国際日本文化研究センター元教授 上垣外 憲一さん寄稿
「李御寧先生の思い出」

2022.5.27

日韓両国の文化に対する深い理解をもとに、鋭い視点で著した日本人論『「縮み」思考の日本人』が日本でもベストセラーとなる等、韓国を代表する学者・評論家として知られる李御寧(이어령、イー・オリョン)氏が、2022年2月、逝去されました。
日韓の相互理解の促進に大きく寄与された李氏と、長年にわたり親交のあった国際日本文化研究センター元教授、上垣外憲一さんより追悼のメッセージをお寄せいただきました。上垣外さんは、1996年に李御寧氏が国際交流基金賞を受賞された後、『国際交流』誌上にて李氏と対談されています。

kamigaito_01_238.jpg 李御寧先生 Ⓒ寧仁文学館

李御寧先生の思い出

上垣外 憲一

李御寧先生の訃報に接し、令夫人はじめご家族、親族の方々に謹んでお悔やみの言葉を申し上げます。
公人としての李御寧先生の業績については、様々な方が述べられると思いますが、私は個人的に40年にも上るお付き合いをさせていただいたものとして、私個人の見方を述べさせていただきたいと思います。特に海外の人間で、李御寧先生について語ることのできる人はあまり多くないのではないかと思い、また、李御寧先生のお国、韓国と今、いろいろ難しい関係にある日本に住む一人の人間として、追悼の言葉を述べさせていただきます。(私は、イー・オリョン先生をいつも韓国語音で呼ばせていただいていたのですが、日本語の追悼文ですと、漢字の方が、ふさわしいように思われ、使わせていただきます。韓国でも、葬儀の際は、漢字が今なお多く用いられているようですので、お許しいただきたいと思います。李御寧のお名前の音は、韓国式に이어령とお読みください。)

今日の韓国社会、国際社会の有力な一員として存在感のある国、韓国を築いたのは、もちろん韓国国民一人一人の努力の賜物であります。しかし、また優れたリーダーなくしては、今日の韓国があり得ないことも、確かでありましょう。個人の独断で名前を挙げさせていただければ、大統領としての朴正熙(パク・チョンヒ)、ならびに金大中(キム・デジュン)のお二人、世界的企業のサムスンを築いた李健熙(イ・ゴンヒ)、そうして文化界の李御寧先生の名前を挙げたいと思います。
李御寧先生は、韓国初代文化部長官(文化大臣)に就任されました。当時の盧泰愚(ノ・テウ)大統領による任命でありますが、李御寧先生は固辞されていたのだそうです。ところが、大統領側の画策で、就任を受諾したというニュースが新聞等に大々的に流されたので、どうしようもなくなって受けた、とご本人はおっしゃっていました。真相は、これから段々明らかになってくるかと思いますが、私は李御寧先生のような独立独歩の人を文化大臣に任命することは反対も多かったろうに、李御寧さんを無理やり説得して文化大臣に任命するのは、盧泰愚さんという、軍政から民主化へという韓国の転換期における一人の軍人政治家を語る、評価するうえで、重要なポイントではないかと思っています。

韓国の文化部の前身は、文化公報部という名前でした。公報は政府の宣伝ということでありまして、特に軍事政権のもとでは、政府の宣伝機関というイメージが強かったのです。私が1984年にソウル大の韓国文化研究所研究員としてソウルに1年住んだ時には、『今、ピョンヤンでは』という連続ドラマがKBSで放送されていましたが、北朝鮮の「金王朝」の内幕もので、主役は当時の金正日(キム・ジョンイル)書記(のちに総書記)で、演じた俳優が似ているというので評判でした。私は、政府宣伝ドラマであるけれども、情報源は韓国の情報機関であるので相当な真実が含まれているはず、勉強になるなあ、と思って毎週見ていました。
そういうわけで、文化部というのは、政府の宣伝機関であるということで評判の悪かった文化公報部の「公報」の字を外して、純然たる文化部にします、というのが盧泰愚さんの意図だったし、当時梨花女子大の教授、名門ではあるけれども、私立大学の一教授(とは言っても、国民的な人気を誇る評論の第一人者でしたが)に、その初代長官になってもらうということは、大きなメッセージになると考えて、盧泰愚さんは李御寧さんに就任を懇請したのだと思います。

