伝えたかった国難に向かう覚悟~嶌信彦、ウズベキスタンで講演

嶌信彦(ジャーナリスト、NPO日本ウズベキスタン協会会長)



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サマルカンド世界遺産

 久しぶりにウズベキスタンを訪れた。前回は日本ウズベキスタン協会設立10周年の記念旅行で協会会員約50人と一緒に旅行した時だから、5年ぶりの訪問だ。1996年に初めて取材旅行に出かけてから5回目となる。今回は、日本の国際交流基金の依頼で「現代の日本の社会状況や若者の考え、生き方などを講演して欲しい」といわれ、4泊5日(うち1泊は機中泊)という強行日程の旅だった。
 この時期にウズベキスタンの若者向けに話をするというのは、2011年3月11日の大震災後の日本社会の変化やその後の日本人の生き方、考え方などを知らせる点で意義があるのかなと思い、快く引き受けた。聞き手は、主にサマルカンド国立外国語大学とタシケントのウズベキスタン・日本人材開発センターに通う学生や若い人々だった。3.11大地震は世界に大きく報道され、ウズベキスタンからも様々な支援や心配の声が寄せられていたので、まずはそのお礼と日本の復興ぶりを簡単に紹介した後、話の重点は日本人全体の精神的変化と過去の歴史から見ても今の"第3の国難"を必ず乗り越えるという日本の心意気を訴えた。


日本の2度の国難
 日本は過去200年弱の間に2回の国難を経験している。1度目は幕末、明治維新に260年続いた徳川政権が崩壊の危機に瀕し、外からは欧米列強が開国を迫った時だ。内に内乱の危機、外からは植民地化にさらされながら徳川幕府は統治能力を失っていた。この危機を突破したのは若い下級武士と彼らを支援した開明的な大名、庶民、豪商たちだった。第一線に立った坂本龍馬や高杉晋作らは維新をみる前の20~30代で命を落とすが、その志を生かしたうねりが近代日本を作り、植民地化から免れたのである。
 第2の国難は敗戦後の日本だった。太平洋戦争を引きおこした軍人、高級官僚、新聞人、知識人らはGHQなどによって追放処分をうけ財閥も解体された。世界の孤児となりガレキと化した国土を建て直したのはやはり20~40代の青・壮年だった。戦争放棄を誓い、民主的選挙、教育制度、法律などを改正し技術、輸出立国として再出発する道を作った。その結果、1945年の敗戦からわずか23年後の1968年に世界第二位の経済大国となったのである。私は過去の2度の国難を乗り越えてきたのは日本人に"覚悟"があったからではないかと思っている。日本の長い歴史と文化、教育などに支えられてきた日本人の誇りにもとづく覚悟である。
 私は「現在の第3の国難も若い力が軸となって再建できると信ずる」と語った。日本には二千年以上に及ぶ歴史と文化、高い教育水準、勤勉な精神、手先の器用さやもてなしの心、正直さと規律の正しさ――などが備わり、この基盤が途上国から先進国に追いつき追い越す原動力となったし、途上国から"日本モデル"とみなされるようになったのではないかと考える。
 私はこんな歴史的経緯について実例をあげながら語った後、今後は20~30年後の国のビジョンを構想し、これを実現する情熱と志をもつ若者の行動こそが、国の再生、再建の力になると力説した。ただ過去の20年、日本は経済大国に安住し、かつての日本の良き伝統や貧しかった時代の凛とした気魄を失いつつあったのではないか、というエピソードを政治や社会についてあげ、いつのまにか自信と誇りを失ってきた現状についてもつぶさに説明した。

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サマルカンド国立外国語大学での講演(2012年11月24日)


