「唐船」小考

王 来特
(中国)東北師範大学



 私は2011年9月に博士論文執筆者として来日してから、国際日本文化研究センターに籍を置きましたが、資料調査のため、江戸時代の日清貿易の唯一の場所であった長崎を二回訪ねました。訪問した際、長崎歴史文化博物館において、当時の清朝中国商人に関する、これまでの先行研究で活字化された資料集に収録されていなかった新史料を数件見つけました。その中でも、『唐船船主上書』と題する一連の文書の中に、唐船(いわゆる中国商船)の船主が「信照」、即ち通商許可書の発給を請う文書の一件があり、下記のような内容が記されています。

 「具呈、午五番咬ロ留吧船主鄭孔典、卯十四番寧波船主沈草亭、為懇恩垂恤給補原照事切。典姪鄭大山前歲同高令聞合夥承領國帑置辦貨物、將高友聞本名信照交付夥計蔡元忠、鄭大捷前往廣南轉運貨物來崎貿易。不料舊歲秋間在廣南開棹至中洋陡遇颶風,全船覆沒,人貨兩空......伏乞諸位老爹轉啓王上俯恤難商、恩准給還高友聞本年原照......待得补発船隻来崎,以完國帑,庶不至负累两姓人家......」(長崎歴史文化博物館蔵、オリジナル番号 へ17 57)

 日本語に翻訳すると次のような意味になります。

 「午五番、咬ロ留吧(現インドネシアのジャカルタ)船主の鄭孔典と、卯十四番、寧波船主の沈草亭は「信照」の発給をお願い申し上げます。鄭孔典の姪である鄭大山と彼の仲間である高友聞(高令聞か)は国の帑幣(即ち清朝政府の先払い代金)を受け取って、高友聞の本名が記された「信照」を家人の蔡元忠、鄭大捷に交付して彼らを廣南(現ベトナム中南部)に派遣し、貨物を取り次いで長崎で貿易をしようと計画していましたが、途中、台風に遭遇したため、船が転覆し、人と貨物を全て失ってしまいました。......恐れ多くも各位の「老爹」(唐通事のこと)を通して伏して殿様にご報告し、遭難した商人を不憫に思われ、高友聞に今年の「信照」を再び発行していただきたいとお願い申し上げます。......改めて船を出して来崎できるなら、国からの借金の返済ができ、両名の家族を巻き添えにすることもありません。」(カッコに入れた文字は訳者の注である)

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長崎港
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唐人屋敷址

 周知の通り、江戸時代における徳川幕府は対外貿易を統制するため、次々と貿易管理・制限の条例を打ち出しています。とりわけ、正徳5(1715)年に公布された「海舶互市新例」(「正徳新例」とも呼ばれます)で、日本側から中国商人への通商許可書に相当する「信牌照票」を発給し、この「信牌」(「信照」とも書く)をもって貿易の量を制限するという制度を定めました。前述の鄭孔典と沈草亭による『上書』は、日付の所にただ「?四年十二月」という文字だけが残されているため、具体的な年号は確認できませんが、「信照」の再発給を中心としていることから、「海舶互市新例」の公布以後のものであるに違いありません。
 さらに、『関西大学東西学術研究所資料集刊(大庭脩編著)』の「信牌方記録」「唐船進港回棹録」から、享保5(1720)年、6(1721)年、7(1722)年、8(1723)年、10(1725)年、11(1726)年、16(1731)年の記録において、鄭孔典、あるいは彼の代理人が来日して「信牌」を受領する条を確認できますので、前述の上書は恐らくこの前後の事だと考えられます。
 「正徳新例」公布以後の日本対外貿易史と合わせて、鄭孔典と沈草亭のこの「上書」を読めば、幾つかの手掛かりを引き出すことができると思いますが、ここでは主に「上書」に言及された唐船の出帆地と航路に着目し、それらと「正徳新例」の関連規則とをあわせて見ていきます。「正徳新例」の中に唐船の出帆地と関わった規則は次の二条があります。

 割符(信牌)を受取候もの其期に及ひ故ありて渡来らす同所のものに割符をあたへ渡海せしめ候とも其處の産物を載来り其荷物も定法の數に違ハすして割符たしかなるにおゐてハ商賣をゆるし重ねての割符をあたへらるへし

 割符を持来るといふとも常年の例とちかひ其所の産物にあらさる物を載来り或は下品或ハ偽造の物等を載来るにおゐてハ商賣をゆるさす割符をとり上一船のもの共永く往来を禁絶すへし

 一見すれば、「正徳新例」は「割符」(信牌)の受領を通商許可の前提としているだけではなく、来航した唐船に載せる貨物の産地をも厳しく規定しています。しかし、問題なのは「新例」にある「其處」「其所」をどうとらえるべきかです。つまり、『唐船船主上書』などの文書で記された「唐船」が、必ずしも「唐」というところ、即ち、清朝中国の産物を載せて来なければならないのかどうか、ということです。鄭孔典と沈草亭の「上書」を見れば分かる通り、歴史の事実としては、そうではありませんでした。
 鄭大山と高友聞は「唐船船主」として、確かに、清朝政府から貿易の資本を得ていましたが、その後、ベトナムで貨物を購入して長崎に運ぶという貿易活動を行っていたのです。また、鄭大山の叔伯であり、「上書」の提出者としての鄭孔典は「咬ロ留吧船主」と明記されていたので、彼は東南アジアから長崎への中継ぎ貿易に携わった中国商人だと推定できます。このように見てくると、「新例」にある「其處の産物」「其所の産物」は主に貨物の真偽、質量を確保するための規定であり、必ずしも船主の出身地と貨物の産地を規定するものではないと思われます。
 実は、鄭孔典と沈草亭の「上書」に現れた事例は唯一の例外ではありません。江戸時代の日清貿易の実態を記録した『華夷変態』などの文書には、中国商船が自国を出発した後、多数の港市を経て貨物を積込んでから、長崎に辿りつく例が少なくありません。さらには、東南アジアの咬ロ留吧(ジャカルタ)、廣南(ベトナム)、簡埔寨(カンボジア)などの地方から長崎来航の商船についての記録を調べてみれば、船主達は例外なく、中国人の名前となっています。この意味で、江戸日本における「唐船」は唐(中国)から長崎までの間を往来する単なる商船のみにとどまらず、江戸日本、清朝中国と東南アジアとの貿易ネットワークの形成にも大きな役割を果たしたと言ってもよいでしょう。

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(左)崇福寺唐人墓地、(右)雍政年間来日唐商の墓碑





tousen01.jpg 王 来特(オウ・ライトク)
中国の東北師範大学・歴史文化学院・博士課程在籍
専門分野:日中関係史、近世日中貿易史。
2011年9月から2012年8月、国際交流基金・日本研究フェロー(博士論文執筆者)として、国際日本文化研究センターに研究活動を行った。
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