日本との出会いから四半世紀、日本語教育で博士号を取得するまで

フランキー・ナヨアン(インドネシア・マナド国立大学専任講師)



 国際交流基金では、世界各国の日本語教育指導者のリーダーとなるべき人材を育成するため、政策研究大学院大学と連携して、現職の日本語教師を対象とした大学院レベルのプログラム、「日本語教育指導者養成プログラム」(修士課程)と「日本言語文化研究プログラム」(博士課程)を実施しています。
 2013年3月、マナド国立大学講師のフランキー・ナヨアンさんが、日本言語文化研究プログラムを修了し博士号を取得しました。
 マナド国立教育大学(当時名称)日本語教育学科で日本語を専攻する一学生だったフランキーさんが、30年弱を経て、インドネシアの日本語教育を牽引するにまでになったきっかけには、学部時代の恩師である助川泰彦東北大学教授をはじめ、様々な人との出会いによることを語ってくださいました。
(聞き手:横山紀子・日本語国際センター)

* なお、本記事の最後には、助川教授からお寄せいただいた当時の逸話も収録しています。



教師も苦手とする音声指導
 私の研究テーマは、「インドネシア語話者に対する日本語教育における音声指導の効果-母音の長短とアクセントに焦点を当てて-」です。インドネシア語には、アクセントによって意味を弁別する機能はありません。また、母音の長短によって言葉に差異化を図る機能もないので、インドネシア人が日本語を習得するにあたって難しいのは、日本語の母音の長短とアクセントではないかと考え、その上での効果的な指導法はどのようなものがあるのだろうかというのが、研究の出発点となりました。
 私自身、教師として発音指導に興味があり、また、インドネシアでは日本語の音声教育に関する研究もあまりなかったので、それならば自分がと思い、まず東京外国語大学大学院で音声指導の研究で修士号を取得しました。修士研究では、特に日本語のアクセントの指導法を研究しましたが、研究を進めるうちに、音声指導の問題はアクセントだけでなく、日本語の母音の長短にも大きく関係しているという問題意識につきあたりました。
 研究を進めるうちに、外国語として日本語を学ぶにあたって、インドネシアでは音声教育があまり行われていないことが分かりました。また、外国語を教授する者が持つべき専門性は多岐に渡っていますが、音声に関する知識を十分に持っている教師も少ないということも分かりました。
 母語ではない日本語の音声指導は、インドネシア人教師の多くが苦手意識をもっており、かといって知識を学んだり、技能を磨く時間もない、そのため、学校現場でも学習者に対する発音指導や音声指導にあまり時間が割かれない、インドネシアの学習指導要領でも、音声に関する項目について定めがないなど、インドネシアの日本語学習現場で音声教育が重要視されない様々な原因があぶりだされました。

 インドネシアには多くの日本語学習者が存在し、またそれを教えるインドネシア人の日本語教師が多数存在しています。全ての教師が音声指導の専門技能を身につけるのは困難なので、私は、普通のインドネシア人日本語教師でも気後れせずに音声指導ができる教授法について研究することにしました。「普通の」というところがポイントで、卓越した教師でなくても実践できることで、より多くの学習者がより平均して効果的な指導を受けられるようになることが大事だと考えました。
 具体的には、協働学習(collaborative learning)、より正確に言えば、学習者同士が互いの力を発揮し協力して学ぶ「ピア・ラーニング」の概念を取り入れて考えてみました。自らの発音に自信がないインドネシア人教師は、自身が発音のモデルを示したり、学習者の発音を矯正したりするのが苦手です。また、大人数を相手に授業を行なう学校現場では、一人一人に発音させ、フィードバックを与える時間が十分にありません。
 そこで、発音モデルはすべて録音に任せ、発音練習を学習者同士のピア・フィードバックに委ねることにしたのです。つまり、それぞれの学習者が、相手の学習者の発音に対し、録音のモデルと比べながらフィードバックする方法を試みました。
 日本語教育の現場において、発音指導は、インドネシアだけでなく、実は他の国でも決して盛んに行われているとは言えません。というのも、音声に関する指導は、音声の専門的な知識やトレーニングの技能がかなりないと、指導者自身が自信をもってできないところがあり、割りと遠ざけられてきたところだと思います。例えば、日本の学校現場での英語教育で、日本人の英語教師が、英語の発音指導にあまり積極的ではないというような状況を考えていただければと思います。