第3の国難としての東日本大震災
 しかし、あの3.11の大地震で日本人は覚醒しつつあることも述べた。3.11の時、世界中のメディアがやってきて惨状を報道すると共に日本人の立ち居振る舞いも見ていた。そこで見た日本人について、自己を犠牲にして中国人留学生を救った話や食料や衣服の配給に対しても10才の子供までが整然と静かに列に並び暴動や盗難、混乱は殆ど起こらなかったこと。約80年前の災害支援の恩返しとして北海道の地域から震災を受けた三陸地域へ春の漁に必要な中古船などを228隻も贈られたこと。
 また、ある外国のジャーナリストの経験話として、被災地の寒風の中で食料支給を待って列に並んでいる子供を見て、自分が持ってきた食料を手渡した。そうしたら、何とその子供はもらった食料を配給する人に「みんなに配って下さい」と渡しまた列に戻って並んだ光景に言葉が出ないくらいビックリし、「自分の国でこうした子供が出てくるまでには、どの位の年月がかかるだろうか」とうなったという。
 私はこれらの話で日本を自慢しようと思ったわけではない。先進国病に罹り、かつての目標に向かって突き進む精神や、自信と誇りなどをなくし閉塞感の中にあった日本が再び立ち上がりつつあることを伝えたかったのだ。と同時にウズベキスタンの若者たちも、あの1991年の建国当初の息吹と熱気を思いおこし、シルクロードの歴史を生き抜いてきた知恵や誇りを胸に立ち上がって欲しいと呼びかけたかったのである。この呼びかけは、かなりの人々に受け止められたようで後に「こんな"革命的"な話を聞いたのは初めてです」といった趣旨のメモや感想をいくつか頂いた。

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タシケントでの講演(2012年11月26日、共催:ウズベキスタン日本人材開発センター)


 ウズベキスタンは5年前と比べても大きく変わり、外資系のホテルが立ち並んでいる光景にビックリしたし、タシケントからサマルカンドまで新幹線に乗る機会にも恵まれた。シルクロードの街に立つと、その悠久の歴史が肌に感じられるし、日本より古くからあるすごい歴史の数々に目を見張る。"愚者は前例を真似するが、賢者は歴史に学ぶ"という有名な言葉を思い出した。シルクロードには現代人が学ぶべき歴史の遺言がいくつもあることを思い出させてくれる旅だった。なおこの旅には国際交流基金の高口真法氏も同道して下さり、各地で様々な話を聞くことができた。また、私達の協会がお世話をした元日本留学生たちにも数多く会えたうえ、JICA青年海外協力隊に来ている若い元気な女性たちのエネルギーにも感心させられた。日本はまだまだ捨てたものではないと改めて再認識した次第だ。
 黒田義久駐ウズベキスタン日本大使、在ウズベキスタン日本大使館の栗原毅書記官やウズベキスタン日本人会会長である林崇丸紅株式会社タシケント事務所長には大変お世話になり、タシケント国立東洋学大学で20年近くにわたって日本語教育にあたっている菅野怜子先生にお会いできたことも懐かしかった。また、ウズベキスタン外務省の若き外交官、マスートフ アジア太平洋諸国局長やアジゾフ日本課長、そして、クズィーエフ文化・スポーツ大臣との各1時間以上に及ぶ懇談も思い出に残るものだった。ただ、残念なことに、最近のウズベキスタンから日本へやってくる留学生は独立当時より豊かになっているせいか、15年前の当協会設立時に比べるとかなり変わってきたなという印象も強い。明治維新や敗戦時の日本人の思いつめた"覚悟"がなくなってきた現代の日本と似ている気もしている。





uzbekistan_kokunan01.jpg 嶌 信彦(しま のぶひこ)
1967年から毎日新聞記者として経済分野を中心に取材、ワシントン特派員を経て87年退社。その後、コメンテーターとして TBS テレビに出演するなど、フリージャーナリストとして活躍する傍ら、98年に日本ウズベキスタン協会を設立、会長となり、留学生支援や文化行事の開催を通じて日本とウズベキスタンの友好促進に貢献している。
2012年に、日本とウズベキスタンが外交関係樹立20周年を迎えるのを記念して、東日本大震災後の日本社会がどこに向かうのかをテーマとした講演「第3の国難に立ち向かう日本」を、タシケント(2012年11月26日)、サマルカンド(同11月24日)でそれぞれ行なった。




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