2025.9.30
【特集084】
芸術的・文化的活動は、人間にとって本質的なものです。美術館や遺跡を訪ねたり、芸術作品を生み出したり、参加したりすることで、私達の生活は豊かになります。本講演の登壇者は、日本の芸術文化に関する調査・出版・交流のための研究機関であるセインズベリー日本藝術研究所の統括役所長、サイモン・ケイナー氏。同研究所のさまざまなプロジェクトを例にとり、日本の芸術や文化との関わりが、いかに私達の心を満たすのかについて、講演いただきました。また、アーツ・カウンシル・イングランドの最高責任者ダレン・ヘンリーが提示した「Arts Dividend(芸術の配当)」を、新たなグローバルオーディエンスへ届けるために、デジタル化がどのように活用され得るのかについても考察いただきます。
講演の模様は、国際交流基金公式YouTubeチャンネルでもお楽しみいただけます。
皆さま、こんばんは。このような場にお招きいただきましたこと、そしてこのたび「国際交流基金賞」という大変な栄誉を賜りましたこと、心より光栄に思います。セインズベリー日本藝術研究所のチーム全員を代表してこの賞を受け取らせていただきます。本当は全員で来日したかったのですが、それは叶いませんでした。でも嬉しいことに、2024年11月に再び日本を訪れる予定です。その際には、私達の大学の学長や理事会の会長、同僚達とともにまいりますので、彼らをできるだけ多くの皆さまにご紹介したいと思います。
セインズベリー日本藝術研究所は25年前に設立されました。設立当初は、わずか2名と1羽のオウムで始まった小さな組織でした。残念ながらそのオウムはもう今はいませんが、現在は16名の仲間が集う研究所へと成長しました。この仲間達はセインズベリー日本藝術研究所の中核を担っています。さらに私達は、世界中に広がるネットワークを持っています。これまで在籍したフェローや学術訪問者、そして研究パートナー達は、日本、イギリス、ヨーロッパ全域、北米など、何百人にも及んでいます。このように素晴らしい方々の代表としてこの場に立てることを大変光栄に思います。そして、私の夢であった日本の考古学や日本美術に関わる仕事を続けてこられたことを、本当に幸運だと感じています。また、今回の訪日をサポートしてくださった国際交流基金の皆さまに、心より感謝申し上げます。素晴らしい1週間を過ごすことができました。多くの旧友と再会できましたし、何より金曜日の夜にもかかわらず、私の話を聞くために多くの方々がお越しくださいましたこと、心から御礼申し上げます。
さて、今回の訪日にあたってとても悩んだのが「スピーチのテーマ」でした。というのも、私達セインズベリー日本藝術研究所が研究の対象としている範囲は、日本の芸術と文化のすべてに及ぶからです。時間軸では先史時代から現代、未来にわたるまで、そしてエリア的にも北海道から沖縄に至るまで幅広い地域をカバーしています。ですから過去25年間にわたって行ってきた研究のすべてを、ここでご紹介することはとても難しいと思います。
私は考古学者ですので、過去の現実の「断片(フラグメント)」を扱うことに慣れています。ですから今回は、私達の研究プロジェクトの中からいくつかの断片を選んでご紹介しようと思います。本講演を通して私達の取り組みについて、少しでも皆さまに感じていただけると嬉しいです。そして、今後の展望についても少しお話ししたいと思います。
私が初めて日本を訪れたのは、今からちょうど40年前のことになります。自分でも信じられないくらい昔のことです。当時、私の学生仲間や友人達、家族、さらには両親の友人達からも、「君は正気じゃないんじゃないか?」と、ずいぶん言われました。当時の私は日本について多くを知っていたわけではありませんでした。けれど、もっと知りたいと考えていました。ケンブリッジ大学時代、ジーナ・リー・バーンズ教授から紹介された素晴らしい日本の考古学について、もっと学びたいと思っていたのです。そして、少し不思議な巡り合わせなのですが、私は学生時代、イギリスのスーパーマーケット「セインズベリー※」でレジ打ちの「アルバイト」(英語には「アルバイト」という言葉にぴったりな表現がないのですが)をしていました。そのアルバイトで稼いだお金の一部が、初めての日本訪問へと私を導いてくれました。その時点で、私の未来がどこに向かっていくのか、まったく想像もしていませんでした。ただ一つ言えるのは、日本で働く機会をいただけたことで、私はとても充実した、幸せなキャリアを築くことができたということです。
