展覧会を「開く」のは、風景を、未完にするため

保坂健二朗(東京国立近代美術館主任研究員)






 「未完風景(Unattained Landscape)」展が開催されているパラツェット・ティトは、いかにもヴェネツィアらしく、入口が運河(沿いの道)に面していて、しかもその扉は、日中は開け放たれていた。それゆえに、自然な感じで入ることができるのだが、足を踏み入れた私は、少し驚いた。部屋のほぼ真ん中を黒い壁が雁行していて、そこには次のような文章が白抜きで大きく書かれているのだった。

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(左)会場のパラツェット・ティト Plazetto Tito, Fondazione Bevilaqua La Masa
(右)Installation view: David Peace, Occupied City, 2009


占領都市にて
この都市は棺桶である。
この都市はノートブックである。
この都市は煉獄である。
この都市は大厄災である。
この都市は不幸の元凶である。
この都市は物語である。
この都市は市場である。
(後略)

 ここで語られている「この都市」とはどこのことか。ここヴェネツィアのことか。それとも......(ちなみにこのテキストは、デイヴィッド・ピースの小説からとられている)。読みながら進むと、なぜかそこには黒い暖簾のようなものがかかっていたりすることにも静かに驚かされる。ヴェネツィアではまず見ることのない、柔らかな結界。「奥」へと、あるいは「異界」へと進んでいるのだと、感じられてくる。けれど、奥にある階段を使って上階にたどりつくと、そこにあるのは、陽の射し込む、明るく大きな部屋だった。

 展覧会の導入部分のありようを丁寧に書き出してみたのは、この展覧会が周到にデザインされていることを伝えたかったからである。
 今回のキュレーター・チームには、現代美術センターCCA北九州のプログラム・ディレクターである三宅暁子とともに、建築家でありアーティストでもあり、そして時にはキュレーションも手がけるディディエ・フォスティノも名を連ねている。2008年の横浜トリエンナーレの時に「来日」したモバイルな展示室「H BOX」の設計者と言ったらわかる人もいるだろう。
 そのフォスティノは、今回、展示室のレイアウトだけでなく、結晶のような形をした木製の構造物をもデザインし、展示室内に置いた。そしてそれを「ストレンジ・アトラクタ」と呼んだ。カオス理論で使われるこの言葉は、単純化して言えば、カオスを生み出す要因は、極めて小さな要因でもかまわないということを意味する際に用いられる。蝶のはばたきが台風を生むという、あの説のことである。
 そう、そんな「ストレンジ・アトラクタ」の存在を、いかにして社会のうちに見つけ出し、認め、許容していくことができるか。かつまた、そのようなプロセスを、いかにして、継起的・断続的に発起させていくことができるか。それがこの展覧会の投げかけようとしているメッセージにほかならない。

 フォスティノと三宅は、カタログに収められた「イントロダクション」を次のようにはじめている。「文化的アイデンティティが実質的に意味を持つようになるのは、いつか? どのようにして、文化的アイデンティティとナショナル・アイデンティティ(国民性)は、オーバーラップするのだろう? 国家のアイデンティティ(nation's identity)が、他者との関係性において自らを構築するべく、その境界線を越え出てゆくのは、どのようにしてだろうか? こうした疑問のすべてが、この『未完風景』展の中核を成している」。つまりこの展覧会は、「こうした疑問」に対する回答として企画され実現されたわけだ。

 展示室に戻ろう。部屋に陽が射し込んでいるのとは対照的に、展示作品には、むしろ「闇」を孕んだものが少なくない。たとえば大きな明るい部屋の中には、漫画が大きく引き延ばされて展示されているのだが、それが描くのは、たとえば、煙をあげる都市の風景だったりする(奥浩哉の『GANTZ』のワンシーンだ)。同じ部屋の壁には、ある夜に見た夢を書き記した、小さなドローイングが掛かっていたりする。「兄弟がアムステルダムでアメリカ人から核バンカーを購入した......」という不思議な内容は、マリナ・アブラモヴィッチならではと言えるだろうか。

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Installation view: Hiroya Oku

 この中央にある大きな部屋からは、いくつかの部屋に進むことができる。右手だと寺山修司のポスターと映画。まっすぐだと米田知子の写真。左斜めだとサイモン・フジワラのインスタレーションというように。米田の部屋とフジワラの部屋はつながっていて、また、フジワラの部屋から更に左手に進むと、小泉明郎の映像インスタレーションの部屋に至る(でも行き止まりだ)。

