雑誌『をちこち(遠近)』
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戦後日本美術の受容を多面的に考えるシンポジウム

ドリュン・チョン(ニューヨーク近代美術館アソシエイト・キュレーター)
前山裕司(埼玉県立近代美術館主席学芸主幹)
林道郎(上智大学教授、美術批評家)
ガブリエル・リッター(ダラス美術館アシスタント・キュレーター)
鈴木勝雄(東京国立近代美術館主任研究員)



 2012年冬。ニューヨークと東京で、ほぼ同時期に戦後の日本美術をテーマにした展覧会が開催されました。ニューヨーク近代美術館(以下、MoMA)では、国際交流基金との共催にて「TOKYO 1955-1970:新しい前衛」展が、また、開館60周年を迎えた東京国立近代美術館(以下、東近美)では、「美術にぶるっ! ベストセレクション 日本近代美術の100年」展内の第Ⅱ部として「実験場 1950s」展が、それぞれ開催され、多くの観客を集めました。

 1950年代以降の日本における美術動向を扱ったこの2つの展覧会は、多くの共通点と同時に相違する部分を持っています。
 今回の特別寄稿は、2012年12月23日に、東京で開催された国際シンポジウム「戦後日本美術の新たな語り口を探るーニューヨークと東京、二つの近代美術館の展示を通して見えてくるもの」の様子をダイジェストでお届けします。
 MoMAアソシエイト・キュレーターであるドリュン・チョン氏と東近美主任研究員の鈴木勝雄氏に加え、埼玉県立近代美術館主席学芸主幹である前山裕司氏と、上智大学教授で美術批評家の林道郎氏、ダラス美術館アシスタント・キュレーターのガブリエル・リッター氏を招いた本シンポジウムでは、日本とアメリカにおける戦後日本美術の受容の違い、作品内に見られる領域横断性について活発な議論が交わされました。
(2012年12月23日 東京国立近代美術館での国際シンポジウムを収録)



複数のモダニズムを考えるMoMA
 シンポジウムの前半部では、各パネリストが後半の討議の基調となる講演を行いました。
 最初の登壇者は、「TOKYO 1955-1970:新しい前衛」(以下、TOKYO展)を企画したドリュン・チョン氏。チョン氏は、TOKYO展の展示構成を解説しながら、MoMAと戦後日本美術との接点、そしてMoMAが目指すグローバルな「モダニズム」のあり方について語りました。

japanese_art_after_war01.jpg  TOKYO展は、建築界におけるメタボリズム運動を皮切りにして、1950年代の絵画における人物表現の変化、そして「実験工房」や「具体美術協会」などの前衛芸術グループ、読売アンデパンダン展などの場を軸として紹介しています。また「もの派」や、同運動へと連なる作品群、そして最後にデザイン、パフォーマンス、写真作品などから、当時のジャンル横断の様子を提示しています。
 展示された作品の多くは日本国内の美術館などから貸し出されたものですが、MoMAが所蔵する作品も少なくありません。それらは、65〜66年にアメリカ各地を巡回した「日本の新しい絵画と彫刻」展や、74年にMoMAで開催された「新しい日本の写真」展などを機会に収集されました。じつに2000点に及ぶという戦後日本美術のコレクションは、MoMAのDNAのなかで重要な位置を占めるものだとチョン氏は言います。
 欧米のモダニズムがあるように、日本にも固有のモダニズムがある、つまりモダニズムは単一ではない。これらは、地域ごとの固有性を持つと同時に、普遍性によって接続されうるのではないか、とチョン氏は講演を結びました。

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「TOKYO 1955-1970:新しい前衛」展の様子
Photo by Jonathan Muzikar. (c) 2012 The Museum of Modern Art, New York






