雑誌『をちこち(遠近)』
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国際交流基金の関連事業

ヴェネチア・ビエンナーレ日本館-恩恵としての建築に向かって

南嶌 宏(美術評論家、女子美術大学教授)



 2012年8月29日に開幕し、11月25日まで開催中のヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展において、日本館が金獅子賞に輝きました。すでに個人的にも2002年に金獅子賞を受賞し、国際部門における常連の建築家でもある伊東豊雄氏にとって、昨年の3月11日に起こった東日本大震災が建築に下した断罪を受けての、今回の日本館コミッショナーという立場での受賞は、ひとしお感慨深いものがあったにちがいありません。
 しかし、私は今回の国際建築展の日本館コミッショナーを決定する、国際交流基金の国際展事業委員会の一人として、また伊東豊雄氏を推薦した者として、慶賀すべき受賞は受賞として、それ以上に今回の日本館「ここに、建築は、可能か」の成果を、明らかに3.11以後の建築の質感を変容させる、建築家としての態度を表明するものとして、喜びをもって受け止めたいと思うのです。
 もちろん、国際展事業委員会は日本館のコミッショナー選考において、東日本大震災と対峙しての建築の可能性を問うことを必須の条件としていたわけではありません。しかし、7名の委員の思いを無意識につなげていたものは、やはり今回の震災に対する建築、あるいは建築家なる存在の態度が、いかなる希望を引き寄せ得るかという願いであったことは間違いありません。
私は伊東豊雄氏を推薦するにあたり、以下の推薦文を委員会に提出しました。改めてそれを読み直してみるとき、自らの文章でありながら、その推薦の思いが今回の建築展をヴェネチアで見終えた後の感想でもあるかのような、うれしい印象を得ることになりました。

 東日本大震災の発生直後に、私たちが目の当たりにした光景。それは被災者たちが残留物を利用しながら、生き延びるための知恵をもって仮設の「家」を構築し、命を確認し合うコミュニティの「場」を淡々と紡ぎ上げる姿であった。そこに建築や土木工学の専門家がいるわけではない。長老が指示を出し、若い衆が黙々と「家」を築き上げていく。しかし、その姿はふいに私たちに「建築」が世界に姿を現す初原の質感を思い出させるとともに、今日の建築家に、彼らが労働者階級の過剰価値の上に立存する、根源的にはブルジョワ的好奇心の需要を満たす、一種の分業システムの一部門の高級労働者でしかなかったことを突き付けることにもなった。
 だが、そのことが決して彼ら建築家の敗北を意味するものではないというべきだろう。彼らはつねにそうしたある種の苦悩を通して、自らの営為を相対化してきた存在であり、そして、それが今回の大震災によって、図らずも強調されることになったその苦悩と逡巡に、改めてそれぞれが建築家としての覚悟を求められることになったというべきだからである。
 来年の第13回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展の日本館コミッショナーとして、伊東豊雄氏を推薦する理由は、氏が今回の大震災に際し、「帰心の会」の建築家有志とともに、建築家のある種の再生の場を開くというように、明らかに「3.11」の持つ建築的命題を真摯に受け止め、不可能性をも許容した、建築家の責任と使命をいち早く問うた建築家であったからである。
 氏のこの行動は唐突なものではなく、ひとつには大震災に際し、その存在の社会的根拠を失った建築家たちの、無意識の切なる再生への希求を受け止めての、年長者としての行動という背景を持っている。しかし、それは同時に、伊東氏個人にとっても、実はこの大震災より遡ること10年、氏自身が建築家としての原点回帰の仕事になったと述懐する「せんだいメディアテーク」のプロジェクトを通して、「日常」という極めてアナーキーな欲望の受け皿としての「家」を息づかせる、道行く「生活者」の富を実感し、やがて、「くまもとアートポリス」のコミッショナーとして展開することになる「塾」という、階級的要素を排除した、小さく、そして、みずみずしい人間の感性の交感の―それは冒頭に記した、被災地におけるあの長老と若い衆の営みともどこか重なる―場を開き続けることになる建築的展開が、奇しくも今回の大震災の建築的克服の可能性を浮上させることになったともいうべきだろう。
 いわゆる「伊東スクール」を称せられる建築家群だけでなく、「長老と若い衆」も含めた、可能性としての建築的人材を取り込みながら、少なからず「3.11」以後の建築そして建築家の可能性(とその不可能性)を問うことになる、そして、そのことを期待する、第13回ヴェネチア・ビエンナーレ建築展日本館コミッショナーとして、ここに伊東豊雄氏を推薦し、「せんだいメディアテーク」以後の氏の展開とともに、ワークショップを含め、その「塾」的空間から生み出される建築の可能性を世界に問うプレゼンテーションを待望するものである。


