雑誌『をちこち(遠近)』
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古事記―忘れ去られたアエネイス?~フランスからの提言~

フランソワ・マセ
フランス国立東洋言語文化大学教授



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2012年10月11日に日仏会館(東京)で開催されたフランス国立東洋言語文化大学 フランソワ・マセ教授講演会「古事記―忘れ去られたアエネイス?~フランスからの提言~」

なぜ古代ローマの叙事詩と比較するのか
 まず始めに『古事記』の検証に、なぜ、『アエネイス』(古代ローマの詩人ウェルギリウスの叙事詩)を持ち出すのかという疑問があるかと思います。『古事記』と『アエネイス』の2作品には、あまりにも共通点がなさそうです。
 この比較研究については、フロランス・デュポンの著書『ローマ 起源なき都市』を読んでいて閃きました。デュポンはこの本の中で、ローマの起源について多くの異なる伝承があるにも関わらず、なぜ叙事詩である『アエネイス』が生まれたのかと自問しています。ローマ人は叙事詩以外にもローマの起源を語る方法を持っていたからです。『アエネイス』の著者ウェルギリウス(紀元前70-紀元前19年)と同時代人のリビウス(紀元前59-17年)は、ローマ建国から紀元前9世紀までの142巻にわたる膨大なローマ建国史を残しています。
 私には同時代に文学作品と歴史記述が共存する形態に見覚えがありました。同じ時代に編纂された日本の起源を扱う2つの書物、『古事記』(712年編)と『日本書紀』(720年編)です。両者は為政者の家系を正当化するという目的を共有していましたが、根本的には異なる性質を持っています。
 『日本書紀』は日本の歴史の編年史であり、中国の歴史記述に範を取っています。2巻を除き、28巻は編年体で記述され、重要な出来事は日付とともに記載されています。一方の『古事記』には年代の記載が少なく、一部の天皇の崩御の年代ばかり15程しかありません。仁賢天皇(449-498年 第24代天皇)以降の『古事記』では、歴史的に重要な出来事についてでさえ述べられていません。
 なぜ『古事記』には、歴史上重要な出来事が記述されなかったのでしょうか。私の見解では、それらが重要な出来事と見なされなかったからではなく、おそらくは『古事記』という題名、「古事(ふるごと)」という古代の物語の倫理に合わなかったからでしょう。この問題の答えは、『古事記』の大部分を神話が占めていることに見いだせるかもしれません。日本の神話は神代を扱った第1巻に記されています。しかし、この第1巻は江戸時代より以前には神道の世界でさえ忘れ去られていました。『古事記』の3分の1が神代の記述だというのにも関わらず、古代、中世、江戸時代の大半は『古事記』と同じ様に神代を扱った『日本書紀』の第2巻が参照され、引用されてきました。古代について語りながら、歴史でもなく奈良時代から江戸時代末期にかけて忘れ去られていた古事記とは一体何なのでしょうか。
 様々な状況を合理的に鑑みると、『古事記』にはルーツとなるテキストは存在していません。かといって『古事記』が新しいジャンルを創出したかというと、そうではないのです。『古事記』に続くものもなければ、『古事記』に着想を得た作品も現れず、極東に存在する特異なものとして存在しているのです。まさにそうしたことから、『アエネイス』と比較することにより『古事記』の性質をよりよく把握することができるのではと考えています。日本文学の文脈では『古事記』は突飛なものに思えますが、『アエネイス』のような他文化の文学と比較することで、『古事記』はさほど突飛には見えなくなってくるのです。



『古事記』の文学的価値とは
 『古事記』と『アエネイス』は内戦後、まだその記憶の新しい時期に書かれています。紀元前31年、アクティウムの海戦によりアウグストゥス(紀元前63-14年)がクレオパトラ艦隊に勝利した後、大敵アントニウスが自殺したことによりローマの内戦が終わります。『アエネイス』の執筆計画は紀元前29年から既に予告をされていました。
 日本では壬申の乱がありました。壬申の乱により後の天武天皇(伝631-686年)が甥の大友皇子(648-672年)に勝利するのが672年。681年に天武天皇は皇子達と官吏達に帝紀と古の諸事を記録するように命じます。こうして編纂されたものが『日本書紀』と『古事記』の素材となったと推測されています。
 『古事記』は『アエネイス』同様、その起源を語ることで間接的に新しい権力を謳い上げます。どちらにおいても君主の系統が神に遡ることは驚くに足りません。ローマにおいてはヴィーナス、日本においてはアマテラスです。
 アウグストゥスは帝国の一部では生前から神として崇められていたのです。一方、天武天皇は「天皇」すなわち天から来た主君、皇の神子という肩書きをおそらく歴史上はじめて使用した人物です。神話を政治目的のために利用せんとする意図は、双方ともに明らかといえましょう。しかし単純に政治的な目的だけの作品が文学として生き残ることはありません。『アエネイス』が今日でも読まれているのは、何よりもまず文学作品だからです。私はラテン文学の専門家ではありませんが、この叙事詩はその規模、言語の質、洗練された描写、人物の心理の正確さからいって、最高峰のひとつだといっても過言ではないでしょう。
 『アエネイス』の優れた文学性は常に当たり前のことと見なされてきましたが、『古事記』の場合は事情がもう少し複雑です。まず言語の問題があります。『古事記』を選録し、書き写したとされている太安万侶(生年不詳-723年)は、序で「最初は日本語で口承されていたものを文字に表すにあたり、漢文を音表記で表した」としています。そのため文章は分かりづらいものとなっています。
 もし古事記に文学的価値があるとすれば、それは言葉づかい以外の所に見いださなくてはなりません。しかし『古事記』は今日、重要な文学作品であるというステータスを与えられています。現在の『古事記』の権威は一部誤解の上に成立していると考えられます。多くの人は読み下し(漢文を訓読すること)を通じて『古事記』を読んでいます。原書では異論の余地のない一通りの読み方ができないからです。しかも現在では長々しい名前が続く長い系譜は急ぎ足で読み飛ばしがちです。現在の読者が興味を持つのは何よりもその物語、神々や英雄の物語、第3巻の歌などです。そしてやはり全体を通じて最も感動することは、最古の日本語で書かれたテキストを手にしているという事でしょう。「古いものだ」というその考えが、日本語と日本文学の起源そのものを目の当たりにしているという気持ちにさせてくれるテキストなのです。
 しかしこれは歴史的には弁護をしかねます。この100年程前にも、他の作品があったことが知られているからです。私たちが安易に古代文書に期待する平明さや純真さは『古事記』にはないのです。