今となっては、日本に関心を持つことや日本について学ぶことは、40年前のようにごく限られた人だけの特別な関心ではありません。この時代の変化は、私達セインズベリー日本藝術研究所の設立を支えてくださった創設者のサー・ロバート・セインズベリー卿とリサ・セインズベリー夫人、そして初代所長のニコール・クーリッジ・ルーズマニエール教授、さらには初期の理事であったデイム・エリザベス・エスティーヴ・コール氏など多くの方々のご尽力によるものです。残念ながら、デイム・エスティーヴ・コール氏は数週間前(2024年9月)に逝去されました。日本や日本美術がまだイギリスで十分に評価されていなかった時代に、先見の明を持って当研究所の構想を描いた彼らの功績が今まさに証明されていると感じています。そして何より、私達が今日活動できているのは、日本の皆さまからの温かいご支援のおかげです。中でも国際交流基金の皆さま、そして本日ご出席の川合正倫先生に心からの感謝を申し上げます。川合先生には、研究所創設当初からお力添えをいただき、25年間にわたって大きなご助言とご支援を賜ってまいりました。
さて、今私達は、非常に困難な時代を生きています。そんな中でも、私が日々接している多くの学生達は、日本に関心を持ち、日本と関わることで前向きな気持ちになれるのだと話してくれます。このような思いがいま、日本語、日本食、マンガ、映画、美術、文化全般への関心の高まりといった世界的な日本ブームにつながっているのです。そこで本日は、「日本の芸術と文化は、いかにして私達の心を満たすのか?」というテーマでお話しさせていただきたいと思います。
本題に入る前に日本の皆さまに、外国人を代表してお詫びしなければなりません。昨今の日本への関心の高まりゆえに、一部の観光地において「オーバーツーリズム」を招いてしまっていることを申し訳なく感じています。
私達セインズベリー日本藝術研究所やイースト・アングリア大学において、少なくとも私達のプログラムに関わる人々には、日本という文化的な文脈の中に自分が入っていくのだという意識を持ってもらえるような教育を心掛けています。これは特に重要なことです。なぜなら、イギリスでは現在、深刻なメンタルヘルスの危機が起こっているからです。特に、私達の未来を担う存在である若い世代にその影響が強く、この問題にどう向き合うべきか、私は日々考えています。そして、日本の芸術や文化に関わる私達の仕事が、こうした問題の解決にどのように役立つのか、その可能性を模索しています。今夜のスピーチを通じて、「日本の芸術や文化は、心の健康のために活用できる」という私の考えに、少しでも共感していただけたら嬉しく思います。今回このテーマでお話しする機会をくださった国際交流基金の皆さまに心から感謝申し上げます。
ちょうど今、二つの素晴らしい展覧会が東京で開催されています。私も滞在中に両方を訪れることができました。一つ目は、東京国立博物館で今週(2024年10月)始まったばかりの展覧会でテーマは「埴輪」です。とても楽しげな表情の埴輪達が並んでいます。あの姿を見れば、誰もが明るい気持ちになるのではないかと思います。もう一つは、東京国立近代美術館で開催されているもので、こちらは現代アーティストの目を通して見た「埴輪と土偶の世界」を紹介するとても興味深い企画です。この展覧会の中でも特に私が気に入っているのは、片腕を上げてとても嬉しそうに見える土偶です。ここで、皆さまに問いかけたいと思います。
埴輪と土偶、どちらがより幸せそうに見えるでしょうか?
