雑誌『をちこち(遠近)』
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ドイツから見たフクシマ ドイツの危機報道についての考察

ベルリン自由大学 知的コミュニケーション/科学ジャーナリズム

アレクサンダー・ゲルケ


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 危機、紛争、大惨事は、自然現象ではない。これらのできごとは、社会全体がメディア化されている条件下では、全面的な構築プロセスの結果と見ることができる。「危機」という用語は、一連の異なる出来事の総称として用いられ、観察者の認知の仕方による面が大きい。それにもかかわらず、危機と言われるものには、一定の特徴もある。危機とは、まず予期しなかった脅威であり、これが個々の価値観ばかりでなく、システムそのもののあり方、さらには現状が永続するという危機感にいたるまで、切迫した状況のなかで様々に問い直すことである。さらに、危機をもたらすできごとは、特にアクチュアリティーが高いという特徴があり、こうしたできごとは、情報価値が高いばかりか、社会的に大きな重要性を持つものとされる。この社会的な構築プロセスのなかで、ジャーナリズム(いわゆるマスメディア)は決定的な役割を演じる。なぜなら、一般の人々は、自分自身が直接に事実に基づく見解をもっていないため、福島原発事故の危機のように、自分が知っている、あるいは知っていると思い込んでいることを、マスメディアを通じて知るのが普通だからだ。したがって、ニュースメディアの行動とその能力が問われるのは、いわば当然のことである。メディアによる危機報道が、事実に即し冷静でバランスの取れたものであれば、救援活動を効率的に展開し、二次災害を防止し、将来の危機発生の防止に寄与することができよう。しかし他方では、あまりに遠慮がちな、事態を軽視し人々を安堵させることを目指す報道であれば、状況を的確に把握し迫り来る危険に備えるための警告を求める人々の関心と相容れない。そう考えるなら、メディアがあまりに批判的な危機報道を行なえば、視聴者を不安に陥れ、パニックをあおり、場合によっては視聴者を鬱々とした気分にさせ、無気力状態に陥れる可能性もある。こうした広範囲に及ぶかなり長期的な影響を科学的に実証することは、ほぼ不可能に近い。それでも、危機的状況にあっては、視聴者が短期間にメディアの使い方を変えて、自分の必要に合わせていく現象が明らかに観察される。また、視聴者側のこうしたメディア利用の変化と、メディア側の報道の変化の間には、相互作用があることも明らかだ。


危機的状況下でのメディア利用の変化と視聴者の期待
 危機的状況のなかでは、人々はいつもよりテレビを見たり、普段よりもラジオを聞いたり、新聞やインターネット上のニュースを読んだりする。それも、メディアを利用する時間が長くなるだけでなく、質的にもメディア利用がインテンシブになるという特徴がある。つまり、メディアが全体的により注意深く利用され、ラジオやテレビのニュースを何となく見聞きする場合にも、重要なできごとを絶えずチェックする。視聴者は、重要なことすべてを、できるだけ早く知りたがる。そして、平常時のメディア利用とは対照的に、利用の際の優先順位も変化し、娯楽よりも情報が優先される。これは、とりわけ情報検索や、いわゆるプライミング、フレーミングに現れる。実際に、福島をめぐる危機にあっては、日本人視聴者が外国メディアのオンラインニュース(たとえばBild.de)も利用するケースが増えた。危機的状況においては、危機とその原因・結果についてのメディアの報道は、視聴者の決断と判断に及ぼす平時よりも大きな影響を及ぼす(=プライミング)。くわえて、危機とは関わりのない情報も、危機との関わりでとらえられるようになる(=フレーミング)。プライミング、フレーミングともに、視聴者ひとりひとりが情報を「自分に直接関わること」ととらえる可能性(=インヴォルヴメント)を高める。また、これによって、メディア情報の消化という点でも変化が生じる。これらの観点には、以下で再び言及する。

 しかし、メディア利用の変化は、インテンシブな利用や、現在および過去のできごとの認識面にかぎらず、情報を消化する感情のあり方にも影響を及ぼす。思考ばかりでなく感情も、危機的状況に独特のモードに入るのだ。危機的状況でメディアが人々の感情面に及ぼす影響は、ふたつの点で変化する。ひとつは、視聴者を興奮させる情報がより多く提供されるということで、被災地からの映像がその典型だ。もうひとつは、ほとんどの場合、マイナスの感情がかき立てられるという点で、視聴者が感じる興奮は、脅威、被害、暴力行為、あるいは死と関連づけられる。こうして、視聴者の側には、おもに悲しみ、不安、怒りといったマイナスの感情が生じる。しかし同時に、同情、共感、感嘆といった感情も生まれる(シュテルン誌が『誇り、規律、忍耐、無私。信じられない民族。文化と災害と日本人のメンタリティー』というタイトルを選んだのも偶然ではない)。