李御寧先生は、実は文化大臣になった時、私が勤めていた国際日本文化研究センター(日文研)の客員教授(正式名称は来訪研究員)として、京都に来て(住んで)いらしたのです。1年任期ですが、しっかり日本人教授よりいい給料が出て、その上、その当時は、授業とかなんの義務もなかった。そういう点で、海外で自由を満喫できる、いいポストでした。しかし、その年の12月だったか、息子さんの結婚式とかでソウルに里帰りしている時に、盧泰愚大統領に口説かれて、来訪研究員の残りの任期をキャンセルして、韓国の文化大臣になってしまった。
日文研としては大変困ることでしたが、しかし、一介の大学教授から、大臣になられる、出世ということで、ま、おめでたいことでした。当時、初代所長の梅原猛先生は、すでに李御寧先生とお友達の間柄でしたし、自らいち早く訪韓し、日韓関係改善に大きな功績を挙げた中曽根康弘元首相とも梅原猛日文研所長は、朋友の間柄でした。ともかく日韓関係も大変良好であった頃ですから、大して問題にもならず、韓国文化大臣に栄転されたわけです。

さて、その後まもなく盧泰愚大統領が日本を訪問して、日本の国会で演説をしました。その中で、過去の日韓関係には不幸な時期もありましたが、日韓が友好的な時代には、雨森芳洲あめのもりほうしゅうのような、日韓友好のために努力した人がいました、と対馬藩の儒者だった雨森芳洲の名前を挙げて、過去の友好の記憶に触れたのです。今ではそれなりに名前を知られている雨森芳洲ですが、その当時、雨森芳洲の名前を知っている日本人は非常に少なかった。その時の国会議員で、確実に雨森芳洲の名前を知っていたのは、武村正義さん(のちに新党さきがけ代表)、あとは数えるほどでしょう。武村さんは滋賀県知事をしていたので、雨森芳洲の出身地、滋賀県高月町(現・長浜市)に芳洲記念館=芳洲書院を作っていたので、知らないはずはない、が、500を超える日本の国会議員で雨森芳洲の名前を知っていた議員が何人いたか。

ところで、私は盧泰愚大統領訪日の前の年に、中公新書で『雨森芳洲―元禄享保の国際人』を出版していました。それで、盧泰愚大統領の国会演説を聞いた中央公論社(当時)の社長が喜んで、私の『雨森芳洲』を倍に増刷するように命令した、とあとで、中央公論の人から聞きました。当時、中公新書の初版は1万2000部だったかで、倍刷れば2万4000、結局3万5000程売れて、私はこの本でサントリー学芸賞を受賞(賞金100万円)していたので、『雨森芳洲』のおかげで400万円ほどの収入を得ました。
私は、李御寧先生が日文研の客員教授として京都に住んでいらしたので、この『雨森芳洲』を差し上げていました。李御寧先生はちゃんと読まれていて、盧泰愚さんが日本に行く時に、雨森芳洲のことを自分が盧泰愚大統領に話した、と私におっしゃっていました。在日韓国人の学者なら、当時でも雨森芳洲を知っている人は当然いたので、どなただったか私に、自分が盧泰愚さんに、芳洲のことを話しましたとおっしゃった方がいました。だから、盧泰愚さんの芳洲情報のソースは一つではないかもしれないけれども、やはり李御寧先生が盧泰愚さんに言ったのが一番効いた、と私は思っています。なんといっても盧泰愚さんの閣僚であり、おそらく日本関係のことについては一番アドバイスできる人だったから。
私が李御寧先生と知り合ったのは、この盧泰愚大統領の日本訪問(1990年)のはるか前のことです。それは、1981年の秋だったと思います。私の大学院時代の同窓生、友人である大澤吉博君(後に東大教授、故人)の家での宴会でした。その時、今、こんな本を書いているんですよ、と私に話したのが、翌年、学生社から出版されてベストセラーになった『「縮み」志向の日本人』でした。既に、韓国文化論である『恨の文化論』を学生社で翻訳出版していた李御寧先生は、東京大の比較文学大学院の客員研究員として東京に1年住まわれた間に、旧知の学生社・鶴岡阷巳社長といろいろ話をして、こんどは『「縮み」志向の日本人』を日本語で書き下ろしてベストセラーとなったのでした。

kamigaito_02_238.jpg 『「縮み」志向の日本人』初版本(学生社提供)