ただし、ここには一つ問題があります。それは、「幸せ」とは何か、という定義についてです。このスピーチの翻訳をしてくださっているメイさんとも、「『幸せ』という言葉をどう訳すべきか?」について話をしました。幸いにも日本語にはカタカナがあるので、今回は「ハピネス」という言葉で表現することにしました。考古学や芸術・文化の研究に携わる者の視点から、今日のスピーチの中でも特に重要な点として申し上げたいのは、「『幸せ』という概念は、文化によって形成されるものである」ということです。
ここで、私の出身地を紹介する写真を数枚お見せしたいと思います。(動画の13:07~14:35参照) 多くの皆さまが、セインズベリー日本藝術研究所を訪れたことがあるかと思いますが、イギリスでも最も美しい歴史的な街の中心にある12世紀建造の素晴らしい建物の中で私達は活動しています。日本の鉄道と違ってイギリスの列車は非常に遅れやすいことで有名ですが、うまくいけばロンドンからノリッジまで2時間ほどで到着できます。イギリス版「新幹線」といえるかもしれません。私達のささやかな夢は、ノリッジ駅からイースト・アングリア大学のセインズベリー・センターまで、リニアモーターカーの線路が通ることです。
こちらがイースト・アングリア大学で、この大学のキャンパス内にあるのが、セインズベリー・センターという美術館です。この美術館には「セインズベリー・コレクション」と呼ばれる貴重な収蔵品があります。実はセインズベリー日本藝術研究所の物語は、ここから始まったのです。私がこの研究所の採用面接を受けたとき、日本国外で最も充実した日本考古学のコレクションがこの建物に展示されていることはまったく知りませんでした。ここには、約2,500~3,000年前の遮光器土偶も展示されています。この写真の土偶には、スピーチの最後にもう一度登場してもらいます。
さて、最近イギリスでは日本文化への関心がますます高まっています。これは、過去1週間にイギリスで発表された、日本文化に関する三つの記事の一部です。(動画の14:36~15:56参照) どれもまったく異なる分野を取り上げています。一つ目は、近藤麻理恵さんに関する記事で、「不要なものは捨てましょう」というテーマが『ガーディアン』紙に掲載されていました。『ガーディアン』は、日本に関する報道が非常に充実している媒体です。二つ目は、『スペクテイター』誌の記事です。かつてはボリス・ジョンソン氏が編集長を務めていた雑誌ですね。ちょっと風変わりな記事のタイトルは、「私達は日本人になりつつある」というものです。非常に好意的な内容で、たとえば『千と千尋の神隠し』など日本のアニメを原作とした舞台作品がロンドンで大人気となっていることなどが紹介されています。ちなみに『千と千尋の神隠し』の舞台は最も安いチケットでも約200ポンドですが、全公演が完売しているそうです。私のお気に入りの記事は三つ目で、『ヴィトルズ』という、あまりなじみのない雑誌に掲載されたものです。ご存じの方も多いかと思いますが、日本料理はユネスコの無形文化遺産にも登録されていますよね。ただ、この記事で紹介されているのは、なんとカツカレーです。カツカレーが遺産登録に含まれていたかどうかは定かではありませんが、この記事ではイギリスにおける「カツ化」現象について紹介されているのです。
ここから少し真面目な話になります。(動画の15:57~20:05参照)ご存じのように、国際連合は2030年までに達成すべき持続可能な開発目標(SDGs)を30項目掲げています。その中の一つに「すべての人に健康と福祉を届ける」という目標があります。この理念に基づいて私達の分野、つまり博物館、美術館、考古学団体なども、「私達の活動が、人々のウェルビーイングにどう関わるのか?」という問いに真剣に向き合うようになってきました。時間の関係でこれらすべてを詳しくお話しすることはできませんが、次にご紹介する2枚のスライドから、私の専門である歴史環境や考古学、美術といった分野でも、ウェルビーイングや幸福に関する明確な枠組みが生まれてきていることを、少しでも感じていただければと思います。
こうした動きは、イギリスにおいても具体的な形となって現れています。たとえばヒストリック・イングランドという組織は、日本で言うところの文化庁に相当します。さらに、いくつかの民間財団、たとえばベアリング財団やレストレーション・トラストなども、心の健康に困難を抱える人々と連携しながら、歴史・文化・芸術がどのように役立つのかを探る取り組みを進めています。
