しかし父がそこにいたのは1年くらいでした。1952年、父はアメリカ人として初めて、フルブライト奨学生として日本に留学しました。

 私の母は青森県十和田市出身で、大家族の中で育ちました。祖父は日本海軍の軍人で、娘たちにも全員大学教育を受けさせました。母は1953年に日本女子大学を卒業し、アメリカで勉強するための奨学金を受けました。そして1958年に船で渡米し、ペンシルベニア大学でソーシャルワークを学びました」

 さらにムラセ氏は、コミュニティという概念に言及し、文化を共有することがいかに人々を結び付け、共通の基盤を持っているという実感を与えるかについて語った。ムラセ氏は逆境と試練が人生に新たな冒険をもたらすのだと述べ、プレゼンテーションを結んだ。



多様さを増す日系アメリカ人
america_fukushima13.jpg  2人目のプレゼンターはイリノイ州シャンバーグのトーマス・ドゥーリー小学校で校長を務めるマリオン・フリーバス=フラマン氏である。生徒の半数が日本語の母語話者、半数が英語の母語話者である同校で、フリーバス=フラマン氏は日本語と英語の二言語プログラムの企画・開発に携わってきた。フリーバス=フラマン氏は「Building Common Ground(共通基盤を築く)」という題で話をした。

 「これは私たち一団に大変ぴったりのテーマです。というのも日系アメリカ人として、このプログラムには全米各地の出身者が集まっており、バックグラウンドも多様で家族の歴史も人それぞれだからです。日系アメリカ人には二世、三世、四世、五世がいます。また私のように民族的にさまざまな先祖を持つ者もいます。私たちは多様な個人の集まりですが、日本とのつながりを共通基盤として持っているのです。

 私と日本とのつながりは直接福島と結びつきます。私の祖父キクチトシオは福島で農業を営んでいました。私は祖父のことをよく覚えています。祖父は私をイチゴ畑に連れて行き、イチゴの収穫を手伝わせてくれました。どういうわけか、祖父はいつも一番熟したイチゴを見落とすので、その度に私が祖父に教えてあげたものです。もちろん私は、自分で摘んだイチゴを食べさせてもらえました。祖母には会ったことがありません。若い頃に亡くなったからです。祖母は学校の先生だったと母に聞きました。私は一度だけ、曾祖母に会ったことがあります。私たち家族がアメリカに出発する前のことです。祖父母は飯坂温泉に近いところに住んでいました。母は大笹生(おおざそう)小学校に通っていました」

 さらにフリーバス=フラマン氏は、ドゥーリー小学校について説明した。同校の二言語プログラムでは、一つの教室で日本人生徒に英語を教え、英語話者の生徒に日本語を教えている。その結果、生徒たちは二言語・二文化能力を習得し、真の共通基盤を築くことに成功している。



「ジェネレーションY」による社会的企業
america_fukushima14.jpg  最後のプレゼンターは、ワシントン州シアトル出身のケリー・オギルビー氏である。オギルビー氏は、ウェブサイトや携帯機器からアクセス可能な電子マネー・アプリを提供するQuemulus社の創業者で、会長、社長、COO(最高執行責任者)を兼務している。また中小企業向けにソーシャルメディア戦略を助言するコンサルタント会社Social Milli, LLCの共同設立者でもある。オギルビー氏は「Social Entrepreneurship and the Hero Generation(社会的起業家精神とヒーロー世代)」という題で話をした。

 「私は四世です。祖父は剣道の師範で芸術家でもありました。私はさまざまな民族的背景を受け継いでおり、先祖の出身地も日本の広島、ヨーロッパ、フィリピン、アメリカとさまざまです。祖父はツールレイク収容所に収監されました。アメリカへの忠誠心を示すため、祖父は陸軍に入隊しました。私の父は起業家でした。それは私に大きな影響を与えました。父は塗装工、大工を経て、ブイの製造を始めました。一時期、アメリカ西海岸のブイはすべて、父の製造したブイだったこともあります。起業家精神を持つということは我が家の教育方針の一つでした」

 オギルビー氏は、クリーン・テクノロジー分野における経験について話し、さらに最近取り組んでいる社会的企業の分野についても語った。またジェネレーションY(アメリカで1975年から1989年までに生まれた、およそ35歳以下の若い世代の総称)について説明し、ジェネレーションYとは個人的に世界を変えようと目指している人々で、「ヒーロー」世代になり得る類まれな立場にあると語った。



福島の経験から未来を考える
america_fukushima15.jpg  このシンポジウムでは、上智大学のデビッド・スレーター准教授がモデレーターを務めた。シンポジウムの後半には、スレーター准教授は自身が主導的な役割を果たしている「Tohoku Voices Project(東北の声プロジェクト)」について紹介した。これは3.11後、地震・津波・原子力発電所の事故と三重の災害で最も大きな被害を受けた人々の証言をまとめるプロジェクトである。スレーター准教授は、インタビューを通じて多くを失った人々のなかに素晴らしい回復力と希望を見たと語った。

america_fukushima16.jpg  最後に、福島大学うつくしまふくしま未来支援センター(FURE)所長の山川充夫教授が復興プロセスへの関与について話した後、故郷を離れて避難生活を送りながら帰宅を望んでいる何万という人々の現状、さらにデータに勝る「人間の精神」について語った。山川教授は復興に地域住民が関わっていくことの重要性を強調し、同センターでボランティアをしている270名の人々が、福島の放射線汚染マップ作成に協力したことに触れた。