 事実、2次選考における候補者の口頭プレゼンテーションにおいて、伊東氏を際立たせたものは、いわば建築の不可能をも含めた建築の可能性に対する自覚の表明というものでした。伊東氏のプラン「ここに、建築は、可能か-みんなの家」は、内部には、写真家畠山直哉氏の撮影した被災地陸前高田の写真、震災直後から伊東氏が呼び掛けて建築家のみならず、子供まで含めた様々な人々に描いてもらった無数の「みんなの家」のドローイングを展示し、そして、それらに囲まれるように乾久美子氏、藤本壮介氏らの建築模型を配置。さらに日本館の入口前に「みんなの家」の実物を構築し、来館者に寛いでもらおうというものでした。そして、近代における軍事産業とも比すべき、国家の基幹を成してきた建築産業の幻影を捨て去り、「みんなの家」というキーワードも含め、あまりに素朴な裸形の建築の姿を隠さないそのプランに、私たち選考委員は虚を突かれることになったのです。
 もちろん、それ以外の候補者のプランに魅力がなかったわけではありません。しかし、それは「3.11」以前における建築的勝利の輝きを延命させようとするものであり、建築そのものへの、そして建築家を名乗ることへの偽らざる不安を隠蔽した、根拠のない自信に満ちたプレゼンテーションであったことへの違和感が、伊東氏のプランとの質感の違いを生み出すことになったといえるかもしれません。
 私はその選考会で、伊東氏も含め、候補者全員に同じ質問を投げかけました。あなたのプランは生者ではなく、死者に対してどのような奥行を持っているのかと。もちろん、明快な答を求めたのではありません。それはその逡巡の中に建築家を名乗る人間の表情を得たいと思っての問いであり、そして、そのとき、もっとも苦悩に満ちた表情を隠さなかったのが、ほかならぬ伊東豊雄氏だったのです。