ジャンル横断と歴史の忘却
 続いて「実験場 1950s」(以下、実験場展)を企画した鈴木勝雄氏が登壇。鈴木氏は、実験場展において「ジャンル横断性」と「歴史の忘却」について考えたと述べました。

japanese_art_after_war02.jpg  東近美が生まれた1952年の日本では、制度としての「美術」は明確ではなく、だからこそ、美術、映画、デザイン、建築、思想などが自由に横断しあうような想像力のネットワークが機能していた、と鈴木氏は言います。そこで実験場展では、50年代の社会と美術の連関を示す10のセクションを設定し、それぞれに関わるジャンルの活動を横断的に比較・検討する構成を採用しました。
 同展にとって、もうひとつ重要な要素は「歴史の忘却」です。1952年に公開されたニュース映画「原爆犠牲第一号」で、日本人は、戦後はじめて原爆の実状を知ることになります。サンフランシスコ講和条約と同じ年に公開されたこの映像はアメリカ統治からの日本の独立を示すものでしたが、同時に日本人の「被害者性」を前景化し、逆に東アジアに対する日本の「加害者性」を忘却させるきっかけとなりました。このような歴史学者キャロル・グラックの言説を参照しながら、鈴木氏は、日本の戦後に進行した記憶と忘却のせめぎあいについて述べました。また、この忘却に抗うものとして、鈴木氏は戦後美術の国際性を挙げます。例えば民衆版画運動は、そのルーツを中国での抗日運動に用いられた木刻に見出すことができ、さらに日本の版画運動を紹介する展覧会が50年代初頭にアメリカ各地を巡回したことから、中国、日本、アメリカをつなぐ芸術文化戦線のネットワークの存在が明らかになります。実験場展の目的は、こうした50年代の芸術表現のなかから、忘却された歴史を発掘し、新たな歴史記述の糸口を探ることなのだと、鈴木氏は講演を結びました。



アメリカ国内でコレクションされた戦後日本美術
 続く登壇者であるガブリエル・リッター氏は、日本のシュルレアリスムを研究してきたキュレーターです。現在、元永定正と白髪一雄の2人展を準備中のほか、2013年9月に森美術館で開催する「六本木クロッシング2013展」のキュレーターも務める人物です。

japanese_art_after_war03.jpg  リッター氏は、アメリカ国内にある戦後日本美術のパブリックコレクションについて講演を行いました。ドリュン・チョン氏が在籍するMoMAに加え、森山大道荒木経惟をはじめ、杉本博司川内倫子らの写真作品も収蔵するサンフランシスコ近代美術館、戦後から現代日本美術について250点以上のコレクションを持つウォーカー・アート・センターも重要であると述べたリッター氏は、自身が所属するダラス美術館について解説しました。
 戦後の日本美術を収集する美術館としての歴史は浅いと断りつつも、現在ダラス美術館では有力コレクターであるハワード・ラチョフスキー氏の支援も得て、具体美術協会や「もの派」を軸としたコレクションを拡大しつつあること、また、ラチョフスキー・コレクションをもとに予定されている展覧会「Parallel Views: Italian and Japanese Art from the 1950s, 60s, and 70s」(並行する光景:1950年代、60年代そして70年代のイタリアと日本の美術)について紹介しました。
 その他、戦後日本美術について頭角を現せているのはキュレーターや学者のみならず、美術市場の動向を担うディーラーや批評家にも日本をよく知るものが少なからず登場していることについても述べました。



コマーシャリズムのなかのラディカリズム
 次に登壇した前山裕司氏は、同氏が埼玉県立近代美術館で企画・開催した「開館30周年記念展 日本の70年代 1968-1982」では、「コマーシャルリズムのなかのラディカリズム」の発見があったと述べました。

japanese_art_after_war04.jpg  前山氏は、学生運動がピークを迎えた60年代後半から、オイルショックの頃までの70年代の前半を「ラディカリズムの時代」、また、70年代後半を「コマーシャリズムの時代」と呼びました。
 前半の時代性を体現した事例としては、例えば大阪万博に建てられたせんい館には、横尾忠則、松本俊夫、四谷シモンといった芸術家たちが関わり、万博のテーマや繊維とほぼ関係のない前衛的な展示を行いました。驚くべきことに、せんい館のスタッフ自身が、「反万博的傾向」を誇らしげに語っていたといいます。前山氏は、『サンデー毎日増刊劇画&マンガ』が高松次郎を起用してマンガを描かせたことや、森山大道や中平卓馬の特徴である「アレ、ブレ、ボケ」のような写真を用いた国鉄(現在のJR)の「ディスカバージャパン」のポスターなどに、コマーシャリズムのなかのラディカリズムが見られると指摘しました。
 後半の時代では、当時西武美術館などで先端的な文化活動をリードした西武デパートパルコの「セゾン文化」を挙げました。
 70年代に活気のあった文化は、「サブカルチャー」ではなく「カウンターカルチャー」として定義すべきだと前山氏は指摘し、美術におけるカウンター、マンガにおけるカウンターなどが、相補的な関係性を結ぶことで時代の空気を醸成していったのではないかと話を結びました。