 日系アメリカ人の発表者たちは、人々の体験を記録・保存し次世代に残すことの重要性を議論し、「共通基盤」を築く機会は経験を共有することから始まるとして話を結んだ。
 今回のシンポジウムでは、福島県に暮らす住民からの声を聞き、日本とアメリカの人々が復興について建設的で前向きな対話をすることができた。今回集まった、福島の未来についてのたくさんのアイデアが、今後の復興に役立てばと心から願っている。

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america_fukushima01.jpg アイリーン・ヒラノ・イノウエ Irene Hirano Inouye
米日カウンシル プレジデント
ワシントンDCに拠点を置く日米両国間の人的交流促進を目的とした非営利団体、米日カウンシルの会長。日系アメリカ人リーダー招聘プログラム(JALD)では、米側コーディネーターとして、毎回一行を引率して訪日。2008年に退任するまで、全米日系人博物館(カリフォルニア州ロサンゼルス市)前館長、創設CEOを20年にわたり務めた。
南カリフォルニア大学で行政学学士号と修士号を取得し、全米の多文化コミュニティにおける非営利団体活動、コミュニティ教育や広報などの幅広い分野で活躍。現在はフォード財団理事会議長、クレスゲ財団理事(前理事会議長)など多数の要職を務めている。長年にわたり日本と米国との架け橋となり、両国の人と人をつなぐ上で大きく貢献しており、2012年国際交流基金賞を受賞した。夫は故ダニエル・イノウエ上院議員。



シンポジウムで発表を行った日系アメリカ人リーダー

america_fukushima02.jpg エミリー・ムラセ Emily Murase
サンフランシスコ市女性の地位局局長。サンフランシスコの女性と少女の人権を向上させるため、3.5百万ドルの予算を管理している。AT&Tの東京オフィス勤務を経て、クリントン大統領第1期の1993年から1994年、ホワイトハウスの国際経済課長、その後、米連邦通信委員会国際局にて勤務した。2010年、サンフランシスコ教育委員会委員に選出され、日系人としては初めての委員となった。2009年には、カリフォルニア州上院のリーランド・イー上院議員によりWoman of the Yearに推薦され、民主党女性フォーラムから、女性コミュニティへの貢献を認められ表彰されている。ブライアン・マウアー・カレッジで日本現代史の学士号(津田塾大学での勉学1年を含む)、カリフォルニア大学サンディエゴ校で国際関係学の修士号、スタンフォード大学でコミュニケーション学の博士号を取得。先祖ゆかりの県は、父方が山口、母方が青森県。


america_fukushima03.jpg マリオン・フリーバス=フラマンMarion Friebus-Flaman
イリノイ州シカゴ近郊のシャンバーグにあるトーマス・ドゥーリー小学校校長を務める。生徒の半数が日本語の母語話者、半数が英語の母語話者である同校で、同氏は日本語と英語によるバイリンガル教育プログラムの企画・開発に携わってきている。このプログラムは米国では初の試みであり、内容としては、6年生を終了するまでに会話、読み書き、文化理解が日英でできることを目的としている。また同氏は、6歳まで日本で過ごし、シャンバーグ学校区で教鞭を執る以前は、日本の国立大学2校で外国人非常勤講師として6年間教職に従事した。イリノイ英語学習者評価諮問委員会、イリノイ州知事成長モデル調査特別委員会の委員でもある。南イリノイ大学カーボンデール校にて学士(英語学)、イリノイ大学アーバナ-シャンペーン校にて修士課程(ESL教授)、北イリノイ大学にて修士課程(教育行政学)、カペラ大学にて博士課程(教育学)を修了している。先祖のゆかりの県は福島(母方の祖父)、熊本(母方の祖母)。


america_fukushima04.jpg ケリー・オギルビー Kelly Ogilvie 
ウェブサイトや携帯機器からアクセス可能な電子マネー・アプリを提供しているQuemulus社の創業者、会長兼COOである。中小規模ビジネス向けのソーシャルメディア戦略を助言するSocial Milli, LLCの共同創始者でもある。Quemulus及びSocial Milli, LLC設立以前は、Blue Marble Biomaterialsの創立者、CEO兼社長を務めた。それ以前は、シアトル商工会議所に勤務し、ワシントン州におけるビジネス利益の向上に努めたほか、マイクロソフト社の共同創立者であるポール・アレン氏が経営するバルカン社の不動産部門で、ユニオン湖南回廊地帯開発に従事した。初めての職務経験は、当時ワシントン州知事を務めていたゲイリー・ロック知事再選に向けた地元での選挙キャンペーン担当。また、グレッグ・ニコルズ前シアトル市長の選挙事務所でも地域担当副部長を務めた経験がある。現在は、芸術教育を満足に受けられない若者を対象にしたNPO法人Extraordinary Futuresで理事を務めるほか、ワシントン州立大学環境調査教育・アウトリーチ・センターで外部有識者委員を務めている。シアトル大学で人文科学・国際ビジネスの学士号を取得。先祖のゆかりの県は不明。




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