venicebiennalejapan09.jpg venicebiennalejapan10.jpg venicebiennalejapan08.jpg  伊東氏のプレゼンテーションを終えたときの、各委員の沈黙、そして、言葉ではなく、誰ともなく目を順番に合わせながら、私たちは伊東氏のプランに委ねたいという気持ちを確認することになりました。そして、委員全員一致で伊東氏のプランを採択し、伊東氏の日本館コミッショナーが決定したのです。
 しかし、どんなにそれを隠蔽しようとしても、建築家が自信を失っていたことは事実でした。被災地のみならず、福島第一原発の放射能漏れは続き、表現者であろうとなかろうと、依然、私たちを危機の中に置き去りにしたものは、信じるべきものとしての国家を失いつつあるという状況が、逆に国家なるものに何ひとつ信頼されていなかったという残酷な事実だったからです。建築家は誰にも信用されていなかったということなのでしょうか。そのとき、幻想としての国家ではない、小さな人間存在としての「私」を息づかせてきた共同体が何であり、大震災の直後にあって、その共同体が真に必要とした記憶、もの、そして人間とは何であったのかを、私たちは突き付けられることになったのです。その意味において、コミッショナー候補者に対する問いは、私たち自身に対するものであったことを、ここで改めて告白しなければならないのです。
 そして、コミッショナー決定から国際建築展開幕までの8ヶ月間、伊東氏は自らが選んだ建築家、写真家とともに、陸前高田というすべてを失った、いわば建築の消えた地平に立ち続け、被災者の声を聞き、その地平に最初に引くべきドローイングの一本の線を、どこに、いかなる素材で、どのような筆力で触れるべきかを探り続けることになりました。
 ところが、その途上にあって、二つの大きな計画変更が報告されることになったのです。そのひとつは多くの人々に描いてもらった「みんなの家」のドローイングの代わりに、壁面のすべてを畠山氏の写真でパノラマ風に覆いたいというものでした。私はこの変更に疑問を持ちました。なぜなら、委員会が今回の建築展において確認していたことのひとつは、阪神大震災をテーマとした1996年の日本館の「裂け目」のような、震災の悲劇性を建築と写真という組み合わせにおいて再現しないということだったからです。なぜなら、私は同年の日本館を実見していましたが、確かに迫力ある空間構成は、力としての建築への逆説的なオマージュとして、ある種の批評性を持つものでありましたが、それはまた建築というものの本質を見誤らせる、写真との共犯関係に対する疑義を気づかせる展示でもあったからでした。日本館の入口にあの瞬間へと来館者の感性を引き寄せるにふさわしい、畠山氏の数点の写真をささやかに展示し、記録としての写真ではなく、記憶とは何かを考えさせる装置としての当初の計画を思うとき、パノラミックに日本館を劇場化することへの危惧は、私に小さな不安を与えることになったのです。
 そして、もうひとつの変更は、「みんなの家」の実物をあえてヴェネチアには実現せず、その姿を現すべき陸前高田に帰すというものでした。これは賢明な判断であったといえるものでした。いうまでもなく、伊東氏のプランは建築展に奉仕するものである前に、「ここに、建築は、可能か」という絶対の問いを発する、陸前高田に象徴される被災地に向けられたものであり、ヴェネチアという場における建築展で披瀝すべき内容を、より明快に整形するものとして理解することができたからでした。
 結果としてその2つの変更が承認されたのは、伊東氏のコミッショナーとしての基本的な態度に変更がないという委員会の判断によるものでしたが、私は悲劇の劇場化という一抹の不安と、プレゼンテーションにおける伊東氏の、建築の不可能性へのベクトル線上に開いた態度が、いかなる建築的な質感をもってその姿を現すのかという希望を抱きながら、ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展のヴェルニサージュへと赴くことになったのです。
 今回のヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展の総合コミッショナーは英国の建築家デイヴィッド・チッパーフィールド。テーマは「コモン・グラウンド」。特権化された建築という歴史的なフィールドを解き放ち、様々な市民が参加し得る場へと返還させる試みを意図したものでしたが、このビエンナーレの宿命とはいえ、市民革命以後の西欧文化を基軸とした世界観に立った「コモン」なる幻想を、いかにして克服することができたのか。国別参加55ヶ国。新たな参加国を増やし、それぞれの国情を反映しながら、興味深い展示が展開されることになりました。
 ジャルディーニのビエンナーレ会場の入口に近づくに従って、不思議な緊張感が走りました。1988年から20年以上通う同じ道なのに、自分が2009年に国際美術展の日本館コミッショナーを担当したときとも全く異質の、その感情を言葉に代えることのできないもどかしさが足を重くするのです。それはおそらく、建築家に求めた残酷なる答を、今度は自らが受け止めなければならない問いとなって返ってくることへの、畏れがなせるものでもあったからかもしれません。

venicebiennalejapan03.jpg  いよいよ日本館の入口に立ち、その内部を実見するときがやってきました。しかし、どうでしょう。何とそこには建築の一切がなかったのです。あるのは光。まばゆきものでも、かそけきものでない、林立する杉、壁面を覆う写真、個々の建築模型をひとつの光源として、人間の体から発せられる光とでもいえばいいのでしょうか。何とも懐かしい体温を感じさせる光がその空間を支配していたのです。

venicebiennalejapan05.jpg  壁面を覆う畠山氏の写真も、すでに瓦礫を処分した後の風景を採用したことによって、「3.11」の以前/以後、つまり、それが過去のものであるのか、それとも未来のものであるのかを無効にしながら、その悲劇性を不思議な光の中に回収してみせています。と同時に、それはすべてを失った世界だけに到来する光を得る経験を、私たちが与えられたということでもあったのでしょう。そして、何よりもその光の最大の光源となっていたものは、乾久美子氏、藤本壮介氏、平田晃久氏による無数の建築模型であったといわなければなりません。それらはあたかも失われた家の復元のようにも、これからここに姿を現すであろう未来の家のようにも見える、素朴といえばあまりに素朴な建築模型の数々です。しかし、フリーハンドのドローイングのような自信と自由の感覚、そして、ある種の逡巡と破綻を混在させながら、不思議な速度―それがどこに向かう建築としての速度であるかは、まだ答が出ているわけではないのですが―を獲得し、その速度の不断の交差や乱反射が光となって、日本館を満たしていたのです。