特に優れたプロジェクトの一つがヒューマン・ヘンジです。ストーンヘンジに関する研究についても後で少しご紹介しますが、このヒューマン・ヘンジは、まさに私達が大きな刺激を受けている取り組みの一つです。このプロジェクトでは、メンタルヘルスに課題を抱える人々と考古学の専門家、精神科医が連携し、ストーンヘンジのような歴史的な遺産に定期的かつ計画的に関わることで心の健康に良い影響があることが、明確に示されました。アート・セラピーはすでに多くの方がご存じかもしれませんが、それに加えて最近注目されているのが、文化遺産セラピーという新しい概念です。
現在のイギリスでは、メンタルヘルスの危機に加えて、芸術文化への公的支援の不足という深刻な問題も抱えています。アーツカウンシル・イングランドの最高責任者であるダレン・ヘンリー氏は、こうした現状に対して、『The Arts Dividend』という2冊の素晴らしい短い本を執筆しました。彼は本の中で「アート・ディビデンド(芸術の配当)」という概念を紹介し、芸術や文化へのアクセスが国民全体にどれほど大きな恩恵をもたらすのか、七つの観点からわかりやすく説明しています。その恩恵は経済的な効果だけでなく、社会的・文化的な面にも及びます。
もちろん、「幸せ」という概念は、日本にとって新しいものではありません。たとえば、森美術館で最初に開催された展覧会のテーマは「ハピネス」でした。J-POPグループにも「Happiness」という名前のグループがありますし、押見修造さんのマンガにも『ハピネス』という作品があります。もっともこのマンガ自体はそれほど「幸せ」な内容ではないかもしれません。また、国際交流基金も、「幸せ」をテーマにした展覧会をアジア各国で開催してきました。そして、皆さまご存じの七福神の中には福禄寿という神様がいらっしゃいますよね。福禄寿は、「幸福」「知恵」「長寿」の神様であり、これらが密接に結びついていることを象徴しています。ちなみに、ダライ・ラマ法王も「幸福」についての著作を残されています。もちろん、多くの日本人作家達も「幸せ」というテーマに真剣に取り組んできました。今回このスピーチを準備する中で、「幸福学」を専門とする学会が存在し、なんと2025年にはニューオーリンズで国際会議が開催されると知ってとても嬉しく思いました。ご興味のある方はぜひ参加を検討してみてください。
ここで、学術的な話に戻ります。(動画の20:06~20:05参照)アメリカ・テキサス大学オースティン校の進化心理学者、デイビッド・バス氏は、2000年に『American Psychologist』誌に非常に興味深い論文を発表しました。彼は、幸福という概念を異文化間で比較し、人生の質を高めることを妨げる要因、すなわち「グローバルにおける幸福の障害」は何か?という点を考察しています。特に印象的だったのは、彼が示した「現代環境」と「祖先的環境」のギャップです。この「祖先的環境」とは、まさに私が考古学者として研究しているような、はるか昔の人々が暮らしていた環境のことを指しています。もっとも、こういったアカデミックな論文を読むことが、私達研究者自身の「幸せ」につながるかというと、ちょっと疑問が残ります。また、多くの方にとって、「博物館に行くこと」が必ずしも幸福感を高める手段であるとは思われていないかもしれません。
しかし、私はある展示に強く心を動かされました。それは、福島県立博物館での展示です。この博物館の館長(館長職は2020年3月末まで)であった赤坂憲雄先生が縄文時代の竪穴住居について、非常にユニークな展示を作られていたのです。今回の東京滞在中に多くの方々とお話をさせていただく中で、誰かが「日本人は竪穴住居の復元にもう飽きてしまった」とおっしゃっていましたが、赤坂先生は、竪穴住居をアート作品として再解釈したのです。屋根には花やカラフルな装飾が施され、それを見た人々の心を明るくするような美しい空間に生まれ変わっていました。右側の写真に写っているのは、竪穴住居そのものではありませんが、よく似た形をした現代アートのインスタレーションです。これはChim↑Pomなど、日本の現代アーティスト達による作品です。もしかすると、ここに何か重なる部分があるのではないかと思うのです。あの素朴な竪穴住居にもまだまだ希望があるのかもしれません。