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Installation view: Shuji Terayama

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Installation view: Yoneda Tomoko, From the series "Japanese House," 2010

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Installation view: Simon Fujiwara, Letters from Mexico, 2011

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Installation view: Meiro Koizumi, Death Poems for the Living Mouth of Tokyo, 2013

 つまり、中央の大きな部屋を中心点として、一方の極に寺山、もう一方の極に小泉があり、その間に(しかし少しずれた感じで)米田とフジワラの作品が並んでいるということになる。もう少し具体的に言えば、1960-70年代の、エロティックでグロテスクな、しかし今見るとどこかあっけらかんとした感じもする寺山の世界が一方にあり、もう一方には、グローバル化を可能としたドライなテクノロジーをフィルターとして----澱としてなのか、それとも濾過された液体としてなのかがわからないところが興味深いところだが、とにかくそうやって----生まれてきた、陰湿さすら漂う今現在のエロ・グロを抽出する小泉の作品がある。そして、そのふたつの異質なエロ・グロな世界の間に、台湾における日本家屋(米田)や、スペイン語圏における同性愛者たちの歴史(フジワラ)といった、同化と異質をめぐる作品が、挿入されている。その結果、展覧会は、求心性と遠心性の双方を孕んだまま、少しずつ開かれていく。

 この展示方法は、きっと意図的だろう。フォスティノと三宅は、テキストにおいて次のように述べている。「ハイブリッド化や、正反対のものや、限界を極限まで押し進めていくことに対するこの[日本に特徴的な]キャパシティは、ある意味、すべての芸術の特徴でもあると言えるだろう。そのキャパシティは、人口に膾炙している真実を受け入れる代わりに、多くの規律を学習することを要求し、その果てに、複数の見解を持つ新しい世界、すなわち新しいアイデンティティを生み出すだろう。しかし、ストレンジ・アトラクタの効果が示すように、この新しいアイデンティティはまた、他者性によって、つまり他者とともに、あるいは他者を通して、構成されるのである。」両極性を持つ世界のうちに、異質な見解を複数介在させていくこと。それは、アートの特性であると同時に、本来は、日本の文化の特徴でもあるのだ。

 この展覧会のタイトルを思いだそう。それは「Unattained Landscape」、日本語では「未完風景」となっていた。「未完」である「風景」とはどういうことなのか。それはきっと、風景と、それを成立させる視点(パースペクティヴ)との問題に関わるのだろう。エルヴィン・パノフスキーの著作を引き合いに出すまでもなく、私たち人間は、あるひとつの視点(パースペクティヴ)によって構成される風景を、象徴として求めてしまう生き物である。だからこそ、風景は、たとえば富士山がそうであるように、ナショナル・アイデンティティとして強力に機能してきた。
 しかし、それは現実ではない。現実を見れば、そこにはひとつの確固たる視点など存在しえないことがわかる。異質な要素がそこここに(自分のうちにも)転がっていることがわかる。そうした事実を認めていくこと。あるいは、そうした事実が見えにくいのであれば、むしろ強調していく努力をすること。風景を、複数の視点のうちに分散化していき、未完のものへと描き換えていくこと。そう、まるでセザンヌのように......
 むろんそのとき眼の前に現れるのは、散漫さや冗長さを伴った景色かもしれないが、それを「新しい世界」として受け入れていくささやかな勇気が大事なのである。この「未完風景」展は、まさにそうしたリスクを自覚的に引き受けつつ実践してみた展覧会であった。拍手を送りたい。

(会場写真及び筆者近影 いずれも撮影:木奥惠三)





unattained_landscape01.jpg 保坂 健二朗(ほさか けんじろう)
東京国立近代美術館主任研究員
1976年生まれ。慶應義塾大学大学院修士課程修了後、2000年より現職。企画した展覧会に「エモーショナル・ドローイング」(2008年)、「建築はどこにあるの?」(2010年)、「イケムラレイコ」(2011年)、「Double Vision: Contemporary Art from Japan」(2012年、モスクワ近代美術館ほか)、「フランシス・ベーコン展」(2013)など。月刊文芸誌『すばる』、朝日新聞にて連載。




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