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本居宣長の『古事記』
 18世紀の碩学研究者である本居宣長(1730-1801年)の研究においては、文学的な基準は全面には出されませんでした。大陸からの文明の様々な要素によって汚染されていない純粋な大和魂の起源が追求されたのです。宣長は膨大な注釈集『古事記伝』で、『古事記』を歴史の闇から引き戻しました。『古事記』を理解できるものとし、日本人の誇りのひとつとしたのです。しかし彼は文学的感動を求めていた訳ではありません。この面での手本はこれからも『源氏物語』であり続けるでしょう。宣長はまた、時にはかなり田舎風の歌である『古事記』や『日本書紀』の歌に、詩の手本を見る事も望んではいませんでした。彼は『新古今和歌集』の洗練された歌を好んでいました。宣長にとって『古事記』は神々の言葉を語り、神々の時代や人の時代の始まりについての真実を与えるものだったのです。彼のこのテキストとの関係は信仰の次元に位置します。彼の研究は神秘主義的な博学の世界のものでした。
 『古事記』を『アエネイス』と比較することで、宣長の後継者達による純粋に日本的な、時には愛国主義的な解釈から抜け出すことができます。『アエネイス』においていかに神々の存在が大きくとも、『アエネイス』自体は宗教的なテキストでないことを私たちは知っています。特定の政治的宗教的文脈の中で、文学テキストとして構想されていたものなのです。
 私の仮説では、『古事記』も同様であろうといえます。『古事記』が直接に宗教的な役割を果たしたと考える根拠はありません。儀式のときに了承したという証言もどこにもありません。『アエネイス』と比べて『古事記』が扱う時代は遥かに長期に渡りますが、ローマの叙事詩『アエネイス』と同様、起源が問題となっているのです。『古事記』が仁賢天皇の治世を語らない様に、『アエネイス』もアエネイアスの勝利で終わっています。肝心な事は既に記述されおり、それ以降は不要であるからです。これは単に過去の事実を記した年代記なのではなく、原初の建国の事実全てに先立つ時代を扱っているのです。