メディアによる危機報道
 ジャーナリストが危機的状況に注目するのは、なによりも危機的状況には、非常に多くのニュースファクターが存在するからだ。あるできごとが重大な危機と位置づけられるか(あるいは注目をほとんど浴びずに終わるか)は、次のような要素によって決まる。すなわち、量的要素(犠牲者数、被害規模)、被害の範囲(国全体の被害か、国民の一部の被害か)、できごとに「顔」が見えるか(決断主体、犠牲者、責任者)、「重要な」国が関わっているか(「西側先進国」対「第三世界」)、現行法(環境・安全・建設関連法規)や倫理的価値観(「知る権利」)にどこまで反しているか、できごとの映像化の程度、意外性の程度、宗教的・政治的・文化的・経済的な距離ないし近さ、などである。ニュースを取捨選択し構築するためのこうした決まった道筋は、福島のケースのように、ジャーナリスト自身が確実な知識をもたず、確証が取れる情報を手に入れることができず、政治・経済・学術界の関係者や一般人と同様に「無知」という状況のなかで方向を見極める場合には、きわめて有効となる。

 こうした状況を背景に考えれば、ドイツのメディアが福島の事故を報道する理由となるファクターは数多くある。ドイツと日本には歴史的な共通点があり(第二次世界大戦)、ともに世界をリードする先進工業国へと発展を遂げ、ともに奇跡的な経済的繁栄を遂げ、原子力の軍事利用を否定してきた。両国にとって重要なこうした共通の価値観を考えると、ドイツと日本は(時間的・空間的な差はあっても)、お互いに模範となる役割を演じていると言えよう。しかし、両国の違いは、例えば原子力の平和利用に関する認識にある。日本とは異なり、ドイツには、1970年代にまでさかのぼる長い反核運動の歴史があり、この反核運動は原子力の平和利用も拒絶してきた。また、違いは報道のありかたにも現れている。福島の事故に関する日本のメディアは、「情報伝達に徹する」ことを厳密に(あるいは「誇張して」)貫いていた。これに対し、ドイツにおける報道は、情報伝達にくわえ、伝統的にかなり強い批判的・調査的な姿勢をとった。このため両国間には、どの情報を、いつの時点で視聴者に伝えるかという点についても違いがあった。例えばドイツでは、専門家の見解に基づき、すでに3月の段階で原発で炉心溶融が起きている可能性が高いと視聴者に伝えられていた。しかし、日本のメディアがこれを報道したのは、5月初めになってからのことだった。

 ドイツの報道において、比較的早い段階で福島の事故の責任を問う声が上がったのは、やはりドイツのジャーナリズムの調査的な伝統によるものであったと言えよう。この意味で、ドイツのメディアは日本のメディアよりも早く、そしてより批判的に、福島の事故を社会に原因を持つ危機ととらえて報道する傾向があった。これが正しければ、この危機は偶発的・単発的な危機ではなく、複数システムが関連する危機ということになる。福島の事故のような複数のシステムがからむ危機は、個々の町や地方の存続を危機にさらす。これは、同時に経済システムの危機と考えられ(経済成長の停滞、原子炉安全性確保への投資のストップ)、国のシステムとしての政治的な危機管理体制に疑問を呈し(政府・原子力監視機関の機能不全)、被害者である市民の側の要求に焦点を当て(地震多発地帯に原子力発電所があるという危険にもかかわらず、原発によるエネルギーの安定供給)、最終的には、こうした問題をずっと一般社会に隠してきた原発の運営事業者、政治家、ジャーナリストの間にあった暗黙の了解に(批判的な)光をあてることになる。


危機報道の段階と枠組
 ジャーナリズムは、社会と歩調を合わせる役割をもち、瞬間的にであっても、社会がその社会自体を振り返ってみる機会を与える。ジャーナリズムは社会の部分領域(経済、科学、政治、宗教など)を外側から観察することによって、これらに意外な新しい見方、これに基づく創造的な視点を提供し、それを行動に反映させるよう求める。この意味で、ジャーナリズムは国際社会にとってメトロノームのような役割を果たしている。しかし、ジャーナリストによる危機報道は、プラスマイナスの両面を持つ諸刃の剣である。場合によっては惨憺たる結果をもたらす可能性もあり、これが問題になることもあるが、問題にするのは、まさにジャーナリズムをおいて他にない。例えば、ジャーナリズムの基準に沿って、経済的危機あるいは政治的危機が広く一般社会のなかで取り上げられ、政治家や企業経営者が責任を負う立場の人間として制裁を受けることになれば、彼らは冷静ではいられない。また、福島の事故のような大惨事が、ジャーナリズムの危機報道を通じて複数のシステムの関わる社会的な危機と報じれば、追及される政治家、官僚、企業経営者は不適切な報道だと感じるだろう。これにより、全体的に見れば社会の部分的な各領域、社会の方向を決める主体と彼らの利害関心は、新たな挑戦課題に適切に対応を迫られ、それを不必要とする場合には少なくとも理由を説明しなければならなくなる。どちらにしても、一般社会はそこから自身の結論を導き出すことができる。別の言い方をすれば、危機に直面したそれぞれの社会がどのように危機に対処するかによって、その社会がどのように学習するか、あるいは学習をしないかが見て取れる。ただし、学習はときに痛みを伴うプロセスであることも忘れてはならない。