私は昔から、日本における考古学遺産の現代的で創造的な活用法に深い興味を持ってきました。(動画の22:22~24:14参照)ご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、私は特に火焔型土器に目がないのです。実は、2021年の東京オリンピック・パラリンピックにおいて、國學院大學の小林達雄教授と一緒に、聖火台を火焔型土器の形にしようという提案を進めていました。残念ながらそのアイデアは採用されませんでした。もしオリンピックスタジアム自体を新潟に建てていれば、話が違ったかもしれませんね。
先ほど少し触れましたが、現在私達はデジタル分野でも興味深い取り組みを行っています。この研究は、新潟国際情報大学の藤田晴浩教授を中心に、私も共同研究者として関わっています。とはいえ、論文のタイトルの意味は、私自身も完全には理解していません。また、新潟県歴史博物館の学芸員である宮尾徹さんとも一緒に仕事をしています。彼は火焔型土器の本場ともいえる新潟で活動しています。藤田教授や宮尾さん達は、火焔型土器の3Dスキャンを行い、そのデジタルデータを用いてVR技術を活用しながら、学生達が「土器を見たときにどう感じるか」を研究しているのです。リラックスするのか、緊張するのか? 楽しい気持ちになるのか、どこか沈んだ気持ちになるのか? 感情の変化を数値化するスケールを用いて、非常に興味深い研究が進められています。
ここからは、私達がこれまで取り組んできた中で、確実に人々の「幸福感」や「ウェルビーイング」に良い影響を与えてきたプロジェクトをいくつか簡単にご紹介します。(動画の24:15~27:46参照)私達はこの一連の活動を、「英国考古学のグローバルな視点」と名づけました。具体的には、イギリスにある考古遺跡とそれに対応する日本の遺跡を比較しながら、研究・展示を行ってきました。中でも特に印象的だったのが、直径2メートルもある巨大な地球儀型の展示物で、特別な車両を用いなければ各地へ運べないという、ある意味非常に扱いにくい展示物でした。このプロジェクトで選ばれた遺跡の一つが、グライムズ・グレイヴズという場所です。今からおよそ5000年前の新石器時代に使われていた火打石の鉱山で、私達の研究所のあるノーフォークにあります。私達は、このグライムズ・グレイヴズと、長野県にある星糞峠の黒曜石鉱山とを結びつけて、世界初の「姉妹遺跡提携」を実現させました。これまでに100名以上の日本の学生と100名のイギリスの高校生が、互いの遺跡を行き来しながら交流してきたことはこのプロジェクトの成果です。その過程で、彼らは「考古学英語」と「考古学日本語」を学び、言葉と文化の架け橋となっています。
私が特に日本で感銘を受けたのは、全国各地で行われている数多くの「考古学フェスティバル」の存在です。こちらは、長野県の長和町で毎年8月に開催されている黒曜石フェスティバルの様子です。写真に写っているのは、長和町の羽田健一郎町長。おそらく日本でいちばん「縄文愛」にあふれた町長さんです。このイベントにも重要な意味があります。イギリスから参加している学生達の多くは、いわゆる不安定な家庭環境といった背景を抱えている子ども達です。そうした学生にとって、考古学クラブは安心できる場所であり、心の拠り所のような存在です。クラブ活動の中で、自分達で企画したさまざまなイベントを実現させています。
一方、日本の学生達には別の課題がありました。それは「地方の過疎化」です。高校はすでに閉校しており、地元の高校には通えなくなってしまったため、学生達は近隣の上田市まで通学しなければなりません。そこで、羽田町長は考えました。自分達の町にある考古学遺産が国際的に高く評価されていることを示せば、若者達がふるさとに誇りを持ち、これからも故郷に関心を持ち続けてくれるのではないか? そんな思いから、この取り組みは始まったのです。
そして、この交流を記念して特別なアート作品が制作されました。このアート作品には、イギリス・ノーフォークの火打石と長和町の黒曜石が使われ、現在、長和町の新しい庁舎の壁面に飾られています。これは、イギリスと日本、両地域の人々にとって誇りと幸福の象徴であり、もっと多くの方々に知っていただく価値のあるものだと思います。このような草の根レベルの国際交流を支えてくださっている東芝国際交流財団、日本財団、大和日英基金、笹川平和財団英国事務所、そして国際交流基金、これらの団体からの温かいご支援に感謝申し上げます。
スピーチの準備をする中で、世界幸福度報告書というものに出会いました。(動画の27:46~29:07参照)それによると、イギリスは世界で第21位という結果でしたが、日本はなんと第50位という順位でした。これは、いったいどういうことなのでしょうか?