「鳥の目」と「犬の目」
 最後の登壇者である林道郎氏は、「地図」というキーワードを手がかりに、戦後日本の視覚的イメージがどのようにかたちづくられたかを解説しました。

japanese_art_after_war05.jpg  林氏が最初に挙げた戦後日本の視覚的イメージは1946~53年に全国で行われた昭和天皇の行幸です。足掛け9年に及ぶ行幸のなかで、はじめて天皇は写真に撮ってもよい被写体になりました。また、天皇が訪れた場所は、観光地化し、全国から人々が殺到するようになりました。1950年代前半の第一次カメラブームも追い風になり、写真による「日本国土の再編」が一気に加速したのではないか、と林氏は指摘します。こうした再編の動きは、木村伊兵衛や土門拳などの人気写真家の台頭、『街道をゆく』などを著した司馬遼太郎が国民作家と呼ばれるようになった文芸界の動きとも符号しています。大文字の「日本」を表象しようとする視線(視覚イメージ)の欲望を、林氏は「鳥の目」と呼びます。
 その一方、美術界では「鳥の目」に対置されるような動きもありました。それらは、写真家川田喜久治の写真集『地図』や米軍基地建設に端を発する土地争議を取材した中村宏や山下菊二らのルポルタージュ絵画に見ることができます。彼らの軸になっているのは住民との共闘を前提とし、現場から日本を見ようとする生々しい「犬の目」です。俯瞰的な「鳥の目」と、現場に根付く「犬の目」の相対的な関係は、急激な勢いで発展し複雑化していく都市の様相と、その周縁的性質を醸成し、失われた日本像を体現することを求められた地方の関わりとしても顕在化していきます。
 林氏は東京の複雑化に特に着目し、実現困難な都市計画を志向するメタボリズム運動、ハイレッドセンターの都市ゲリラ的パフォーマンス、都市の情報の羅列・編集を加速させた『ぴあ』『BRUTUS』などの雑誌カルチャーを、都市の変化に対する順応や反証のなかから生まれた文化として紹介しました。









討議:戦後日本美術の新たな語り口を探る

鈴木:みなさん基調講演ありがとうございます。その内容を引き継いでディスカッションを行っていきたいと思います。
 最初にチョンさんと前山さんに伺いたいのは、林さんが最後に触れた都市の問題です。展覧会をつくるなかで、それぞれ東京の想像上の地図を思い浮かべていたと思うのですが、それはどのようなイメージだったのでしょうか。

前山:「天井桟敷」にいた萩原朔美さんが、寺山修司は青森生まれだったけれど田舎者ではない、ハンバーガーを最初に食べた日本人かもしれないといいましたが、ありえない話ではありません。青森には三沢基地がありますよね。基地から入ってくるアメリカ文化が寺山に与えた影響は大きかったと思います。
 デザイン集団の「WorkShop Mu!!」は、アングラ全盛の70年代前半にポップなレコード・ジャケットをデザインしていました。彼らは一時、狭山のジョンソン基地の米軍ハウスに本拠地を置いていて、アメリカ文化と近い距離にいました。小説家の村上龍は、国道16号線という東京の周辺の道路沿いにアメリカ文化があったと書いています。

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時代としての「TOKYO」
チョン: TOKYO展では東京固有のカルチャーや建築にまで詳細に触れることはできませんでした。というのも、展覧会を訪れる来場者全員が東京に関する詳細な知識を欲しているとは思えないからです。しかし予想以上に多くの人が、「TOKYO」という言葉に惹かれて来場しています。彼らの多くは60年代には生まれていなかった人たちですが、東京が持つカウンターカルチャー的性質は非常に魅力的に映ったのだと思います。
 いずれにしても、TOKYO展では、あまりに多くの情報を提示することはやり過ぎになると考えたので、東京という場所を抽象化して構成しました。

鈴木:リッターさんは、ニューヨークと東京両方の展覧会を見ていますが、それぞれどのような印象を持たれましたか?

