物語を伝える―災厄を越えて―<3>
芸術人類学者、秋田公立美術大学大学院准教授 石倉 敏明さん寄稿
「再創造される物語――『イシの物語』から『宇宙の卵』へ」(前編)

2021.7.26
【特集074】

特集「物語を伝える―災厄を越えて―」(特集概要はこちら
何世代にもわたり語り継がれる神話や歴史。過去の物語はいかに語られ、時代や地域を超える物語へと更新されていくのでしょうか。そして、自身が世界の神話のリサーチをもとに「第58回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展」日本館展示で再創造した「Cosmo-Eggs | 宇宙の卵」神話に込めた思いとは? 前後編でお送りします。

再創造される物語――「イシの物語」から「宇宙の卵」へ(前編)

石倉 敏明

1. 「語ることの困難」を超えて

ある出来事を誰かに語ることは、簡単そうに見えて、実は難しい。
たとえば重大な危機にひんしているときや、身の周りに災害や事件が起こったとき、私たちは説明することをためらい、文字通り言葉を失う。受け止めきれなくなった現実は、個々の身体と感情に深く沈潜し、無意識的な記憶として留まる。凄惨な戦争や不慮の事故、地震・津波などの災害に遭った人が、自身の出逢った体験を言い澱み、語ることができないといった例も、決して珍しいことではない。

内的な体験を語ることも、しばしば困難な状況に阻まれる。私たちは、自らの誕生や死といった最大の出来事すら、適切な仕方で語ることができない。私たちの所有する言葉は、自身の誕生を語るにはあまりにも遅すぎ、死を語るには早すぎる。言葉は生や死といった決定的な出来事には、決して追いつくことがない。
それでもなお、私たちは誕生を想起し、死を語ろうとする。言語化できない次元を探り、イメージや記号に置き換え、それを他者と交換する。私たちは痛みや喜びを抱えつつ、物語を生き、それを表現することをやめない。

ところで、神話や歴史といった物語の形式は、ある社会のメンバーが共有するもっとも重要な認識のリソースとして活用されている。物語を語り合うことは互いに注視し、聞き取ることであり、言葉以前の生の物語を共有することでもある。語ること、語り合うことが決して簡単なことではないからこそ、私たちは物語を尊重し、互いの声に耳を傾けようとするのかもしれない。

共通の祖先や英雄たちの伝説、世界の創造や破滅についての神話は、いま生きている社会のメンバーにはもはや確かめることのできない架空の次元にある。しかし、未知の領域に開かれたその仮想性そのものが、私たちの現在を過去へ、未来へとつなげてくれる。歴史はこうした神話・伝説よりも記録の実在性にこだわり、その物語は出来事の継起性にしたがって集合的に整理されている。歴史は、過去の出来事の首尾一貫した因果関係とともに、現実への深い洞察を授けてくれる。いずれにせよ、私たちは世界に生起する出来事を、物語の形式にしたがって共有する。

ishikura_001.jpg 《狼の乳を吸うロムルスとレムスの像》カピトリーノ美術館/ローマ

私たちの生に価値を与え、社会的な次元に統合しているのは物語であると言っても過言ではない。
ポール・リクールが『時間と物語』*¹ の中で述べているように、物語は時間の中で生きられた経験を分節し、未知の現実を理解可能なものに変えてゆく。そして、ある物語を聞くことや、そのテキストを読むことは、対象に与えられた意味を受けとり、現実の中で行動する枠組みを得ることにつながる。そして、他者の物語をモデルとして真似つつ、自らもそれを新たな物語として新たに語り直すことにより、私たちは「語り得ないもの」に触れながらも、新たな展望やイメージを創造し、それらを他者と共有する可能性へと導かれる。

2. 災厄を越える物語

インターネット上のさまざまなメディアを通じて数多くの陰謀論やフェイクニュースが拡散する現代は、ある意味では歴史と神話が交錯する時代と言えるかもしれない。現代は、誰もが自分が受け入れやすい物語を聴き、そうでないものに耳を塞ぐ傾向が増大する時代である。そのような時代だからこそ、物語の重要性を見定めることの意義も増しているに違いない。