そのヒントの一つが、ウォルフラム・マンツェンライター氏とバーバラ・ホルトス氏が共著した『日本における幸福と良い人生』(Happiness and the good life in Japan)という本にあるかもしれません。この本は、日本における「幸福」を文化人類学的に考察した研究書です。今夜は時間の関係でこの本の詳細までご紹介することはできませんが、このテーマは、今後イギリスと日本の両国にとって非常に関心を持つべき重要な課題になると思います。そして、この「幸福」という概念そのものが、普遍的なものではなく、実は「文化的に構築されたもの」なのではないか、その可能性も考えられます。
もしあなたが幸せでないと感じるなら、その理由は「孤独」にあるかもしれないですね。実際、日本やドイツでは、「孤独問題」に対して政治レベルでの取り組みが始まっています。たとえば、日本やドイツでは「孤独担当大臣」が設置されており、今日の新聞でも、石破茂首相による新しい「幸福指数」の導入についての構想が紹介されていましたね。
残された数分で、私自身が本当に幸せを感じたプロジェクトを、もう少しだけご紹介したいと思います。(動画の29:08~31:16参照)
本日この場に、内田ひろみさんがいらっしゃることも大きな喜びです。彼女は15年前、私達が取り組んだ「縄文土偶プロジェクト」で一緒に活動してくださったメンバーの一人です。私達以外にも土偶が大好きな人はたくさんいます。たとえば、日本のノーベル賞作家、川端康成氏もその一人です。彼は、お気に入りの土偶のそばで多くの作品を書いたと言われています。
私達はある展覧会において、来場者の皆さまに「縄文人の感情や心のあり方を想像していただく」ことを試みました。来場者全員に現代版の小さな土偶を一つずつお渡しして、展示を見て回る間中それを手に持って歩いてもらったのです。縄文時代の土偶の多くは、意図的に壊されて地中に埋められていたことがわかっています。そこで私達は来場者の皆さまに、「この土偶を意図的に壊して、展示室の発掘トレンチに一部を残してみませんか?」と呼びかけたのです。この土偶は展示の一環として無料配布されたもので壊してもよかったのですが、実際に壊して一部を置いていったのは全体の20%未満にすぎませんでした。壊さずに持ち帰ろうとしている来場者に対して、博物館のスタッフが来場者にそっと声をかけて「土偶を壊して展示していってください」とお願いしたところ、「そんなことをしたらとても悲しく感じる」という声が多かったのです。つまり、現代を生きる私達にも「土偶に対する感情や思い入れ」といった縄文人に通じる感性があるのではないだろうか? そう感じました。
この会場にも考古学者の方が何人かいらっしゃると思いますが、私達考古学者にとって最も「幸せ」だと感じる瞬間の一つは、やはり「発見の瞬間」だと思います。何千年も地中に眠っていたものが私達の手で掘り出されて人類で初めて触れる瞬間、言葉にできないほどの喜びを覚えます。
この後のパートはいくつかの写真をご紹介しながら(動画の31:17~34:28参照)お楽しみいただきたいと思います。そして最後に、セインズベリー日本藝術研究所の仲間達のコメントでこのスピーチを締めくくりたいと思います。
これからお見せするのは、私がここ数年、縄文遺跡を巡る中で出会った、思わず笑顔になった瞬間の数々です。中でも特に嬉しかったのは、2021年、北日本にある17の縄文遺跡が世界遺産に登録されたことです。この出来事に触発されて、私達はイギリス・ノリッジにある研究所の近くで、「考古学とウェルビーイング」をテーマにしたプロジェクトを立ち上げました。スライドの赤い矢印が示しているのは、ノリッジ大聖堂です。そのすぐ前にプロジェクトの対象地があります。研究所からも歩ける距離にあるこの場所には、「イースト・アングリア版ストーンヘンジ」とも言える新石器時代の環状遺構が存在しています。このプロジェクトには、「Archaeology for Wellbeing at Arminghall Henge」という名前をつけました。私達はこの取り組みに対して、イギリスのナショナル・ロッタリー遺産基金から助成を受けました。なぜなら、ボランティア団体や、心の健康に課題を抱える人々、そして学校の生徒達と連携しながら行っていたからです。