リッター:TOKYO展は、場所ではなく、時代にフォーカスした展覧会だと思います。美術史的に起きた芸術運動や変化を語るようだと感じました。展覧会の会場に入る前には、戦後復興に対する未来志向の概念やメタボリズムのユートピア的なビジョンに向き合う、そして最初の展示室では、ある種、戦争のトラウマへのシュルレアリスト的反応のようなものと、さらに向き合うといったようにです。
 新しい前衛の再評価を主要なミッションにしたMoMAの展示に対して、実験場展は、その名が示すように非常に実験的なテーマの語り口で、作品が表現についての物語を語りかけ、展覧会のどの場所でも作品と共存できるような展示の仕方をしていると感じました。

チョン:実験場展を見ていて気づいたことですが、私がTOKYO展で語りたいと思ったのは、装飾、集積、集合、増殖などの要素でした。
 実験場展の展示作には繰り返し群衆が登場します。彼らは、暴力的な社会状況に対して団結して戦う信念を示しています。70年代後半になると抗議、抵抗のための信念は薄れてきますが、60年代は群衆の一員として身体的な経験をするということが、共通の認識として現れている。自身がTOKYO展という仕事を通じて目撃したこと、そして、実験場展で目にしたことについて、どのような関連があるのかを考えています。

リッター:実験場展の作品には、歴史的な記録の文脈化が見られます。MoMA自体の歴史を振り返って、TOKYO展にある種の文脈を提供したと思いますか?

チョン:MoMAには約80年の歴史があり、コレクションのなかには多くの戦後日本美術作品があります。それらは美術館のDNAに深く組み込まれていて、非常に広範なMoMAのマトリックスの一部になっていると思います。
 ただ、日本がマトリックスの中軸ではないのも事実ですから、TOKYO展はカウンター的な文脈の提示でもあるでしょう。パリからニューヨークへと線的に伝搬してきたとされる近代美術、とりわけ前衛の歴史に対するカウンターです。これは東京に限定される役割ではないでしょう。

鈴木:TOKYO展は、戦後日本美術を「日本」という枠から解放して、世界の美術動向と接続しやすくするためのマトリックスの描出、つまりモダニズムの書き換えを行った、と私は理解しています。
 MoMAでは、今回の展示だけでなく、グローバルな美術史の創造に向けたプロジェクトを進めているそうですね。

チョン:「CMAP(Contemporary and modern art perspectives)」ですね。各分野の研究者、教育者、クリエーターによるリサーチプロジェクトです。
 CMAPのミッションは、モダニズム研究のなかで、通常我々のナラティブの一部になっていないものを再検証しようというものです。特に重視しているのが、東欧、ラテンアメリカ、そして日本の動向です。このプロジェクトの焦点は2つあります。1つは、これらの地域には我々が理解しているモダニズムの歴史とは異なる固有の状況があるということ。2つめは、それらの状況が、メインストーリーとして語られてきたモダニズムとも強い結びつきを持っているということです。この2つをDNAの二重螺旋のように分ちがたいものとしてとらえようというのが、CMAPの目的です。

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美術は国の枠組みを越える
鈴木:今度は林さんにお伺いしてもよろしいでしょうか? 基調講演では、「地図」という概念のもと、システムとしての国家と、それに対置するかたちで美術を比較して、広いパースペクティブを描いてくださいました。
 では、それぞれの国で生まれた美術が、国の枠組みを越えてグローバルな関わりを持つことは可能でしょうか? 歴史的にそのような試みが行われてきたと思われますか?

:日本からニューヨークに渡った草間彌生荒川修作はまさにその例でしょう。しかしながら、美術史というものは国単位で組織されてきましたし、国家のフレームは現在でも非常に強い強制力を持って、美術史の語り口を規制しています。ですから、草間や荒川のように日本の外で活躍してきた、あるいは移動しながら制作を行っているアーティストたちの姿とその仕事の意味が見えづらくなります。
 そういった人たちの仕事を位置づけるための最適な方法というと、「これだ!」とは言いづらいです。実験場展のように、細部から新たな歴史の糸口を掴むという態度で臨むほかないように思います。