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日本語国際センターにて


インドネシアの日本語教育の向上を目指して
 いくら自信がないとはいえ、少なくとも学習者よりはできるはずの教師が介入するのではなく、学習者同士にピア(peer:仲間)として、発音のフィードバックをさせようという試みは大変思い切った考え方でした。この仮説を実証するために、インドネシアに一時帰国し、インドネシアの先生方の協力を得て一学期に渡り、実験授業を行ないました。授業全てを特別なものにしてしまうと、「普通の」教師が後々実践することが難しくなるので、授業の一部、10分程度を、このピア活動に充て、学習者同士の音声指導にも十分効果があることを示すことができました。
 入門レベルの学習者であっても、母音の長短の違いは「この発音は違う」「今の発音は短い」など聞いてすぐに分かります。また、アクセントについても「何か違うな」というような判別はできました。それだけでなく、ピアの相手の発音を聞いて、何がモデルと違うのか、それをどのように相手にフィードバックすれば伝わるかを考えることで、有効な学習効果が見られました。他人の発音の間違いに気づくことは、自分の発音に対しても意識が高まることなのです。
 仮に、独習で、自分の発声を録音して点検してみなさいと言っても、恐らく実際にはなかなか実践されませんから、やはり聞き手がいるということ、少なくともピアが学習の鏡になることができるというのは、大事なポイントでした。
 学習者同士が互いにフィードバックするので、教師の役割は、学習者同士の活動が円滑に進むように授業をデザインすることです。もちろん、いきなり学習者同士で互いにフィードバックを与えるのではなく、上手にできるように、ピア活動のための事前の練習が必要になりますが、ピア活動を音声指導に取り入れることに、これだけの効果があるということを示すことで、どんな教師でも実践できることを検証できたことが、政策的にも大きな意味を持つのではないかと思います。
 今回、私が博士号を取得した研究成果をインドネシア全体に還元するためには、インドネシアの日本語教育推進の多様な担い手と連携をする必要があります。インドネシアの日本語学習者の大半は、第二外国語として日本語を学ぶ高校生です。その学習指導要領、カリキュラム、教科書や教師研修など教育政策に責任を持つインドネシア教育省、またそれらを支援する国際交流基金、また実践向上の機会を提供しているインドネシア日本語教育学会や、高校や大学レベルの日本語教師会など様々なネットワークを有機的につなぐことが大事です。


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執筆に励む筆者


博士論文をまとめるまでの道のり
 「日本言語文化研究プログラム」に入学するため、2008年の秋に単身で来日してから、博士号を取得するまで4年半かかりました。博士論文を完成させるのに、5~6年かかる例も少なくないので、特に遅かったわけではありませんが、すでに本務校であるマナド国立大学の日本語学科の中堅教員として、また4人の子どもの父親である家庭人としても、負担は小さいものではありませんでした。
 最初の3年間は、国際交流基金からのフェローシップで支えられましたが、その支給上限期間を過ぎた後の1年半は、財政的な基盤という面で苦労をしました。年齢の関係で、日本国内の民間財団の留学生向け奨学金を取得するのが非常に難しく、いろいろなアルバイトをしました。ゼミや指導教官との面談など学問を最優先にした結果、夜勤のアルバイトでした。だから、いつも眠くてしょうがない。でも、やるしかないと思いました。最終的には、日本学生支援機構の奨学金を得ることができ、また、政策研究大学院大学の配慮で、ティーチング・アシスタントの仕事も得るなど、安心して論文を書くことができました。
 研究に専念する環境が整っても、やはり論文執筆に入ってからが一番大変でした。データの整理にも時間がかかりましたが、データが揃って書き始めてからも苦労しました。博士論文として学術的な水準を満たすには、納得が得られる分析と説明をしなければなりません。自分の能力で果たしてできるのだろうかと頭を抱えた時期もあります。やはり博士号を取る、世界に通用する研究をするためには、あらゆる文献に当たらなければなりません。特に言語教育の先行研究は、英語の文献が多く、それを多数読みこなさなければなりません。論文は日本語で書きましたが、私にとっては英語も日本語も第2言語なので、英語の文献で得た知識を、日本語でまとめる、つまり、第2言語でのインプットを、別の第2言語でのアウトプットへ換えるという作業はかなり大変でした。幸い指導教官に恵まれて、やり遂げることができました。
 私の電子メールアドレスは長いものですが、一度見たら忘れないものです。東京外国語大学の修士課程のときからずっと使っていますが、「akiramenai franky@」、つまり、「あきらめないフランキー」です。修士課程の時も大変だったので、あきらめかけるたびに、もう駄目だと思って誰かにメールを書くのです。そうすると、akiramenai franky宛に返事が返ってくる。そのたびに、「あきらめないんだ」と自分を励まして来ました。今は博士論文というゴールを達成したので、次に「あきらめない」のは生涯に渡って研究を継続すること、そして、インドネシアの日本語教育に尽くしたいと思っています。