このプロジェクトに参加してくれたグループのメンバー達は、「いつか日本を訪れたい!」という強い想いを持っていて、今まさにその実現に向けて計画を進めています。彼らはとても美味しいケーキを作ってくれます。写真のケーキは地層学の原理を表現したものです。また、ボランティアの皆さまには、できる限り毎日日記を書いたり、絵を描いたりしてもらいました。この絵は、日本の書道からインスピレーションを受けた作品で、実は「木製のヘンジを囲んで集まる人々」を表現しています。そして1年間で、石橋財団とイングリッシュ・ヘリテージ(English Heritage)の支援を受けながら、このアイデアを「ストーンヘンジ」での実際の展覧会に発展させることができました。そこでは、日本の先史時代のストーンサークルを紹介するとともに、なんとイギリス風にデザインした「ゆるキャラ」まで登場しました。
ストーンヘンジには、毎年150万人もの人々が訪れます。その多くは、「この場所には癒しの力がある」と信じてやってくるのです。そんな中、私達は縄文式土器や土偶の制作体験を、ボランティアテントで実施しました。このイベントは、開催何週間も前から完売状態になるほどの人気でした。そしてもう一つの「世界初」、ストーンヘンジで作られた火焔型土器が完成しました。さらに、国際交流基金のご支援のおかげで、ユーラシア各地のストーンサークルをテーマにした国際会議も開催できました。会場はストーンヘンジ近くの都市ソールズベリーにあるコミュニティセンターで、大成功を収めました。でも、私が個人的にいちばん誇りに思っている「世界初」は、展覧会の最終日に、日本の和太鼓チームをストーンヘンジに招いたことです。
この後は、言葉よりも写真でお伝えしたいことがあります。このスライド(動画の34:29~35:30参照)は翻訳なしでご覧いただきたいと思います。1週間ほど前、私は、研究所のスタッフやこれまで世界中で研究に関わってくれた元フェローの皆さまにメールを送って、「あなたにとって、日本の芸術や文化に関わる中で『幸せ』だと感じる瞬間を象徴する写真を1枚と、それを表す10語以内の言葉をください」とお願いしました。学者の中には、当然ながら10語では収まらず、もっとたくさん書いてくれた人もいました。私達のプロフェッショナルスタッフは、うまく言葉を凝縮してくれました。ここにお見せするのは、セインズベリー日本藝術研究所に関わるすべての仲間達からのメッセージです。そして、私達の活動を支えてくださっている国際交流基金の皆さまへ、25周年の節目にあたるこの年に、最大限の感謝を込めてお届けしたいと思います。
最後にひと言、このスライド(動画の35:31~37:22参照)について少しだけお話しさせてください。と言いますのも、これは私自身がとても気に入っている写真なのです。今年の5月、私達セインズベリー日本藝術研究所は、おそらくこれまでで最も素晴らしい1週間を過ごしました。奈良県桜井市の長谷寺にゆかりのある12名の僧侶の方々が、ノリッジを訪問してくださったのです。この素晴らしいご縁は、今日ここにいらっしゃる立石徹先生、そして長谷寺の僧侶、小林さんのご紹介によって実現しました。写真の僧侶の皆さまは、声明と呼ばれる仏教の読経・唱導の専門家です。彼らはなんと、日本最大級、高さ12メートルの掛け軸のレプリカを携えてイギリスまで来てくださいました。当初はこの掛け軸をノリッジ大聖堂に展示する計画だったのですが。残念ながらノリッジ大聖堂の司教さまはあまり乗り気でなかったようです。そこで私達は、展示場所をノリッジ市立図書館に変更したのですが、結果としてはこれが大正解でした。数千人もの来場者が訪れ、僧侶達の声明の響きに耳を傾けました。さらに、ノリッジ市内最大の教会では、とても印象的なコンサートが開催されました。そのコンサートでは、長谷寺の僧侶による声明とノリッジ聖歌隊による中世の聖歌が共演するという特別なプログラムが実現しました。赤い衣装の方々がノリッジ聖歌隊、そして美しい法衣を身にまとった方々が長谷寺の皆さまです。200人もの方がこの演奏を聴きに集まりました。牧師さん曰く「この教会に100人を超える人が来たのは記憶にない」ということでした。