鈴木:一気に鳥瞰図的なマップを描けるわけではないと。

:そうですね。前山さんの「郊外こそが、じつはアメリカと近かった」というお話は、このことに密接に関わっていると思います。基地文化が、60~70年代の日本に与えた影響は大きい。例えばユーミン(松任谷由実)だって基地に出入りして、誰よりも先にレッド・ツェッペリンを聴いていたりする。そういう状況があったわけです。
 ですから、「日本の~」というフレームをかけた途端に、実際にあった現象のハイブリッドな性格が見えにくくなってしまうのを、我々は気をつけなければいけなません。単純な形で「日本」を追求していくことで、逆により多層的な「日本」を喪失してしまうことになるかもしれない。

前山:スーザン・ソンタグの「キャンプについてのノート」(『反解釈』所収)が日本で翻訳されたのが1969年で、70年代には盛んに引用されるようになりました。森山大道のギャラリーも「キャンプ」ですし、谷川晃一『アール・ポップの時代』、宮迫千鶴『イエロー感覚』もソンタグを反映している。また、佐野寛は『映し世の写真家たち』のなかで、広告写真の分野でも若いフォトグラファーたちの「キャンプ的感覚」を見て取れると指摘しています。

:このように同時多発的にキャンプという感覚に関心が集まったのは、メインカルチャーのなかで生きづらさを抱える人たちが、自分の立ち位置を社会のなかでどのようにつくれるだろうか、というソンタグが示した問いが、70年代後半の雰囲気と合致したからでしょう。個人的に「キャンプ」の思想は、日本では拡張使用されすぎたと感じますが、それでも80年代まで続く重要なテーマだったと思います。

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円環状に回帰する戦後日本美術
鈴木:メインカルチャーに記述されることのない細部というのが1つのキーワードかもしれませんね。じつは私も、実験場展に通史的な記述に対する抵抗という意図を込めたのです。時代とともに発展していくような歴史の見方とは、異なるものを提示しようと考えました。それは日本の近代美術の100年を概観する東京国立近代美術館という場所で働いているからこそ、生まれた視点でもあります。

チョン:東近美同様に、MoMAもまたモダンアートの進歩性を信じる美術館です。ただ今回のTOKYO展は、これに当てはまらない要素を含んでいると感じます。戦後日本美術を線的に提示するのではなく、さまざまなセクションがリンクしあい、回帰していく円環状のイメージです。TOKYO展では、空間構成と構造について、歴史的進歩の概念に関連づけて考えることはせず、その時代な多様なフェーズを紹介しました。その結果、非常に密度の濃い、強烈な状況で始まり、同じ状況の中で終わるという循環する構造になりました。全く違う楽曲だけれども、同じようなテノール歌手が歌っているといったようにです。

鈴木:実験場展も同じです。50年代を60年代に向けての過渡期であるとか、あるいは60年代を準備した助走期間としてとらえないよう心がけました。戦後日本の構造が変化するなかで、視覚芸術、視覚文化が時に抵抗したり、時に貢献したりして、進んできたのだという複雑さを提示したかった。「原爆犠牲第一号」に始まり、細江英公の《へそと原爆》で終わる円環構造はその象徴です。
 美術史に限らず、歴史というものを見る上で、いかにその重層性を捉えるかが大きなポイントになるように思っています。美術史もまた、さまざまな連環のなかで生まれた文化総体のひとつにすぎません。重層的な理解によって、戦後日本美術の新しいパースペクティブや、国を越えた隣接領域を発見していけると思います。

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「グローバルV.S.ナショナル」を超えて
チョン:私は、ナショナルなアートヒストリーを、グローバルなアートヒストリーに反対するものではないものとして支持したい。例えば村上龍が日本に存在する米軍基地について書いたように、日本のなかのアメリカのように、ある部分では分かちがたい状況があるわけです。

:確かにナショナル・ヒストリーというのは、現実的には避けがたい重要な言説のフレームです。ただ、いったん戦後の「日本美術史」というようなことを書きはじめると、そのとたんに外部との交流が見えづらくなってしまう。国際的な地政学の「地図」は常に作動しているにも関わらず、それを見失いがちです。ナショナル・フレームのなかで記述すると同時に、念頭に置かなくてはならないのは、そのフレームを超えて流出入している部分です。
 例えば荒川修作は、そういうことを考えるのにはよい例だと思います。日本の美術史の文脈で論じるべきでしょうか、それともアメリカのコンテキストで論じるべきでしょうか? 荒川の世代のアーティストは、いろいろなコンテキスト、場所、あるいは時間を移動し続けています(たとえ一箇所にフィジカルにはとどまっているにしても)。