2011年の東日本大震災では、東北地方に暮らす多くの人々が、簡素な避難所や仮設住宅で眠れない夜を過ごした。被災者の生活には、物騒なノイズが侵入し、眠ることさえ難しいいくつもの夜が到来した。被災地では多くの子どもたちが夢を失い、個々の物語を失った。地震と津波によって破壊された町には、それまで各地域のコミュニティーが育んできた歴史と記憶が座礁し、脆弱な地盤に立つ多数の原子力発電所によって支えられてきた煌びやかな日本の都市の栄光は、粉々に崩れ去った。多くの人びとが立ち上がり、それまでの物語の欠陥を見直して、新たな社会を打ち立てようとした。しかし、その空隙を埋めるように、復興や復旧という掛け声が鳴り響き、ブルドーザーが分厚い壁と道路を被災地に築いて、個々の身体に宿った微細な記憶は瓦礫の山と一緒に、地中に埋め立てられてしまった。

ishikura_002.jpg 破損した神社/福島県浪江町

あれから10年の月日がったいま、日本列島は世界的に蔓延する新たなウイルスによるパンデミックによって、再び大きな災厄に見舞われている。10年前に生じた自然災害は、確かに多くの町を破壊し、膨大な命と夢と富を奪っていった。しかし災害便乗型資本主義と呼ばれるもう一つの災厄が、復興の夢に便乗して被災地を覆い尽くしていったことも忘れられない。被災地を救うためと称して、カジノやスーパーマーケットや新興住宅街を建設しようとする計画が、汚染土の除染や巨大防潮堤の新建設の予算とともに、被災地の社会に到来した。10年の年月を経たものの、大人たちはまた大都市圏を主人公とする御都合主義の物語を打ち立て、オリンピックや万博といった巨大な神輿を担ぎだそうとしている。しかし、金と競争の匂いが染み付いたこれらの夢物語は、それほど簡単に子どもたちの心には届かないだろう。

誰もが物語に飢えていた子ども時代を思い出そう。
子どもたちは物語に登場する主人公になりきり、他者の生の流れに没入する。夜、まだ言葉を覚えたての小さな体を震わせ、眠る前に「お話」をねだる子どもたちは、そうすることで、夢への航海の準備をしている。夢の世界とは、豊穣な波音に満ちた生の潮汐の世界であり、不確かな意味の塊が現れては消えてゆく濃密なヴィジョンの世界である。大人が寝入り端に語る物語は、夢の世界を渡っていくことのできる小舟であり、いつの間にか眠りに誘われた子どもたちは、そのときにはすでに「語り得ないもの」の大波に揺られながら、心の中に広がる夢の世界に漕ぎ出している。

ishikura_003.jpg ザンジバル島の夕陽/タンザニア連合共和国

小さな寝息を立てながら、物語の薄い船底に押し寄せる生と死のリズムに、子どもたちは注意深く耳を傾けている。今夜の航海を、子どもたちは無事に終えることはできるだろうか。夢の世界では、子どもたち自らがその舵を取っていかなければならない。夢の中では、子どもたちが人生で出会うどんな出来事よりも不思議な仕方で、現実が変形され、物事の意味は自己同一性を失って飛躍する。しかし、子どもたちは理不尽な出来事にも立ち止まることなく、その流れに身を任せて、昼間の現実では体験できなかった世界のもう一つの意味を知ることになるのだ。
今、私たちはどんな物語を子どもたちに語って聞かせることができるだろうか。

3. 物語の再創造

アメリカを代表する文化人類学者アルフレッド・クローバーは、自身が被調査者(インフォーマント)から聞いたアメリカ大陸の先住民世界の伝説を、ゆっくりとしたわかりやすい英語に直して、まだ小さな娘に聞かせるのが好きだったという。娘の母親であったシオドーラ・クローバーもまた作家にして人類学者であり、消滅の危機に瀕した最後のカリフォルニア・インディアンの記憶を伝える、優秀な語り手でもあった。
彼らが子どもたちに伝えようとしたのは、白人の迫害と虐殺によって消滅の危機に瀕していた、とてつもない災厄の中で語り継がれた部族の物語だった。これらの神話を研究し、後世に伝えようとした二人の人類学者の間に生まれた娘の名前は、アーシュラ・クローバー・ル=グウィンといい、今日では『ゲド戦記』『闇の左手』などの物語作家として世界的に知られている。

ishikura_004.jpg 海辺の虹/岩手県釜石市

幼少期からさまざまな昔話や神話・伝説に触れ、両親から生きた物語を聞いて育った彼女は、12歳のとき家の書架にあったロード・ダンセイニ(1878-1957。アイルランドの作家)の『夢見る人の物語』という著作に出会ったことが、物語世界という次元を意識する決定的な体験であったと述懐している。神話は、世界の隠された現実を明るみに出し、私たちの生きる時間が単なる断片ではなく、はじまりの時間や終わりの時間と地続きの連続体であることを教えてくれる。ダンセイニとの出会いは、ル=グウィンにとってそうした神話が決して過去のものではなく、いまも大人の世界で作られていることを教える契機となった。「わたしにわかっていなかったのは、おそらく、人々はいまだに神話を作りつづけているということだったのだろう」と彼女は書いている*² 。『夢見る人の物語』との出会いは、少女の心に新たな神話物語の創作という、思いがけない可能性の扉を開いたに違いない。
優れたファンタジーは、子どもの中にいる大人と、大人の中にいる子どもを対話させるのだ。