 さらに、様々なできごと(ハリケーン・カトリーナ、インド洋大津波、福島の原発事故)を検討すると、メディアによる危機報道は、しばしば一定のパターンに従っていることが分かる。このパターンには合計で5段階(独占、優勢、平常化、周縁化、再注目)がある。「独占」段階に見られる特徴は、生中継、外部の専門家の登場、24時間報道である。「優勢」段階では、次第に他のテーマも取り上げられるようになり、危機報道にあてられる放送時間は明らかに短くなる。しかし、この段階でも、危機的状況の背景にも光があてられる。これは、視聴者の側に事実を知るだけでなく、その事実の背後にあるものも知りたいという欲求があるためだ。「平常化」と「周縁化」は、いわば(メディアにとっては)非常事態が終わり、通常の報道態勢に戻ることを示す。その後、危機的状況と見られる新たな観点が現れたり、あるいは時間がある程度経過(「あれから1年」といった節目)したりすると、危機が再びアクチュアルなものとして注目を浴び、改めて議論・考察されることがある(「再注目」の段階)。このように見てくると、視聴者側に見られる危機的状況に特有のメディア利用のパターンと、メディア側に見られる危機的状況に特有の報道パターンは、相互に影響しあっていることがわかる。

 しかしながら、メディアによる危機報道のありかたは、ジャーナリズムが職業的に行う報道、あるいは危機的状況に特有の報道パターン、視聴者側の期待とメディアの利用パターンといった要素のみによって決まるわけではない。危機の発生以前から行なわれていた報道、またジャーナリズムが置かれている枠組が国によって異なることも関係してくる。こうした「文脈」による条件としては、技術的・経済的・文化的・政治的なもの、あるいは状況に左右されるものがある。したがって、例えばドイツにおける福島の原発事故に関する報道は、ジャーナリズムに内在する要素にとどまらず、ジャーナリズムの外部にある要素も見なければ理解できない。すなわち、ドイツのメディアによる福島の原発事故の報道は、過去40年近くドイツの国内政策、環境政策が、原子力の平和利用をめぐる議論に多かれ少なかれ影響を受けてきたという事情と切り離しては考えられない。現在のドイツにおける福島の事故をめぐる危機報道は、この文脈のなかにある。さらなる(政治的な)枠組としては、現政権が昨年の秋にドイツ国内の原発の稼働期間を延長するという決定を下したことが挙げられる。この決定は、西側先進国における原子炉安全性はとりわけ高いということを根拠にしていた。このことを背景に、福島の事故に関する報道は、メディアの視点からすると政府の「政治的」な大失策とされ、野党と国民の幅広い層の激しい反対を押し切って連邦議会を通過させた決定を、政府はわずか半年で修正せざるを得なくなった。さらに、ドイツにおける福島報道は、迫りくる国内の州議会選挙にも影響を受けた。「シュピーゲル」誌が日本で起きた原発事故を取り上げて表紙に「原子力時代の終わり」と書いた第一の理由は、日本の状況でもなければ、世界レベルでの原子力の未来を考慮したためでもなく、なによりもドイツにおける状況だったのだ。まとめて言うなら、日独の危機報道には共通点もあるが(情報提供としての危機報道、報道がたどる各段階)、むしろ福島の事故に関する報道のあり方に相違があったことも指摘できる。これらの違いは、視聴者のメディアに求める期待が異なることも含めジャーナリズムに内在する枠組みによるものでもあれば、また危機的状況の内外で仕事をするジャーナリストがそれぞれの国で置かれている枠組、すなわちジャーナリズムに外在する性格のものでもある。

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日独シンポジウム 「東日本大震災と新旧メディアの役割 ~日独における地震報道に関する比較の視座」の様子

■2011年7月7日に行われたシンポジウム 「東日本大震災と新旧メディアの役割 ~日独における地震報道に関する比較の視座」 の報告書

■「東日本大震災と新旧メディアの役割 ~日独における地震報道に関する比較の視座」の動画

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ベルリン自由大学教授。専門分野は、知的コミュニケーション/科学ジャーナリズムに重点を置くジャーナリズム・コミュニケーション研究。ミュンスター大学で学び、「リスクジャーナリズムとリスク社会」で博士号習得。イルメナウ工科大学、イエナ大学、ジーゲン大学、ミュンスター大学を経て現職 連絡先:Alexander.Goerke@fu-berlin.de



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