鶴岡さんについては、李御寧先生は、私が日本に住んでいる間にいろいろなところを案内してくれて、私の知らなかった日本のことをいろいろと教えてもらったとお話しするのを、何回か伺いました。小さな出版社であったが、古代史関係など、優れた本を続けて出していた学生社の鶴岡社長、この方も故人となったが、李御寧先生のことを語る上では忘れられない方です。

さて、李御寧先生が何故東京大の客員研究員となられたのか。李御寧先生は比較文学の分野で、韓国の先達の一人でありました。評論家としての著作が圧倒的なので、このことを知らない人は韓国でも多いけれども、李御寧先生が亡くなられてから、韓国比較文学会の名前で、追悼の文章がメールで回ってきていました。李先生は、韓国比較文学会の創立者の一人だったのです。私も東京大学比較文学大学院(当時)の出身で、李御寧先生は、その客員研究員として東京にいらしていたわけです。それで、2010年の、国際比較文学会ソウル大会の基調講演は、李御寧先生が務められました。1000人を超える世界の比較文学を専門とする学者が集まる国際大会で基調講演をするのは、その国を代表する文学者、学者が選ばれます。例えば、日本で国際比較文学会の世界大会が開かれるなら、招待講演(基調講演)を、村上春樹が引き受けるようなものなのです。
世界大会の基調講演はそれほど名誉なものなのですが、李御寧先生の数々の業績の中では小さなものでしかありません。しかし、李御寧先生の日本との深い縁は、この比較文学という専門を抜きにしては語れません。

李御寧先生が東京に1年住まれた1981年から82年という頃は、日本はバブルの時期を前にした、高度経済成長の円熟期とも言うべき時代でした。私が在籍した東京大の比較文化大学院には、世界中から学生、研究者が集まってきていました。日本が世界から最も注目されていた時期だったのです。何故かというと、国史や国文の大学院は外国人に閉鎖的であると思われていたし、学位もなかなか外国人には出さないと思われていたからです。当時の同院を代表する学者は、芳賀徹先生と平川祐弘先生でしたが、お二人とも比較文学の発祥の地であるフランス、パリ大に長く留学された方であるし、ともかく広く海外に開かれた雰囲気が横溢おういつ していました。ことに韓国からの学生は、比較文学の大学院には多かったのです。東京大の中で同院は、異色を放つほど韓国に対して友好的でした。それはいろいろな理由がありますが、韓国、ソウル大学の日本語のできる先生方が客員研究員などの形でいらしていたことも、理由の一つに挙げられると思います。
例えば、ソウル大の韓国文学専門の金恩典(キム・ウンジョン)先生は、アメリカ、ハーバード大のイェンチェン奨学金をもらってアメリカに行くこともできたのに、東京大学に客員研究員としていらしていました。ソウル大のフランス文学の専門家であった鄭明煥(チョン・ミョンファン)先生は、比較文学の大学院の学生に対して、うますぎるぐらいうまい日本語で見事な講演をして、司会をした芳賀徹先生をうならせていました。
また、ソウル大学校の韓国文学の重鎮であった鄭漢模(チョン・ハンモ)先生も、客員研究員として同院にいらしていた。この方は、のちに文化公報部の長官をされました。ともかく、ソウル大の有名教授といえば韓国を代表する学者であって、大臣になることも珍しくなかった。そういう人々が東京大の比較文学大学院には来ていたのです。そうした韓国からのお客さんの中でも、李御寧先生は、ひときわ目立っていました。その独創的な話術にすっかり感心された芳賀徹先生は、自身がその重要メンバーであった日本文化会議に李御寧先生を連れて行きました。黒川紀章氏が主宰して、梅原猛先生など、日本を代表する論客のそろった文化会議の席上で、まるで日本では名前を知られていなかった李御寧先生は、(日本語で)喋りまくって、話題を独占して、それが李御寧先生が日本で有名になったきっかけだった、とあとで芳賀先生はことあるごとにお話しされていました。