venicebiennalejapan02.jpg  事実、コミッショナーである伊東氏から建築家としての参加を要請されたとき、彼らは喜びとともに戸惑いを感じたにちがいありません。なぜなら、今回の日本館に関わるということは、それまでの建築家としての自己を否定しなければならない可能性もあったからです。しかし、大震災を対象化するために、建築模型という、それ以上でもそれ以下でもない未成の建築を、陸前高田と自分のスタジオという、どちらも現実である二つの場をつなぐ振幅の中で、しかも、三者のコラボレーションを通して構築することによって、コミッショナーである伊東氏の「ここに、建築は、可能か」=「ここに、建築は、可能である」という問いと願いへの、抗い、不安、逡巡、発見、共鳴、肯定を含め、数か月間にわたって交わされた思想闘争、そして、死を想う心の軌跡が、光となって到来していたのです。
 冒頭に紹介した推薦文の中の「長老と若い衆」に例えるならば、まさに伊東氏が「長老」であり、建築家、写真家が「若い衆」にあたるといってもいいでしょう。そして、その二者をつなげるものは、もっと原初的な共同体を成立させる掟のような秩序だったにちがいありません。そして、その秩序は自然の理に即して姿を現すものであり、死もまたその秩序の中で共有される富でもあったということなのです。
 伊東氏に「『みんなの家』には死者も含まれますか」と問うたとき、伊東氏に去来した真実の答はいかなるものだったのでしょう。私は思うのです。陸前高田に実際に建設される「みんなの家」。みんなが自分の場所として憩うために建てられるその家で、お茶を飲んだり、談笑をしたりということは、決してあり得ないだろうと。なぜなら、それはもっと高貴なる、死者たちが帰り、故郷を懐かしむ家として光を得る場になるにちがいないと信じるからです。
 今回の受賞理由のひとつに「ヒューマニズム」が挙げられました。しかし、これも少し的外れな視点です。近代市民社会に生まれた「ヒューマニズム」は、都市文明において獲得された、いわば権利と交換可能な概念です。しかし、伊東氏たちの勝利はもっと原初の掟、そして、その秩序の声を、ハイデッガーの言葉を借りるならば「聴従」し、生きること、そして、存在することへの恩恵としての建築を回復しようとしたことにあったというべきだからです。そして、それを彼らは死者との会話によって学んだということを忘れてはならないのです。
 東日本大震災の被災地は今も建築が消えたままです。しかし、改めて建築とは何かを問うとき、この建築不在の光景こそ、私たちの感性の覚醒をひき起すものは、ほかにないのではないでしょうか。
 今回のヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館展示「ここに、建築は、可能か-みんなの家」は、そのままひとつの光となって、姿を変えながら、生き続けることでしょう。建築は私たちのものです。私たちが死をもすでに宿した存在としてあるならば、建築は死から生への、そして、生から死への恩恵として生まれ変わっていくにちがいないのです。





venicebiennalejapan01.jpg 南嶌 宏(みなみしま ひろし)
女子美術大学アートプロデュース表現領域教授。前熊本市現代美術館館長。
1957年長野県生まれ。筑波大学芸術専門学群芸術学専攻卒業。インドを放浪後、いわき市立美術館、広島市現代美術館などの創設に参画。パリ・カルティエ現代美術財団を経て、インデペンデント・キュレーターとして活動。暗黒舞踏「アスベスト舘」のポーランド公演をプロデュース。2000年より5つ目の美術館となる熊本市現代美術館の開館準備を担当。「ATTITUDE」や「反近代の逆襲-生人形と松本喜三郎」などの展覧会を通して、旧共産主義圏の現代美術やハンセン病患者の芸術作品、見世物細工としての生人形など、これまで光の当たらなかった様々な芸術表現を世に問い続ける。日本の公立美術館として初めて「マリーナ・アブラモヴィッチ展」、「アン・ハミルトン展」をキュレーション。
2008年、「ATTITUDE 2007」の企画に対し、西洋美術振興財団学術賞受賞。プラハ・トリエンナーレ2008国際キュレーター。2009年、第53回ヴェネチア・ビエンナーレ日本館コミッショナー。著書に評論集『豚と福音』(七賢出版)。近著に『横尾劇場−横尾忠則の演劇・映画・コンサートポスター』(横尾忠則氏との共著、gggBooks 別冊‐8)などがある。



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