先ほどのスライドにあったいくつかの写真とメッセージ(動画の37:23~37:43参照)は、セインズベリー研究所の公式ウェブサイトにも掲載予定です。国際交流基金への感謝の気持ちを込めた記録としても残したいと思っています。今回の長谷寺の僧侶の皆さまの訪問も、国際交流基金とグレイトブリテン・ササカワ財団の寛大な助成によって実現することができました。ちなみに、元フェローの皆さまの中には「日本文化と関わる中で得た幸せの象徴」として石鹸のバーを選んだ方もいらっしゃって(動画の37:44~37:59参照)、私はそれがとても好きです。
私にとっての幸せは、若い世代とともに活動できる機会にあります。(動画の38:00~38:40参照)たとえば「Japan Orientation Program」では、東芝国際交流財団と国際交流基金、特に国際交流基金ブダペスト日本文化センターのご支援を受けて、多くの学生達にノリッジのちょっと風変わりなアイデアに触れてもらう機会を提供することができました。私達の活動を支えてくださっているすべての皆さまに、心からの感謝を申し上げます。そして、最後に皆さまにお尋ねします。
いちばん幸せそうなのは、埴輪でしょうか? それとも土偶でしょうか?
本日はご清聴、誠にありがとうございました。
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Q:ケイナー先生は埴輪と土偶、どちらが幸せだと思いますか?
A:サイモン・ケイナー氏:非常に難しい質問ですね。両方、すごくハッピーだと思います。でも実は、みんなよく土偶が可愛いとおっしゃいますけれど、本当はちょっと怖いと思います。ですから、本当にハッピーなのは、埴輪の方じゃないでしょうか。
Q:ケイナー先生は40年前、日本の何に惹かれて来日したのですか?
A:サイモン・ケイナー氏:当時 私はケンブリッジ大学の考古学の学生でした。そして偶然、日本の考古学の専門家のジーナ・リー・バーンズ教授という先生の日本の考古学の講座がありました。それに興味がわいて、大学3年生の春休み、最後の試験前に4週間くらい、バーンズ教授と2~3人の学生と一緒に来日して、奈良盆地で弥生時代の畑の痕跡を見つけるためのボーリング調査をするという研究プロジェクトに参加しました。3月の奈良はちょっと寒かったのですが、調査の最後の頃には桜が咲いて花見もできました。その後 日本の博物館で考古学の専科家の方々に初めてお目にかかったのです。来日前の2年間は写真やスライド、古い本だけで見ていましたので、本物を見て「これは素晴らしい」と思いました。その後もすごくいい経験があって、当時は「JETプログラム」の前の「BETプログラム(British English Teachers)」があったので、イギリスに帰ってその試験を受けて、試験はあんまり良くなかったのですが BETプログラムに申し込んで、2年間 兵庫県の丹波篠山の高校で、英会話の教師をやるという、すごくいい機会がありました。最初の頃は特に計画はなかったのですが、少しずついろいろな機会があって、日本のことを研究してきました。
セインズベリー日本藝術研究所は、ロバート・セインズベリー卿ご夫妻の資金援助により、1999年に設立された日本の藝術・文化に関する調査・出版・交流のための研究機関であり、現在ではこの分野に関する欧州最大の研究機関の一つにまで発展しています。本研究所にはフェローと日本を含む世界からの客員研究員がこれまで多く在籍し、設立以来90名を超えました。また、イースト・アングリア大学との教育連携により学際日本学修士課程を設置したり、5万冊以上ある図書館の史資料のデジタル化も進めたりしています。さらに、近年では、考古学やマンガ・アニメなどにも関心領域を広げる柔軟性を示すなど、今後も欧州における日本研究の中心機関としての活躍が期待できます。
専門は考古学。ケンブリッジ大学で博士号取得。京都大学大学院への留学経験を持ち、縄文土器を研究するとともに、日本の縄文文化を世界に紹介。同研究所考古・文化遺産学センター長、及びイースト・アングリア大学日本研究センター初代所長も務める。 外務大臣表彰(2024年)、宮坂英弌記念尖石縄文文化賞(2011年)受賞。