鈴木:チョンさんは、最初にTOKYO展の来場者全員が日本の歴史や戦後美術に関する詳細な知識を持っているとは思えない、とおっしゃいました。それは実験場展でも同様で、日本人の観客が50年代について詳しいという保証はありません。ですから、この展覧会が受け入れられるか不安がありました。
 しかし震災以降、状況が変わった。美術に関心を持つ観客からは、50年代が現在の社会状況に非常に近づいてきた、という反応が多くありました。これは予想外の収穫でした。

チョン:TOKYO展でも予想外の反応がありましたよ。アメリカの観客からは、彼らが日本美術だと思っているものとは全く異なるものを発見したという反応がありました。また、多くのキュレーターたちは、日本の戦後美術は抽象性が強いものと考えていたため、TOKYO展で展示されたような具象表現や身体性の強さに驚く声が上がりました。
 また、本展になぜ草間彌生の作品がないのか、という意見も多くありました。林さんが指摘されていたように、草間がナショナル・アイデンティティーから逃れてきた人であるのは間違いないですが、やはりニューヨークの人々にとって、彼女は依然として日本のアーティストなのです。1998年の「ラブ・フォーエバー:草間彌生1958-1969」(ロサンジェルス・カウンティ美術館、MoMA、ウォーカー・アート・センターなどを巡回)では、完全にアメリカのアーティストとして紹介されましたが、その後、彼女の認知度が高まるにつれ、逆説的に、彼女がもともと日本人だという事実に脚光が当たるようになってしまいました。このようなケースは、アメリカやドイツのアーティストでもよくあることだと思いますが。

:ガブリエルさん、「もの派」はどうでしょうか?「もの派」は、常に禅や日本的な(と信じられている)美学と関連づけられてきたと私は思うのですが。

リッター:正直申しまして、「もの派」を紹介するときには、やはり、アメリカ人にとっては、例えばアルテ・ポーヴェラなどいった60年代、70年代の潮流を抜きに、「もの派」を理解することは難しいのではないでしょうか。アメリカでは、日米安保のような当時の社会状況との関わりのなかで論じられることはまずないと思います。とはいえ、非常に重要な学問研究も行われています。例えばグッゲンハイムで2011年に行われた李禹煥(リー・ウーファン)の展覧会がそうです。同展のカタログには李自身が69年に書いた「事物から存在へ」の翻訳もあり、作家研究のための重要な資料になっていますね。
 ただ私の個人的な関心を述べるならば、「もの派」は政治性が薄いと思っています。

:私はちょっと意見が違います。基本的に「もの派」というのは、都市あるいはそれに代表される「近代化」に対するリアクションだと思います。どうやって工業化した社会に対抗する価値を提示できるかということにかかわっていた。反動ととることもできるかもしれませんが、そこには、ある種の弁証法が働いていると思います。その意味で、ある種の政治性を帯びざるを得ない。

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戦後美術を学ぶための学術基盤の整備
:現在のアメリカでは、2012年にブラム&ポーで「REQUIEM FOR THE SUN: THE ART OF MONO-HA」を企画した吉竹美香や、ミン・ティアンポ、ジェニファー・ワイゼンフェルド、アリシア・フォークとか、新しいジェネレーションの研究者たちがちゃんとした研究を戦後日本美術に対して始めています。この状況はすごく大きなインパクトを持っていて、アカデミー、美術館、マーケットの3つが有機的にリンクして、日本の戦後美術を語る前提を変えつつあると思います。
 しかしそれを考えると、日本の大学で戦後日本美術史をきちんと勉強するという体制がいまだにできていないということが、僕は本当に残念でなりません。

チョン:日本における学芸員、キュレーターがつくり出してきたものはすばらしいと思います。戦後日本美術史の知的な構築を日本の大学は果たせていないかもしれないですが、美術館が大きな役割を果たしています。

鈴木:偶然にも、ニューヨークと東京と埼玉の3つの近代美術館で同時期に開催された展覧会を題材に議論したことで、日米双方における戦後の日本美術史をめぐる状況の変化と新たな動きを、いくつかの問題提起も含めて示すことができたのではないかと思っています。チョンさん、リッターさん、前山さん、林さん、ありがとうございました。



(編集:島貫泰介、シンポジウム撮影:相川健一)



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