ル=グウィンに大きな影響を与えたもう一人の作家は、彼女自身の母親である。
成人したル=グウィンが、留学を経て知り合った歴史学者と結婚して母親になった時期は、彼女自身の母親に当たるシオドーラ・クローバーが、物語の継承者として重要な仕事を残した時期に重なっている。

1950年代後半、シオドーラはかつて夫と共に調査を行ったクラマス川やコロンビア川流域の先住民社会の神話・伝説を見直し、それらの発生過程について、独創的な研究を進めていた。たとえば北カリフォルニアに暮らす、言語の異なる8つの民族に伝わる「アビ女」の物語には、ギリシャのオイディプス神話にも引けを取らない近親相姦の悲劇が含まれているのだが、それは母子ではなく兄妹間の姦通によるものだった。シオドーラはこの物語を伝承する諸民族の状況や彼らを取り巻く自然環境を説明し、さらに個人の想像力によって複数のヴァージョンが生み出されていった創造性の秘密を、自らの創作実践を通じて検証している*³ 。シオドーラは自身が慣れ親しんだ先住民の神話をもとに、それを自ら「語り直す」ことによって、既存の伝説の分析だけではなく、新たな伝説のヴァージョンが生み出される際の変形のプロセスを、実験的に示したのである。

シオドーラは1958年に出版された作品集『内陸のくじら』において、カリフォルニア・インディアンの伝説から、特に女性の主人公が登場する9つのトピックを取り上げ、これを再話した。彼女は、例えばヨクーツに伝えられる「男の妻」という物語の特性について、次のように述べている。

物語とは、子どもたちに、孫たちにと、何世代にもわたり語り継がれるものだ。その物語が紡ぎだされるもとの生の素材がある。その素材とは、無意識のうちから立ちのぼるものの具体的な姿であり、ひとつの愛、ひとつの恨み、ひとつの憧れ、ひとつの怖れ、ひとつの問いといったものに他ならず、そういった生の素材が原始的なのは普通のことだろう。そして、物語がよく紡がれ、愛が成就し、恨みが晴らされ、あるいは消えさり、望みがかなえられ、怖れが広く仲間に理解され、問いに答えが与えられるならば、その物語の作り手と語り手、そして聞き手は、ヨクーツであろうがギリシャ人であろうが、あるいは現代のアメリカ人であろうが、原始的ではない段階に生き活動しているのではないだろうか。それは必ずしも洗練された段階ではなくても、すっかり人間らしく、その活動を私は、芸術の初期の様相ととらえる*⁴ 。

ここには「物語の語り直し」によって、民族や言語の差異を超えて個人が別の個人の体験する現実に触れ、ある物語を共有する現象の秘密が生き生きと説かれている。
重要なことは、ここで説明されている「芸術の初期の様相」が、自身の研究対象だけでなく、新たな物語を書くシオドーラの身にも、確かに生じたという事実であるだろう。そして、シオドーラ自身の声で語り継がれたさまざまな物語が、今度は娘のル=グウィンの魂に受け継がれ、新たな芸術領域として創造の息吹を注がれたであろうことは想像に難くない。


  • *¹ ポール・リクール『時間と物語』1・2巻、久米博訳、新曜社、1987年。
  • *² アーシュラ・K. ル=グウィン『夜の言葉 ファンタジー・SF論』山田和子訳、岩波書店、12頁。
  • *³ 中尾ハジメ「訳者あとがき」、シオドーラ・クローバー『内陸のくじら カリフォルニア・インディアンの伝説からの九つの再話』中尾ハジメ訳所収、編集グループSURE、2017年、225~253頁。
  • *⁴ *³と同書、119頁。

再創造される物語――「イシの物語」から「宇宙の卵」へ(後編)に続きます。

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石倉 敏明(いしくら としあき)人類学者・神話学者。1974年、東京生まれ。秋田公立美術大学複合芸術研究科・美術学部准教授。1997年より、ダージリン、シッキム、ネパール、東北日本各地で聖者や女神信仰、「山の神」神話調査をおこなう。環太平洋圏の比較神話学に基づき、論考や書籍を発表する。近年は秋田を拠点に、北東北の文化的ルーツに根ざした芸術表現の可能性を研究する。著書に『Lexicon 現代人類学』(奥野克巳との共著、以文社)、『野生めぐり 列島神話の源流に触れる12の旅』(田附勝との共著、淡交社)など。

2021年7月寄稿
写真はすべて本人提供

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