ともかく、敗戦国としてみすぼらしかった日本が、その経済成長によって世界中の注目を集めていた時期に、李御寧先生は日本にやってこられた。小学校で学んだ日本語だけれども、ちょっとなまりのきつい日本語であったけれども、ともかく物凄い語彙力と、卓抜な機智あふれる話術で、そうして構造主義の理論でもって見事に日本文化を分析して見せた『「縮み」志向の日本人』によって、李御寧先生は日本の読者層ですっかり有名人になりました。 世界が日本を知りたいと思って、日本研究がブームになった、その一つの中心が、東京大学比較文学比較文化の大学院だったのです。外国人による日本論の名著はいくらもあるけれども、アジアからということになると数は少ない。明治時代の黄遵憲の『日本雑事詩』、『日本国志』以来、100年を経て、かつて日本が植民地支配をした国で、その植民地の日本語教育を受けた李御寧が、日本語で、最新の文化学理論を駆使して描いたのが『「縮み」志向の日本人』であったのです。

世界の日本研究ブームを受けて創設されたのが、私もその創設に参加した日文研でした。先の『「縮み」志向の日本人』で李御寧先生が用いた構造主義の元祖、レヴィ=ストロースを日文研の最初の国際シンポジウムの基調講演に招いたのだが、その招請には、所長の梅原猛先生に言われて、私が手紙を書いて、来日を取りまとめました。レヴィ=ストロースが京都で日本文化について素晴らしい講演をしたことを、文化大臣をしている李御寧先生に話をしたら、日本は得をしたんだ、韓国にレヴィ=ストロースを呼んだ時は、講演は一切しないという約束で、自分の著作に入れる材料を集めるだけしていった、と話されていました。
もちろん、外国人の書いた日本論の代表である『「縮み」志向の日本人』の著者を、日文研がお招きしないはずはない。所長の梅原猛先生とは日本文化会議で知り合って、すっかり意気投合した仲でもある。来訪研究員として日文研にいらしていた間に盧泰愚政権の文化大臣になったお話は、すでに書きました。

ソウルオリンピック(1988年)の時は、文化関係の総責任者の立場にあって、大活躍をされました。特に、開会式の演出の多くは、李御寧先生の独創あふれる頭脳から生まれたものが多いと承知しています。開会式の終わり近く、少年がただ一人、輪回しをするという演出について、子どもが一人でというところに意味があるんだとお話しされていました。マスゲーム的な演出が多い開会式で、ただ一人の子どもを主役にする。李御寧先生でなければ、できない演出でした。

kamigaito_03.jpg ソウルオリンピックでパフォーマンスをする少年(手前)ⒸYonhapNews

それから、開会式の白眉とも言える五輪カラーのパラシュート集団の降下については、こんなことをおっしゃっていました。何回も練習をして、さあ、これで大丈夫となった開会を間近に控えた時に、「あっ、開会式の日、雨が降ったらどうしよう」という話がでた。雨では、パラシュートが台無しだ。議論の末の結論は、「エイッ、もう考えるのはやめよう。雨が降ったら、韓国が滅びる日だ」。で、決行して大成功。上り坂の国はリスクを恐れない。李御寧先生も。
また、オリンピックの前に、李御寧先生は、「(体の)オリンピックの前に、頭のオリンピックをやるんだ」というので、世界中から学者を呼んで会議を主催された。日本からは、日文研所長の梅原猛先生を呼びたいという。私も通訳として梅原先生のお供をして、ソウルの会議に参加した。