始まりを謳うことで現在を考える
 形式についての私の考えは、『古事記』はウェルギリウスの作品のように教養人が書いた叙事詩だということです。『アエネイス』には、神々の時代にも人間の時代にも反復して現れてくるモチーフがあります。同じ様に様々な部分が対立をしたり反響をしあったりする部分が『古事記』にもあるのです。それこそが古事記の豊かさを形作っていますが、おそらくは長く『古事記』が忘れ去られていたことの原因でもあるでしょう。
 私の考えでは『古事記』は定型詩に比較できるような構造を持っています。巧みな形で対立する水と火、開かれたもの、閉ざされたもの、遠近の巧みな組み合わせが『古事記』の構造を形作っています。それは7世紀から8世紀初頭の宮廷の人々にとり、親しみある形式であったはずです。しかし、その時代であってもそうした形態は古めかしいものと見られました。この頃急速に中国的文化に傾倒していくエリート達にとっては、こうした形式は既に理解のできないものとなっていくのです。エリート達は中国大陸からやって来た、陰陽五行説の思想で世界を理解する様になるのです。
 そのプロセスは既に『日本書紀』でも始まっていました。『日本書紀』では、例えば陰と陽という言葉を、世界を生み出した夫婦であるイザナギ、イザナミについて既に使っています。このように陰陽五行説はその後、神代の物語を読み解く為に使われる様になるのです。『日本書紀』の物語の解釈にしても同じであり、それが江戸時代の国学に至ります。
 『古事記』はこうして二重の意味で価値の低いものとされてきました。まず言語表記です。十分に明確ではなく『アエネイス』の言語の様に威光のある言語になり得なかったのです。しかも中位の役人である太安万侶はその時代から既に名声を手にしていた詩人ウェルギリウスではありません。もし『古事記』を書いたのが現在でもその文学的才能を讃えられる柿本人麻呂(660-720年)であったなら、『古事記』はどのような書物になっていたでしょうか。
 柿本人麻呂は元明天皇の夫である草壁皇子の葬儀の際に長い挽歌を書いています。この挽歌は『古事記』と同様に天地の始まりと天孫降臨から始まります。この天孫に草壁皇子の父、天武天皇が同一視されています。この詩句で、柿本人麻呂は『古事記』のプログラムと同じものを紹介しています。しかしこの長く素晴らしい挽歌は76の詩句と2首の反歌からなるもので、叙事詩とはかけ離れています。7世紀末の日本には長い叙事詩の伝統は全くありませんでした。古事は散文の物語の中で伝達されたのでしょう。
 しかし『古事記』を読むと、神話的参照と言わざるをえないような古事を一部参照していることが分かります。『古事記』が書かれた時代、ここで参照された古事は古代のものを復興しようとした天武改革で再活性化されていましたが、中国思想の波に消えつつある世界に属するものだったと思われます。『アエネイス』はアウグストゥスの宗教改革、宗教復興に参画してその利を得ました。『古事記』もまた、完全には遂行されないある計画を示唆しています。天武天皇の頃、天皇の即位や伊勢神宮の儀式は古代を真似たような形式に定められます。また、伊勢神宮の社殿の定期的な作り替えが始まるのは、天武天皇の未亡人である持統天皇(645-703年)時代です。いまでも伊勢神宮の社殿は藁葺き屋根で、柱は直接地面に建てられます。それらは中国の建築とは全く対照的な形式をしたものといえます。伊勢神宮では天皇即位の為の中心的な儀式、大嘗祭の為に社殿が建てられます。その社殿はこれもまた古代風の様式で建てられます。しかしこうした古代復興の動きは後に続きませんでした。中国思想と仏教に支配された文化の中で反響を生まなかったのです。中国から渡来した過去を歴史化するビジョンにより、エリート達は正史を重視するようになります。『日本書紀』、『続日本紀』、といった形でいわば正史の形式を踏襲して歴史の流れを繋げるのです。
 したがって本居宣長が『古事記』の中に真の日本の魂があるとしたのも完全には誤りといえません。しかし客観的に考えてみると、本居宣長が歴史の彼方の神々の時代にある原初の真理とみなしていたものは、実は意図的に古代風にした古ぼけた文学作品といわなければなりません。それでも宣長は日本文学の中でも最もユニークなこの書物が天地の始まりを偉大で美しい物語として語ろうとする意図を持っていた事を確かに感じ取っていました。
 『アエネイス』がローマ創設の事実上での真実を何も教えてくれないのと同様に、『古事記』も6世紀以前の日本で起きたことについて何も語ってくれません。それは神話の役割でも文学の役割でもないのです。この一見異なる2つのテキストは、それぞれがそれぞれのレベルで同じ役割を果たしています。「始まりを謳うことで現在を考える」という役割です。今でも我々を感動させるのはこの始まりへの謳です。この作品から感動が生まれるのは、この内的一貫性のおかげであり、その一貫性が常に意識されていなくとも効果的なのです。

kojiki_france05.jpg 講演での写真 撮影:相川健一
それ以外はフランス国立東洋言語文化大学提供



kojiki_france08.jpg フランソワ・マセ (François Macé)
1947年生まれ。1989年よりフランス国立東洋言語文化大学日本語・日本文化学部教授。1990−1997年、学部長。主に明治以前の思想史と宗教学の講義担当。著書に、『上代日本における死と葬送儀礼』(POF、1986)、『古事記神話の構造』(中央公論社、1989)、『文明ガイドー江戸時代の日本』(美枝子・マセと共著、ベール・レートル、2006)などがある。


white.jpg <国際交流基金賞 受賞団体紹介>
フランス国立東洋言語文化大学 日本語 / 日本文化学部・大学院 【フランス】
1862年に日本語講座が開講された、フランスにおける日本語教育の起源とも言える教育機関です。現在に至るまで、歴史、地理、政治経済、古典文学、近現代文学、美術史、思想史、言語学など幅広い分野において、優れた日本研究者、日本語教師、外交官、日本語通訳者等を数多く輩出しています。日本研究や日本語教育に関する最新のテーマを扱う国際シンポジウムの定期的な開催等により、日仏二国間の関係強化と相互理解の促進に中心的な役割を果たしています。

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♦ 受賞者と国際交流基金のかかわり
同大学へは、日本研究分野を中心とする図書の寄贈、日本語教材の寄贈などの機関向けの支援に加え、日本研究フェローシップを通じて大学教員への日本研究支援などを行ってきました。
また、同大学のご協力をいただき、フランス国内での日本文化、日本文学への関心を高めるべく、「『源氏物語』にみる弦楽器」 (2011年度)や「日本写真史 1900-1945年」 (2009年度)といったさまざまなテーマでの会議やシンポジウムも開催しています。




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