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学位授与式





quarter_century_japan01.jpg フランキー・R・ナヨアン Franky Reymond Najoan
インドネシア・マナド国立大学専任講師
1964年生まれ。1987年マナド国立教育大学日本語教育学科卒業と同時に、同大専任講師として日本語教育にかかわる。その間、日本語教育指導者としての研鑽を積むために、国際交流基金日本語国際センター日本語教師長期研修(1991-92年)及び上級研修(2007年)、東京外国語大学海外教員研修(1994-95年)などに参加。また、東京外国語大学大学院で修士号、国際交流基金・政策研究大学院大学連携日本言語文化研究プログラムで博士号取得。専門分野は、日本語教育、音声学・音声教育、第二言語習得研究












 フランキーさんが音声に興味を持った背景には、1986年に国際交流基金の派遣専門家として初めてマナド国立教育大学に派遣された助川泰彦先生の存在がありました。
 マナド国立教育大学(現在は、総合大学化してマナド国立大学)は、当時から東部インドネシアの中核的な高等教育レベルの日本語教育機関で、現在の同大学日本語学科長も助川先生の指導を受けているなど、国際交流基金の日本語専門家の仕事が、30年近くを経て、インドネシアの日本語教育を担う人材として結実しています。今回のフランキーさんの博士号取得にあたり、当時の思い出をお寄せいただきました。



東部インドネシアの日本語研究の夜明け

助川泰彦(東北大学国際交流センター教授)



 私は1986年7月から3年間マナド教育大学(マナド大学の前身)に日本語教育専門家として派遣され、学生時代のフランキーさんと出会った。
 当時の同大学の日本語学科は様々な事情から、インドネシアでの日本語教育先進地域のジャカルタ、バンドン、スラバヤの3都市の大学と比較すると非常に多くの困難な問題を抱えており、学生たちにとって日本語を学ぶ環境は極めて厳しかった。何よりも教える立場の教員自身が日本語を正確に習得していないため、発音、用言の活用、文型などがことごとく誤って教えられていたのだ。
 例えば、「日本と同じです」という文の語順を知る教員は一人の日本留学帰りの畜産学専門家の非常勤講師しかいなく、教室では「オナジトニホンデス」という文型が教えてられていた。単語の発音や表記も同様で、例えば「郵便局」は「ゆびんきょうく」と教えられていた。私の仕事は彼らが誤って憶えた日本語を消しゴムで消して上書きをすることから始まったのだ。
 その中でフランキーさんは綺羅星のごとき学生だった。私の指摘することを全て正確に理解し憶え、瞬く間に成長していった。東京外国語大学への留学を経て、政策研究大学院大学博士後期課程に留学を希望すると聞いたとき、彼の日本語研究に対する情熱が学習開始から30年近くが過ぎても変わらないでいることを非常に嬉しく思うと同時に、首都のジャカルタから2,000キロという地域的ハンディキャップを負うマナド大学が、近い将来に東インドネシアの日本語教育と日本語研究の中心地に生まれ変わることを夢見たのだった。
 他の東南アジア諸国と同様、インドネシアでは中心都市と地方都市の格差が大きい。経済面で言えば資本の70%がジャカルタに、20%がスラバヤに集中し、残りの10%が他の地域に分散しているとも言われる。彼が博士号を取得し研究者として国際的にデビューしたことはインドネシアの日本語教育の将来にとって計り知れない意義を持つ。フランキーさんの研究の成就を祝福するとともに、東部インドネシアの日本語教育と日本語研究の発展を願ってやまない。



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