kamigaito_04.jpg ソウルオリンピックで無事成功したパラシュート降下 ⒸYonhapNews

まことに個人的なことではありますが、次のようなことも、私は忘れられません。李御寧先生が文化部長官に在任中のころ、私はソウルで国際シンポジウムがあって、ソウルに行った時がありました。ところが、家内が前から目を悪くしていたのが急に悪化して、手術をしなければならなくなったという。電話の向こうで目が見えないと言って、泣いている。明日にでも飛んで帰らなければいけない。ところが折悪しく、当時、日本から韓国に飛んでいたノースウエスト航空が、ストライキで止まってしまった。ノースウエストであぶれたお客が、他の便に殺到した。
韓国からの日本便はすべて満席、キャンセル待ちが百何十人だという。その時思い出したのが、李御寧先生が、文化部では、韓国のエアラインにいつも席を確保しているので、何かあったら言ってください、という言葉だった。藁にも縋る思いというのか、李御寧先生に電話を入れて事情を話したところ、即対応してくれて、私は次の日、日本に帰ることができた。小さなことではあるし、李御寧先生はそんなこととうに忘れてしまっているだろう。しかし、私には忘れられない思い出です。
恐らく、大なり小なり李御寧先生にそうした恩を受けた人は韓国にも多いだろうし、日本にだって少なからずいるかと思います。私の知っている例では、凸版印刷の印刷博物館の人たちは、その創設の時、韓国は金属活字や高麗版大蔵経など、世界に冠たる印刷文化の国であり、展示に韓国の部分は必須であるというので、随分お世話になったということで、李御寧先生が日本にいらっしゃると、印刷博物館の人たちは、いつもおもてなしの会を開いていました。文化交流の実践として素晴らしい事例だと私は思います。あれだけ膨大な著作をしながら、こうした文化交流への手助けを一つ一つこなしていたことに、改めて尊敬の念を覚える次第であります。

私が、盧泰愚大統領の雨森芳洲国会発言で、私は300万円ほど印税を儲けました、と李御寧先生にお話ししたら、「そうか、実は今ソウルに芸術の殿堂というのを作っているんだが、それに寄付金を募っている。いくらかでも寄付してくれれば、その人の名前を殿堂の壁の煉瓦に刻んで残すことにしているんだが」、というお話。「ああ、いいですよ」という返事をしてから、もう30年か――。約束を忘れたわけではないけれども、寄付を実現しないでいて申し訳ありません。何かの形でお返ししなければ。広い意味で韓国にお返しすればいいでしょう? 李御寧先生?

その芸術の殿堂について、一つ。李御寧先生はこう言っていました。芸術の殿堂は、コンサートホールであるけれども、付属の芸術学校も作る。そこに入れるのは、何かの専門について卓越していること。例えばバイオリンの演奏なら、バイオリンが優れていれば、あとは一切、問わない。数学の成績が悪かろうが、なんでもいい。この学校から果たして世界のコンクールに入賞する人たちが輩出した。こういう学校の存在が、韓国の文化界、教育界の大きな刺激になったと言ってもいい。李御寧先生が文化部長官をしてから、韓国人の音楽家やバレエダンサーが世界のコンクールでどんどん入賞、優勝するようになっていったのは事実です。これは韓国全体の文化のレベルが向上した結果であって、李御寧先生一人のおかげではないとは思うけれども、李御寧先生の韓国の文化発展への貢献は、決して忘れられてはならないと思います。

韓国は偉大な文化人を失いました。不世出の方でした。改めて、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

kamigaito_p.jpg

上垣外 憲一(かみがいと けんいち)1948年、長野県松本市生まれ。1977年、東京大学人文科学大学院 比較文学比較文化課程修了。東洋大学文学部講師、助教授、国際日本文化研究センター助教授、教授、東京大学学術博士。専攻:比較文化、日韓文化交流史。帝塚山学院大学教授、大手前大学教授、大妻女子大学教授を歴任。1990年、『雨森芳洲――元禄享保の国際人』により、サントリー学芸賞(社会・風俗部門)を受賞。
主な著書に『雨森芳洲――元禄享保の国際人』、『富士山――聖と美の山』、『勝海舟と幕末外交――イギリス・ロシアの脅威に抗して』(以上、中公新書)、『古代日本 謎の四世紀』(学生社)、『鎖国前夜ラプソディ 惺窩と家康の「日本の大航海時代」』(講談社選書メチエ)などがある。

李御寧(イー・オリョン)
1934年、韓国・忠清南道生まれ。ソウル大学、梨花女子大学で教鞭をとる傍ら、『韓国日報』『朝鮮日報』等の論説委員、文芸誌『文学思想』主幹等を務めた。1981~82年、国際交流基金(JF)の招へいで来日、東京大学大学院の客員研究員となる。89年日文研客員教授。90~91年、韓国の初代文化部長官。96年国際交流基金賞受賞。


2022年4月寄稿

Page top▲